記憶が30分でリセットする彼女に看取られ

コトリノことり(旧こやま ことり)

記憶が30分でリセットする彼女に看取られ


 明滅。

 一瞬飛んでいた意識が戻ってくる。

 体が重い。

 頭がぼんやりとして、自分の体全てが鉛で構成されているよう。

 横になっている体は、雪の積もった地面に沈んでいきそう。

 雪はまだ降り続いていて、冷えた体温をさらに奪おうとしている。

 頭の後ろだけは熱く、ガンガンと痛みを訴えてくる。

 周りの様子を見たくても、瞼を開けてもうっすらとした様子しかわからない。

 雪がいろんなものを吸い取っているのか、異常なほどに周囲が静かに感じる。

 でもきっと、そろそろあの音が聞こえるはずだ。

 あの音が、いつもの合図なのだから。そして、これが繰り返された『いつも』の最後になるだろう。

 最後くらい、うまくやれればいいのだけど。

 ––––『彼女』の甲高い声が響く。

 ピピ、と無機質な電子音。

 少しの沈黙のあと、彼女––––雨城フウカの声が再び聞こえた。


「……ここ、どこ?」


 その問いかけに答えてあげたくても、声が出ない。

 短い呼吸を繰り返すだけの口は、ひとつの単語も作れなかった。


「うっ……さむい……雪? え? なんで? えっと……あれ、この林……ここ大学の裏道、だよね。あれ? とっくに雪なんかとけてるはずなのに、なんでこんなに雪が積もってるの……?

 ……っきゃああ! え、え、あ、あなた、頭から血、血が出てる……! な、なにこれ? どういうこと? だ、大丈夫ですか……? 話せますか?」


 フウカは倒れているこちらに驚いて、心配そうに声をかけてくる。でも、何か言おうとしても、出るのはかすれた唸り声だけだった。


「だ、だめですか? 話せそうにないですか? あの、私、ぜんぜんよくわかんなくって……。ああもう! なんでいきなり冬になってて、知らない人が倒れてるの? 私、私は……大学に行こうとしてただけで……そう、大学に行こうと……あれ? それから……それからどうしたんだっけ……。ああだめだ、思い出せない……。

 え!? わ、わ、私の手、手にも、血、血がついてる……ケガでもした!? でもどこも……痛くない……? か、鏡で見てみよう……。

 うん? 私の髪、こんなんだっけ……? 雪で濡れてるから伸びてるように見えるのかな……それに……これ、泣いてたあと……? 私、泣いてたの……? なんで……?

 うーん、わかんないけど……見た感じケガはなさそう……え、じゃ、じゃあ、つまり、こ、これ、この人の……血? な、なんで?

 もしかして、わ、わ、私がこのひと、を……?」


 心配から一転、早合点しそうになる彼女がおかしくて、笑いそうになる。けれども残念なことに唇の端も動かない。

 そして慌てている彼女は、ようやく『それ』に気づく。


「う、うそ……もしそうなら、ど、どうしよう……あれ? 手になんか書いてある……

『フウカ。あなたの記憶は30分しか保たない』

 は……? なに、これ……」


 ここでようやく、自分が知っているいつものフウカのパターンだ。

 その後、彼女が読むメモの内容も、彼女がどんな反応をするかも、簡単に暗唱できる。声には出せないから、頭の中だけだけども。

 彼女の手にはさらにこう書かれている。『首にかけているメモ帳を見て』

 彼女は知らないメモ帳に戸惑いながら、おそるおそるページを開く。書かれている内容は、『さっき』と変わらない。

『あなたの記憶は大学へいく時で止まっているはず。

 その日、20□□年、3月●日にあなたは事故にあって脳に記憶障害をおった。

 それが原因で、あなたは事故直前までの記憶はあるけど、

 それ以降の記憶は30分でリセットされる。

 30分たったら、その間の30分の記憶を忘れてしまう。

 ※腕時計で30分ごとタイマーを測ってるから、充電がきれないように注意』


「記憶……障害……? わたし、が……?

 腕時計……これも知らないやつだ……今日の日付は……20□▲年の2月……!? そんな……嘘だ、これじゃ、私の知らないうちに……覚えてないうちに一年近く経ってるってこと!? う、うそでしょ……?」


 彼女は現状を理解できない。仕方がない。いきなり一年経っているなんて言われて、すぐにそうかと納得できる人間なんて少ないだろう。

 だからこの最初の説明がいつも肝心なところだったのだ。

 しかしメモは確かに彼女の筆跡で、さらに3月だったはずなのに明らかに周りは冬の最中だ。彼女は否定しきれない。

 次のメモも何が書かれているかわかるけれど、今回ばかりは、いつもと少し違う内容になっている。とても不本意ながら。だけど今の自分には、その内容を正すことも、付け加えて説明することもできそうにない。

『信じられないと思ってるでしょう。

 だけどそうやって真実を認められないことを、あなたは1日に何回もやっている。

 時間にあわせてやるべきことを各ページに書いてある。重要な連絡先はこれの最後に』


「……『→今は緊急事態。すぐにメモ帳の後ろを確認して!』

 え? なんでいきないり矢印? しかもすごく焦ってるみたい……この文、血がついてる……い、『今』の私の手にも血がついてるから……これは『さっき』の私が書いたってこと……? じゃあ今って『今』のこと……? ええっととりあえず後ろのページ……ん? 何枚か破けてるけど……ここかな? えーっと…

 ……『私は忘れてしまうからここに書く。あなたが今いるのは大学の裏道。

 目の前にいるのは私の、あなたの恋人。

 車に轢かれてしまって、動けない。救急車はもう呼んでいる。

 だけど雪で30分以上かかるって言われてる。

 お願い、その人を助けて。

 忘れないで!』

 ……救急車……? こい……びと? このひと、が……?」


 いつもより不思議そうな、戸惑いを含んだ声。

 それも当たり前のことだ。記憶がない上に、目の前で倒れている人間が恋人だといわれ、さらにその人物は怪我のせいでろくに話ができない。

 本当なら、自分が彼女に説明すべきことだ。今まで記憶がリセットされた彼女が戸惑うたびにそうしてきたように。

 だけど、今の自分にはそれもできない。……体が、本当にまるで動かないのだ。彼女の声を聞くことしか、できない。


「なんなの……どういうこと……わかんないよ……。……で、でも……このメモが本当なら……この人のケガは私のせいじゃない、ってこと、かな……。あ、この人の頭のところにハンカチ……私が昔から使ってるやつだ……そ、そっか、『さっき』の私がこれで止血しようとしたんだ。だから私の手にも血が……ってそれどころじゃないし!」


 自分が犯人ではなかったことに安心して、その考え方に自己嫌悪するところは彼女らしい。

 他の人にとってはどうかはわからないけど、その空回りの様子は、自分にはとても可愛く見えていた。


「それにしても……助けてっていっても……どうしたらいいんだろ。頭打ってるなら動かしたりはしないほうが……いいよね。呼吸は……うん、してる……。す、すみません、ちょっと触りますね……」


 氷のように冷え切った手に重ねられた彼女の手は、火傷しそうなほど熱く感じた。


「うわっ! すっごい冷たい……! こんなにガチガチに握って……そうだよね、雪の中でずっと倒れてたら寒いに決まってるよね……。手袋とかカイロとかないかな……バッグの中は……なにこれ! ペンとか紙とかばっかり! 記憶がなくなっちゃうから? 書き残せるように……? いや、でも今は必要ないから、何か使えそうなもの……ああもうなんもない! スマホくらいしかないじゃん!

 スマホ……あ、そうだ! ここ、大学の裏道なんだから、大学に人を呼びにいけば……ダメだ、今日は休日だから……事務局も閉まってるし……この場所から人がいそうなところにいったら20分はかかっちゃう……それなら、救急車を待ってるほうがいい、よ、ね……?

 えっとタイマーは……残り21分……も、もしも私が本当に記憶をなくしちゃうんだったら……人を探してる間に忘れちゃうかもしれない……。

 そんな……そしたら、私は……ここで待つくらいしかできないんじゃ……」


 静かな空間が、さらに静かになる。

 フウカが悩んでいるのが、見えなくても伝わってくる。きっと彼女も寒いだろうに。

 彼女が風邪を引いたりしなければいいな、と思う。

 頭がうまく働かない。こんなことを考えてる場合じゃないはずだろうけど、自分よりフウカのほうが心配だった。


「……あ、そうだ、お母さん、お母さんに電話しなきゃ……! そうだよ、ここが裏道なら、きっと家に帰るところだったんだ……もし私が帰ろうとしてたなら、家にお母さんもきっといるはず……お母さんの電話番号は……」


 この大学の裏道は、フウカの家に大学正面から帰ろうとするとぐるりと遠回りになるため、裏手からでることで家までショートカットできると彼女が好んで使っていた道だ。すこし山の中にあるため、車や人も滅多に通らない。

 その滅多なことが今日という日に起きてしまったことは、もう笑うしかないだろう。


「……はやく、はやく出て……おねがい……あっ! お母さん!? あのね、フウカなんだけど、よくわかんないんだけど、とにかく今、大変で! ……っえ? うそ、留守番電話……? え、え、お母さんお願いだから出て……! 大変なの! 今、大学の裏道で、人が倒れてて、私、どうなってるか全然わかんなくって……ああ! きれちゃった……。

 もう一回かけてみよう……! ……ダメか……それならお父さんは……電波がつながらないってどういうこと! ああもうなんで誰もでてくれないの!? このまんまじゃ、この人死んじゃ……。

 ……そ、う……だよ、このままじゃ……もしかしたら……この人、死んじゃう……?」


 呆然とした声。

 頭の痛みすら、もうわからなくなってきている。

 だけど感覚が曖昧になる程、それだけはわかる。

 フウカの言う通り……きっと、もうすぐ自分は、死ぬだろう。


「や、やだ……そんなの、目の前で人が死ぬなんて……やだよ、こわいよ……なんでこんなことになってるのかもわかんないのに、そんなのイヤだよ……!

 あ、あの、きっともう少しで、救急車、くると思うから……声、聞こえてますか? えっと、えっと、そう、テレビで見た、確かこういうとき、名前を呼ぶのがいいんだ。名前、なまえ……この人の名前……なんていうの……?

 ……私の記憶が、事故のあとから、30分しか覚えてられないっていうのが本当だとして……でも、事故の前に、この人と会ったことなんて……ない、よね……?

 ……私の、知らない、ひと、だよ、ね?」


 知らない、ひと。

 今のフウカにとって、自分は、ただの他人でしかない。

 それも仕方ない。だから、自分は、毎回、フウカ、に。


「あなた……本当に、私の、恋人……なの?」


 震える声には疑いの気持ちがたくさんつまっていて。

 ああ、なんで今……今この大事な時に、自分は話せないのだろう?


「……そうだ、メモ帳! メモ帳にこの人のこと書いてないかな。えーっと、前半は……習慣的なことをメモしてる。起きたらすること、眠る前にすること……そうだよね、30分しかないんだったら、毎日することは全部メモの通りに動いたほうがいいのか……消えないように油性ペンで書いてある。私の手のメモも……。

 それから……これは……日記……? すごく短いけど……この辺りは……事故のすぐあとあたりの日付だ。病院の検査結果とか、そんなのばっかり……しかもだいたい書いてるの1行だけだから、日記っていうか、報告書みたい」


 それは読み返す時に時間がかからないよう、短文で記録するようにしているのだ。長い日記は、書くのにも、読むのにも30分を使い切ってしまうから。

 だからフウカは、本当に大切なことだけを記録していた。


「あった、ここだ! 『恋人ができた』って、半年前に書いてある。きっとこの人のこと……だよね……?

 えーっと……

『こんな私のことを見捨てずにつきあってくれてる』

『やさしい人』

『この人がいるから生活ができてる』

 全然覚えてないけど……すごく信頼してるんだな……きっと記憶をなくすたびに、そばにいて、わからない私に毎回説明してたんだろうな……。

 ……でもこの人がなにしてる人とか、どうやって出会ったかは書いてない……一年前までの記憶にないってことは、事故の後に知り合ったんだよ、ね。

 でも……なんでこんな私とつきあってるの? 自分で言うのもなんだけど……記憶がなくなる人間とつきあうなんて……面倒じゃないかな……」

 

 面倒じゃないか、というその質問を、自分は何度問いかけられて、それに何度答えてきただろう。

 彼女は……『今まで』の彼女は……その度に、ちゃんと信じてくれたろうか?


「うーんメモにはこれ以上書いてないっぽい……あ、スマホに何か残ってないかな? 付き合ってたら二人の写真くらい撮るよね?

 ……え?

 なにこれ……私の写真ばっかり……。

 ……髪、伸びてるし…知らない服着てたりするけど……これが今の私、なんだ……。これは私の家で……こっちは家の近くの公園……かな。ちょうど半年前から……私の写真が増えてる……。

 でもなんでこの人が写ってる写真が……ないの……?

 おかしいよね……?

 ……この人のことを恋人、っていってるのは……最初のメモだけだし……

 本当に……あなたは……私の、恋人……なの?」


 ああ、彼女が、『恋人』の存在を疑っている。

 ああ、どうか、そのまま、気づかないでほしい。

 どうか、彼女が真実に気づかないままで。


「……タイマー、あと、残り15分切ってる……どうしよう……?

 ……この人が誰かわからなくても……死にそうなのは本当だし……救急車がくるまで待ってたほうが、いい、よね……。

 ううっ……寒いなあ……雪がどんどん強くなってる……吹雪じゃんこんなの。私も凍え死にそう………いや、そんな冗談、タチ悪すぎるよね……。ああもう、救急車いつくるの!? まだなの!? もう15分以上経ってるんだから……30分前に電話してるならそろそろ着いてもよさそうなのに……そうだ、発信履歴見れば時間がわかるじゃん。あーもう寒さで充電少ないっ……」


 どうか、かみさま。

 忘れてしまう彼女に、気づかせないで。


「え………」


 このまま、彼女にとっての『真実』だけを残して、残り時間がたってしまえば。

 それなら。

 それなら、『彼女』は傷つかなくてすむから。


「最初に電話かけたの……1時間、前……?

 な、なんで?

 どういうこと?

 30分ごとに記憶がなくなるとして……『さっき』の私が救急車を呼んで、このメモを書いたんじゃないの……?

 これだと……『さっき』の1つ前……『2個前』の私が……電話して、メモ書いたってことになるんじゃ……え、じゃあ『さっき』の……『1個前』の私は何して……?

 ……30分前にも……電話、してる……二回電話してる? なんで? 忘れてたから? 違う……きっと救急車がこないからかけ直したんだ……そうだ、なんで救急車遅れてるのか確認しなきゃ……!

 充電きれそうだから、大事に使わないと……雪のせいかもしれないし、先に交通情報を確認して……。

 え……? ガスの爆発で大火事? 交通規制?

 この場所……ちょうど裏道の真下じゃん……! 火災発生がちょうど……30分、前……。それで……救急も……他の車も……こられないんだ……。

 きっと、『1個前』の私は……それを聞いて……。

 は、はは……ナニ、これ……どうしたら……いいの。

 ……どうしよう……。

 ………この人が……本当に恋人なのか……私にとって大切な人なのか……わかんないで……私……この人が死ぬところ……みる、のかな?

 それで記憶がまたなくなって、知らない人の死体を見て……驚くの?

 ……や、やだ……そんなの怖いよ……。

 ……それなら……、

 どうせ忘れるなら……、

 最初のメモを捨てて……何も残さないで……私が今……ここから離れちゃえば……全部わからなくなる……?

 ……最低な発想……本当にこの人が恋人だったら……地獄行きだよ。

 でもっ! この人が、恋人だなんて、私の勘違いか、騙されてるだけかもしれないんだし……そうだよ、記憶が30分で消えちゃう人間と、わざわざつきあおうなんて人いるわけないよ……、だいたい、恋人の証拠なんて、なにもないんだから……っ!」


 彼女は『恋人』という存在を否定しようとしている。

 そう、それでいい。


「……なにも、ない?

 本当に……ない?」


 それで……そのまま、気づかれないまま、死んでいって、よかった、のに。


「おかしい……よね。『2個前』の私にいくら余裕がなくても……情報が少なすぎるし……たとえ恋人じゃなくても、もう少し……状況についてのメモを残しても……いいはずじゃない……?

 それに……『1個前』の私は……30分もあったのに何してたの?

 2回目の電話のことも……火事のことだって……メモして、いいはずなのに。

 ……スマホ、もっかい、確認してみよう。

 スマホのメモには……なんも書いてない。メッセージは……名前わかんないから探しても意味ないし……あとは……写真はもう見たし……あ!

 もしかして、削除フォルダ……っ!

 ……うそ……。

 ……あった……写真。

 この人、だ。

 二人で……写ってる……何枚も……。

 ……うちで、お母さんやおねーちゃんと一緒にご飯食べてる写真も……ある。

 私、すごく、嬉しそうに……笑ってる。

 ……本当に、恋人、なんだ。

 ……『1個前』の私は……これを写真フォルダから……消したんだ……

 『次』の私が……この人のことをわからなくするために……!

 そうだよ、ね……私が一人で写ってる写真だって……私が撮った角度じゃない……ちゃんとカメラを向いて、笑ってるのばっかり……この人が……撮ったんだ……。

 わざわざ消したってことは……『1個前』の私は、この人のこと、ちゃんと恋人だって……わかってたんだ……。

 それなのに……それなのに……っ!

 自分が傷つきたくなくて……救急車がこないってわかったら……『忘れる自分』を利用して、この人のこと見捨てようとしたんだっ……!

 ひどい……ひどすぎる……。

 私、そんなにクズだったんだ……は、はは……。こんな、私に、付き合ってくれてる人のこと……自分から、忘れようと……するなんて……。

 ごめん、なさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。こんな恋人で……ごめんなさい。」


 違う! 

 そうじゃない!

 そうじゃないんだ、フウカ。

 悪いのは君じゃない。

 ああ、どうして、最後に傷つけてしまうんだ。


「謝りたくても……名前もわかんないんじゃ……サマにならない、よ、ね。

 でも写真だけじゃ、他のことまでわかんないし……。なんでメモ帳にないんだろう……あっ!

 そうだ、『重要な連絡先はこれの最後に』って……破れてたページ……っ!

 もしかしてそっちも破って捨てたの……!? 

 ここから捨てたなら……どこかに落ちてるはず……どこ、どこっ! ああっ……雪が……冷たくて……手がかじかんで……うまく動かない……

 どこ……。きっとどこかにあるはずなのに……。

 ここから動いた足跡もないから、この近くに……。

 ………。

 手……。

 私の手には……血が、ついてる……。

 ……この人の情報を書いたページだけ破るなら……他の連絡先丸ごとじゃなくても、いいはず。

 ……血のついた手で破いたなら……メモの裏表紙にももっと血がついてるはず……。

 それがないっていうことは……血のついてない手が、他の連絡先ごと、丸ごと破いたって、いう、こと……。

 私の手じゃ、ない、なら……」


 混乱して、空回って、いらない不安や自己嫌悪をしても、彼女はちゃんと最後には答えにたどり着く。

 30分という時間の中で、彼女はいつもそうやって必死に考えて、考えて、答えを出すんだ。

 それが……とても、好きだった。

 そう、とても、好きだったんだ。

 せめて。


「……あの……。

 聞こえます、か……?

 その、手を……開いて、くれ、ませんか?

 ねえ……!」


 せめて最後に。


「まだ聞こえてるんでしょう? ねえ!

 それなら……無理やりこじ開けるから……ね? う、ううっ……!

 ちょっ……硬い……冷たい……! ねえ……お願いだから……開いて……!

 くぅっ……!

 あ、っ、た………。

 やっぱり、あなたが握ってたんだ………破いたメモ帳……。

 これ……お母さん、お父さん、通ってる病院の連絡先に……

 ……あなた、の、写真付きの、連絡先。

 あなたのこと、いろいろ書いてある……誕生日、好きなもの、どうやって出会ったのか……

 ふ、ふふ……。赤字の油性ペンで電話番号の横に、

『困ったらココに電話! 今の私のメモリーディスクはこの人→』

 って……なにこれ……覚えてないけど、私、あなたに頼りすぎじゃない? 私……あなたのこと、困らせてたんじゃないの? 私は、毎日、30分経ったら、あなたのことを忘れてるのに……。忘れるたびに……自己紹介して、それで私が覚えてないことを、あなたが教えてくれてたの、かな」


 全部、知られてしまったの、なら。


「どれだけ……お人好し、なの。

 ……私が悲しまないように……わざと自分で……自分のことを書いてるメモ……破ったの?

 それで……『1個前』の私に……スマホから写真を消したり……あなたの情報を残さないように……させたの?

 だから……私、泣いてたんだね……。あなたのことを忘れるのが、イヤで……。

 ……でも、全部終わらないうちに……『1個前』の私は……『今』の私になった。

 ……確かに……あなたの狙い通り……私は……あなたが誰か、信じきれなくて……怖くて見捨てようとした。

 だけど……もう、気づいちゃったよ……。

 あなたは……ちゃんと、私の恋人だって。

 だって、このメモに……書いてるもん。」


 もう一度だけ、自分の口で、


「『明日は、私の誕生日。今日、二人でお母さんとお父さんに結婚の報告をする』……。

 今日の記録に書いてなかったのは……お母さんたちに認めてもらえたら……『結婚する』って書くために、わざと何も書いてなかったんだろうね。

 それ以外の詳しいこと書いてないのは……あなたが、いつも、忘れた私に……教えてくれてたから……なんでしょう……?

 ねえ……教えて……ちゃんと、ちゃんと自己紹介させてよ……忘れてるだけで、きっと、いつもしてたやつ、やってよ……。

 あなたの口から、あなたの名前を……教えて?

 このままじゃ……また、『次』であなたのこと、忘れちゃうから……あなたは私のメモリーディスク、なんでしょう?

 聞きたいこと、たくさんあるから……こんな、こんな……誰もいない……寒いとこに……一人に、しない、で。」


 ––––なぜだろう、彼女の声が、遠くから、聞こえる、みたいだ。


「……っ時間!

 残りあと……5分……!

 どうしよう……! 5分経ったら……また最初に戻っちゃう……!

 やだ……やだ、ここまで……ここまで思い出せたのに……ううん、思い出せたわけじゃないけど、『恋人』の記憶がわかったのに、ゼロに戻っちゃう……

 メモ、メモに残さなきゃ!

 メモ帳の最初のところに、救急車以外ですぐに手を打たなきゃいけないって、『次』の私に書かないと……ペン、なんでもいいからペン……やだっ! 雪のせいで紙が濡れて全然書けない……!

 それならっ! スマホに……! 『次』の私がわかりやすく、信じてもらえるように書かないと……それに、写真も……時間がないから削除フォルダ見ろって書いて、とにかく誰か助けを呼ぶようにメモを残して……!

 ……あああっ!? 嘘! 嘘でしょ! このタイミングで充電切れとか嘘でしょ……やめてよ……電気…ついてよ……!

 あ、ああやだ、もう3分もない……! どうしようどうしようどうしよう。手……そうだ、手にかけば………『あなたは目の前の恋人を助けるために、大学に走れ』……よし。

 この人のことが書いてある紙は……無くさないようしないと……こっちも濡れて破けそうになってる……! ど、どうしよう……?

 バッグにいれて……バッグも濡れちゃってるし! ああもう私のバカ!

 でも、まだ、手には残した、か、ら………。

 あ、あ、そんな……雪で手の文字が落ちてる……『あなたは……』……ダメだ……こんなんじゃ読めないっ……!

 ダメ、もう時間が……!

 ねえ、ねえ、まだ聞こえてる?

 こたえてよっ……!

 このまんまじゃ、イヤだよ……っ!

 お願い、お願い神様……!

 私のこれからの記憶、全部奪ってもいいから……!

 この人だけは……助けて、あげて!

 おねがいっ……!」


 ––––彼女の甲高い声が響いたあと、ピピっとタイマーの電子音。

 少しの沈黙のあと、彼女の声が再び聞こえた。


「……ここ、どこ……?」


 意識が遠のいていく。


「『あなたの記憶は30分しか保たない』

 は……? なに、これ……。

『首にかけているメモ長を見て』

 メモ帳……? わっ! ほ、ほんとだ首にかかってる……いつの間にこんなの……?

 なにこれ……なに書いてあるの?……」


 彼女の声が、遠くなる。


「……『あなたは』……」


 寒ささえも、もうわからない。

 真っ暗になる世界の中で、その声だけが最期に聞こえた。


「……『あなたは』……だれ?」


 暗転。

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