第17話 光
五月も半ばにさしかかり春の陽気と言うには少々暑すぎる日が続いていた。
市営の公園墓地の一角には立ち尽くす柴田の姿があった。柴田は何を語るでもなく、何を語ってくるでもない墓石をただ時間の許す限り見つめていた。暑さに我慢出来ず、ネクタイを緩めワイシャツのボタンを一つ外す。
「……お前みたいな馬鹿は一人で十分だ。俺が終わらせてやる。心配するな」
手にしていた菊の花束を墓石の両側の花立てにそれぞれ供えた。手を合わせるでもなく、彼なりの挨拶を済ませた柴田は墓地を後にした。
側乗教育も残すところ残り一週間となった。泣いても笑っても八日後には〝第二見極め〟最終試験が待っていた。
今日から往路も復路も今日子が運転することになっていたのだが、肝心の本人はまだトンネルの中をさまよっており、今ひとつ冴えない表情で本日乗務予定のバスを目指していた。
「325……325……あった」
須賀に偶然出会ってから今日まで、あの夜の言葉が励みになってはいたものの、状況は相変わらずで今日子を苦しめていた。路上の一般車はバスに対して非協力的だったし、乗客との距離も縮まらないままだった。
須賀との約束〝心を閉ざした運転士にはならない〟を胸に前向きになろうと努力はしていたのだが、日々をこなすうちに『こんなもんだよ』と半ば諦めた方が自分の心が楽なことに気づいてしまったのだ。
このまま行けば須賀と約束した反対の結果になってしまうのは明白で、情けない想いに胸が押し潰されそうだった。
皮肉にも乗務の方だけは日を追うごとに上達して行くのが実感出来た。肝心な〝気持ち〟を置きざりにして、手先だけ器用になっていく自分がなんだか許せない気持ちだった。
そもそもこんな気持ちのままなんとなく運転士になるのなら、なる意味があるのだろうかと自分の原点に対して疑問を持ち始めているのも事実で、仮に合格出来たとしても運転士を続けていく自信は今の今日子には無かった。
「もし辞めるんだとしたら……教官との約束も破ることになるな……」
今日の乗務予定のバスを見つめながら今日子はため息と共に無意識に呟いていた。
「何悲劇のヒロイン気取って黄昏れてんのよ」
誰かに声をかけられたと同時に耳元に息を吹きかけられた。
「ひ、ひゃぁ!」
全身に悪寒が走ると共に今日子は振り返った。そこには今日子より背が高く、長いロングの髪をまとめずにそのままにした女性が立っていた。
「……あ」
ワイシャツにベストとネクタイ。女性運転士は下着のラインが透けて見えてもいけないので、ベストの着用が義務付けられている。いつか島崎と若月の話題の中に出てきた。そう確か――
「何度かすれ違ってるけど、こうして話すのは初めてだよね。アタシ、松下早苗。ヨロシク」
早苗は腕を組みながら口元を上げて挨拶をした。目鼻立ちがくっきりした美人で、きつい印象を受ける。濃いめのメイクが印象的だった。
「あ……は、はじめまして! 高梨今日子です。よろしくお願いします」
今日子が頭を下げると、早苗はいきなり下げた今日子の頭を両手で掴み勢い良く上に戻した。
「!……?」
「毎日毎日日替わりでオッサンら相手に頭下げてきたんでしょ? アタシの時もそうだったけど、めちゃめちゃ気ぃ使ったでしょ……今日だけはするな。
アンタ気づいてないかも知れないけど、死にそうな顔してるよ? ちゃんとご飯食べてんの?」
いきなり想像もしていなかった展開に今日子はどう返していいのかわからなかった。けど、心配してくれているのは十分伝わったので、そこだけは素直に嬉しかった。ちょっと怖かったけど……
「あ、ありがとうございます……そんな酷い顔してますか?」
今日子は自分の頬に手を当てて愛想笑いを浮かべた。確かに入社時より四キロ痩せていた。
「うん。死相が出てるよ……新しい成り手がいなくて運転士の高齢化も深刻な問題だけど、毎日日替わりで〝オヤジ〟らの顔拝ませられるってそりゃ拷問でしょ。全く、会社も少しは考えればいいのにさ」
あまり気にしていなかったのだが、早苗の言う通り今日までお世話になった先輩運転士は中年かそれ以上の年齢だった。バス業界の高齢化……確かに入社してから若い人にほとんど出会っていない。
「アハハ……い、言いすぎですよぉ」
「ふん……ま、アタシとの時は気楽にやって。先輩らの間でアンタ辞めるんじゃないかって噂になってんだから」
思いもしていなかったことを急に言われて焦る。
「え? わ、私がですか?」
早苗は点検に取りかかりながら言った。
「アンタはそんなつもり無いかもだけど、毎日げっそりした顔でうろうろしてりゃ誰だってそう思うんじゃないの?」
今日子も慌てて点検の手伝いを始める。
「……そんな風に見えてたなんて……すいません」
自分の今の心が外側に滲み出ていたのだろうなと、今日子は恥ずかしくなった。
早苗との乗務は〝鹿島線〟の往路からスタートした。松江営業所が受け持つ路線はどれも距離が長いのだが、その中で鹿島線だけは一番距離が短く、最短の乗務時間で終点に到着する。
しかし、発電所がある関係で朝晩だけはどの路線よりも一番の利用客の数を誇っており、この日も朝から発電所へ向けて出勤する乗客で賑わい、松江駅で出発時間を待つ車内は既にほぼ満車状態であった。
浮かない顔で発車時刻を待つ今日子。そんな今日子の様子など気にも留めないかのように、早苗は傍らに立ち鼻歌を歌いながらリズムをとっていた。
「あら! 今日は早苗ちゃんかい? こりゃまた朝っぱらからツイてるわぁ」
一人の中年女性が乗車するなり早苗の姿を認めると笑顔で言った。
「あ! おばさん久しぶり~会いたかったぁ」
早苗は投げキッスをする素振りを見せる。
「あらやだ。嬉しいわぁ」
車内は所々笑いに包まれ和やかな空気が漂う。今日子は早苗のジョークに戸惑いを覚えながらも発車時刻が迫っていたので何も言わなかった。
「今日は私がアナウンスするから。アンタは運転に集中しときな」
早苗は今日子の制帽からマイクをひったくる。
「え? でも」
「いいからいいから」
発車時刻を迎えた早苗のバスは松江駅を出発する。一つ目の停留所。早速乗客が待っていたので停車する。しかし、いつものことなのだが先を急ぐ後続の車がなかなか発進させてくれない。すると――
「お客様にご案内いたします。只今お客様のご予定時刻に間に合わせるため運転士も必死になっておりますが、一部道路交通法を理解していないお馬鹿なドライバーのおかげで発車出来ません。ご迷惑をおかけしておりま~す」
「――!」
右のミラーを見ながら今日子は動揺を隠せなかった。なんてことを言うんだこの人は……そんなこと言ったらまた苦情の――
「よっ! 松下節ぃ」
なんと後ろの乗客からすかさず合いの手が入る。たちまち車内は笑いに包まれた。口をポカんと開けて早苗を見ると、早苗もニッと白い歯を見せて笑っていた。
しばらく進むと降車ランプがチャイムと共に点灯した。今日子は停車準備に入るが、前方の停留所のポケットには乗用車が一台停まっていた。
停留所の標示板から半径十メートルは駐停車禁止場所である。それを知らない一般ドライバーが非常に多く、停留所に停車させては携帯電話で話している光景を日に二度三度目撃する。乗用車が邪魔で停車出来ない。今日子がどうすれば良いか迷っていると――
「気にせず乗用車の後ろにつけて」
早苗が小声で指示を飛ばす。
「降車のお客様大変申し訳ございません。停留所を待避所か何かと勘違いしている車のせいで安全に停車させることが出来ません。少々お待ちくださ~い」
そういうと早苗は横からハンドルに手を伸ばしクラクションを短く鳴らした。乗用車のドライバーは中年の男性だったが電話をかけながらこちらをひと睨みし、行ってしまった。
「申し訳ございませんでした。さぁどうぞ~」
一人の乗客が立ち上がり、降り際に早苗に声をかける。
「もう降りれるってタイミングで迷惑な車のせいで待たされるのって本当に嫌なのよねぇ。助かったわ」
こういう場合、仕方なく少し場所をずらして乗客に降りてもらうか、乗用車に気づいてもらうまで待つか……最悪どいてもらうようにお願いするか……なのだが……早苗は全く意に介していない様子だった。
そんな調子で終始和やかな雰囲気に包まれた車内はやがて〝発電所入口〟の停留所へ到着した。朝の通勤時はほとんどの乗客がここで降りていく。
「早苗ちゃん今日もありがとう。仕事前にやる気出てきたわぁ」
駅で乗車時に声をかけてきた中年女性が礼を言って降りていった。
「おばさん今日も一日頑張ってね! ありがとうございました」
笑顔で早苗は見送った。
終点に到着し折り返しの発車までおよそ三十分あった。二人はバスを降り、海が一望出来る停留所の小さなベンチに腰かけた。
「……ちょっと面食らってるって感じ?」
早苗はいたずらっぽい笑みを浮かべて今日子に聞いた。今日子も先輩のやることに文句をつけるわけにはいかなかったが、せっかく振ってくれたのだ。率直に思ったことを聞いてみようと思った。
「教育の時には教わりませんでした。アナウンスを冗談めかして言ったり一般車両にクラクション鳴らしたり……苦情がくるって思われないんですか?」
今日子の質問に早苗は微笑んだ。持っていたお菓子の袋を開け差し出す。
「ほれ。女子と言えばお菓子は欠かせないよね~」
「ど、どうも」
今日子はお菓子をひとつつまんだ。静かだった。風と波の音しか聞こえなかった。
「……アタシもさ……見習い卒業したての時、アンタと同じことで悩んで辞めようと思ってた時期があったんだ」
「……え?」
全くそんな感じに見えない早苗のキャラクターに、今日子はその言葉が信じられなかった。
「アタシ前はダンプに乗ってたんだ。結婚して子供が出来て……会社辞めて。そしたらしばらくして旦那が女作って出て行っちゃってさ……たちまちまた働かなくちゃいけなくなって。
前いた会社に慌てて電話したんだけど、たまたまタイミングが悪くて『今足りてるから』って言われて。まー……焦った焦った」
早苗は苦笑いしながら話していた。しかし大変な苦労だったに違いないことは独身の今日子でも容易に想像がついた。
「急いで職安に行った。けど運転しか取り柄が無い三十路過ぎの子持ち女が出来ることって本当に無くてね……あったとしても給料がとんでもなく安かったりとか。
子供抱えながら肩を落として職安から出る時に、声をかけられたんだ『子育てしながらでもそこそこ稼げる仕事に興味は無くって?』って」
早苗は眼鏡の位置を整える仕草をして見せる。
「若月課長……」
今日子の呟きに早苗は頷く。
「とりあえず興味があったから話だけでもって付いて行ってみたらバスの運転士って……出来るわけがないって断ったわよ。
けど若月さんがね……これからこの業界も女性をどんどん取り込んでいかないと生き残れない。勤務時間も相談に乗るし、もし乗務中にお子さんが熱を出したりしたら私が迎えに行ってあげる! って……もう有無を言わせない感じでさ。気がついたらシングルマザーの女性運転士の出来上がりってわけ」
若月らしいと今日子は思った。
「で……本題はここから。島崎のおっさんにしごかれて、いざ乗務に出れば周りの車は危ないし、客は何考えてるかわかんないし、とにかく終始神経使うしでさ……なんだよこの仕事、めちゃくちゃ疲れるじゃん。って思った」
まさしく今の今日子の心境だった。
「もうこんな我慢ばかり強いられる仕事辞めてやる! って思ったその日にね。あの夫婦に出会ったんだ……」
「あの夫婦?」
お菓子を口に運びながら今日子は聞いた。
「その夫婦は二人共障害者だったんだ。お爺ちゃんとお婆ちゃんの夫婦。お爺ちゃんは足が悪いみたいで片足引きずってたし、お婆ちゃんは全く目が見えない人だった。
二人共両手が使えるようにリュックを背負ってた。お婆ちゃんは杖を持たないでお爺ちゃんの腕にしがみついていたんだ。お爺ちゃんは足を引きずってたけどお婆ちゃんを支えながら、ゆっくりだけどしっかり一歩一歩、歩いていた。
降りる時も同じように、お爺ちゃんはお婆ちゃんを支える。お婆ちゃんはお爺ちゃんの腕にしがみつく……一歩、また一歩ってゆっくりね。
降車の手続きが済んで最後……バスと縁石の間に落ちないようにお爺ちゃんはお婆ちゃんを抱えるようにして降ろしてあげてた。お爺ちゃんだってよろよろで助けが必要なくらいだったのにね。
二人が降りてドアを閉めようとした時だった。お婆ちゃんが言ったんだ。
『ありがとう』
……って笑いながらアタシを見て。アタシの姿なんか見えるわけ無いのにね……もう胸がいっぱいになっちゃって、不覚にも泣いちゃった」
恥ずかしそうに早苗は言う。
「その時、思ったんだ。アタシらはこうした人達を運ぶ大事な仕事をしてるんだって、胸を張って誇れる仕事をしてるんだって……思い直すことが出来た」
今日子はいつか島崎が言った話を思い出していた。
「交通弱者……」
「そう。その人達が安全に降りるまで、アタシらには責任がある。それを邪魔する存在をアタシは許さない」
早苗は毅然とした表情で強く言った。先ほどまでの行動に今日子は合点がいった。
「だからクラクション鳴らしたり……」
「うん。普通のドライバーってね、バスの中にそういう弱い人達がいるなんて想像もしてないんだと思う。ぴったり寄せて着けてあげないと、安全に降りられない人もいるんだってことがね。
会社はさ、トラブルを何よりも嫌うから最悪頭下げてお願いしてどいてもらえとか言うけどさ、アタシはそれ違うと思うんだ。違反……迷惑行為をしてるのは向こうなのになんでこっちが頭を下げるの? その人のためにバスに乗ってる人達みんなが迷惑被ってるのに。
アタシも喧嘩しようとしてるわけじゃない。けど甘い顔すればその人はまたどこかで誰かに迷惑をかけるんだ。間違ったことをしてるって認識くらいはしてもらわないとね」
不可解だった早苗の言動が、パズルのピースを嵌めていくかのように今日子は理解していくことが出来た。でも――
「苦情の電話がきて、松下さんが怒られるようなことになったらどうするんですか?」
答えはなんとなくわかってはいたけど、今日子はその言葉が聞きたくて敢えて聞いてみたのかも知れない。
「……早苗でいいよ。もし、もしそれで怒ってくるような会社なら、こっちから辞めてやる。それぐらいの覚悟でやってるから」
清々しいほどの笑顔……あぁ、この人も見つけたんだな。自分の〝バスマン〟を――
「それからはね。自分の視点を変えたら色々見え方も変わってきたんだ……ほとんどのお客さんが何も言ってくれないけどさ。それは別に自分のことが嫌いなわけじゃないんだよ。
アタシがどんな運転士かわからないから、警戒してるだけだと思ったんだ。だからちょっと恥ずかしいけど、わざとマイクで自分色を出すようにしてきた。そしたら少しずつだけど、お客さんから声かけてくれるようになってさ」
早苗の顔が須賀と重なる。
『お客さんが何も期待していないなら、無関心なら……いつか振り向かせてやります』
本当に早苗にも須賀にも敵わないと今日子は思った。けど、ほんの少しだけど光が見えたような気がする。
そうだ……自分の信じた道を進めばいいのだから。シンプルに、それだけで良かったんだ。
「私の信じたバスマンを……」
「? なんか言った?」
「……いいえ何も。ありがとうございます!」
思い悩む後輩のために自分の経験が役に立つならと、自分語りをした早苗だったが、今日子の笑顔を見る限りどうやら想いは伝わったようであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます