風の始まる洞窟⑥

著:ガディアン


 腹が、減った。

 昨日から何も食べていない。

 今日は儀式の日の当日。私は体を少しでもカザネに近づけるため水だけを飲んで過ごしている。三日程度ならけっこう平気で生きていけるそうだが、いやそれにしても……腹が減った。カザネは物を食わずどこから栄養をとっているのだろうか。水だけで足りる体の作りをしているのか。


 ちなみに、断食と並行して沈黙も行っている。今日は朝起きてから沈黙の誓いとやらに則って一言も言葉を発していない。祝詞を上げる者は特別な部屋に通され、儀式の始まる夕刻になるまで籠りの時間を過ごすのが古い正式なやり方なのだった。つまり、私はアイウェンディルと朝から二人で部屋に居るのだ。


 話を出来ればどんなにか、いつものように彼女の声を聴けたなら。今日は最後の日だというのに他愛無い話すらさせてもらえないとは。こうして目の前にいるだけ余計に酷だ。いまアイウェンディルは何を考えているのだろうか。もう間もない時間で別れの時は来る。せめてほんの少しでも寂しがってもらえるだろうか。

 私の気持ちを知ってか知らずか、アイウェンディルは籠りの時間をそれなりに気楽そうに過ごしていた。本を読んだり、ぶらぶらと体をほぐしたり、意味もなく私をつついてきたりする。格式ばった正当なる儀式にはおふざけする余地などないのかと思っていたが、巫女の彼女がやるならまあ大丈夫か。私はせっかくの沈黙をこの半年を思い起こすのに使った。密度の濃い、かけがえのない時間を過ごさせてもらった。全てが終われば、皆に礼を言おう。ガラドエル、ケレボール、子供たち……。もちろんアイウェンディルもだ。いつの間にか彼女と目が合っていた。考えに夢中で見るとはなしに見ていたらしい。空中で交差する視線。私が彼女の目を、そして彼女が私の目の奥を覗き込む。


 ……長い時間見続け、いや見つめ合っていた。何が起こるのか、何か起きるのか。まるで痺れを切らすように彼女が手を持ち上げて私に……。そういうところで時間はやってきた。

 「お二方、時間ですぞ」

 ケレボールが戸を開けて静かに声をかける。定められた夕刻がついに訪れた。私は後ろ髪を引かれるような思いで支度をする。アイウェンディルは何をしようとしたのか、その手が何に差し伸べられるのか、知りたくて仕方がなかった。

 

 カザネ達がよく着ている簡素な白装束に着替え、清めた小瓶の水を頭に一振り、緑色の宝石がついた指輪を両手の親指と小指にはめ、まじないの化粧を施され、籠りの時間は終わる。沈黙の禁は解かれた。儀式の前にアイウェンディルと少しだけ話がしたい。そう思ったが少しの間も与えられず、支度を終えて外に出た時、彼女はもう祈りの時間を過ごしていた。

 今日のために作られたやぐらの上、風の巫女は無心に祈る。神の声を聴いているのだろうか。半年前はだらけた雰囲気だけがあったこの場が、静かに、厳かに、身じろぎ一つでもたしなめられそうな空気の重たさを放っていた。

 鈍い音を立ててギコギコと回るいくつもの風車、大勢の手伝いがあってこさえられた例の草の破片はかがり火となり、村中の至る所で明かりを灯している。アイウェンディルが風を使って火を固定したのだろう。明かりは空にいくつもあった。どこか物寂しく、童話の一頁のように幻想的だ。

 

 祈る時間は終わる。そうしていよいよ私の時間がやってきた。

 アイウェンディルと共に並び、洞窟の祠へ向かう。

 何故だか言葉が出てこなかった。話せる雰囲気ではないのもあったが、だがそれ以上に何を話せばいいのか分からなかった。何を言えばいい。私は、何を口にすれば満足だというのか。静かな表情のまま、風の巫女はしっとりと語るような声を出した。

 「始めましょう」

 ……?

 あぁ、もう、いつの間にか祠は目の前。

 いかん。切り替えろ。祝詞を間違うわけにはいかんのだ。

 目をぎゅっと固く閉じて、意識をした。今は世界の一大事なのだ。

 

万物に御手が満つる頃から彼方 空は淵を開き彼の號が三度響く

聖者不動、木も草も 死を運ぶ風とて隔てることはなく、轟くは慈悲

蹲い乞う我ら敬虔なる風の御子なりて 頂きに逆巻く渦の一端を知る

知るは風のみ 終わる頃にも違わず足るは風のみと知る

故に 行方 在り方 寄る辺をここへ それが我が號 我らの法


大丈夫だ。

大丈夫。

なに一つ間違えていない。声の調子も問題ない。立派に読み上げることが出来た。だが、そうだ。これで終わりだ。

 「ついに……。終わってしまいましたね」

 あぁ、その通りだアイウェンディル。

 「さあガディアンさん。外に出てみましょうか、今度こそ新しい風が吹いているはずですよ」

 新しい風が吹くことを知れば、それこそもう理由はなくなってしまう。何だかこの埃っぽい洞窟ですら愛おしく思い、その辺の岩なんかを撫でている私を彼女がぐいぐい引っ張って外へ連れ出した。

 「ウェンディ、ちょっと、速い! 分かった!分かったからもう少しゆっく――――」


 風で思考が分断される経験は、久々だった。

 分かる。

 今なら分かる。

 鬱々とした私の心を新しい風が吹き飛ばしてくれる。まるで光るかのように瑞々しい風。吹く風の一筋が目で見て分かるかのように生き生きとしている。これは、私がカザネの技を身につけたからか。世界の彩りを一新したかのように、見違えたかのように美しい。これが新しい風なのか。そこかしこで歓声が上がっている。成功したのだ。

 私は手を一振り、小さなつむじ風を巻き起こしてみる。素晴らしい。なんと扱いやすいのか。そう……例えるなら新品の道具に変えたかのように調子がいい。油まみれでずるずる滑る工具を新品に変えたかように、手触りからして違っている感じだ。

 思わず涙が出ていた。

 その調子でもう一つ、ぽつりと零れ落ちた。

 「ウェンディ、君のことが好きだ」

 隣の彼女が小さく息を飲む。

 「人の身でありながら何を馬鹿なと思うかも知れない。だがそれでも君のことが心底から好きだ」

 一度でも零れ落ちれば、それはもう取返しがつかなかった。溢れたのだ。

 「君はなぜ私に優しくしてくれるんだろうな、いつもよく気が付いて世話を焼いてくれた。そういうところに惹かれたのか何なのか。君が笑う度に動悸が起きてな、ここ最近は特に酷い。ふとした時に君の顔が脳裏によぎる。まるで恋する乙女かのように君が好きだ。こんな髭のもさもさ生えた男に言われてもピンとこないかも知れないが。……本当は、気持ちを伝える気なんてなかったのだ。迷惑になると思った。だがまあ、伝えられてよかった。君は私の一生の人だ。本当にありがとう。これ以上の言葉が見つからないのはもどかしい、だから重ねて礼を言うよ、ありがとう」

 言ってしまった。後悔するようでいて清々しい、不思議な気持ちだった。さて、返事を聞かせてもら……?

 アイウェンディルが私の手を取って空を飛ぶ。なんだ? 慌てて私も「綿吹き」を使う。危うく引きずられるところだった。

 「ウェンディ?」

 返事はない。

 泣いている?

 この様子は……? なんだ、どちらだこれは? もしや嬉しくて泣いてくれているのか? 怒っている? 分からない。長い髪に顔が隠れ、横顔も見えない。アイウェンディルが私を連れて飛んでいったのは、大勢のカザネが待つ広場だった。

 「よくやったぞ二人とも!」

 「ちゃんと風が生まれたよ!」

 「これで世界も安心だな!」

 口々に褒められる。良かったと思う。それは勿論そう思うのだが、ええと、アイウェンディルは何を。

 「皆さん! あたし達! 結婚します!」

 とんでもない大声で宣言したのだった。

 

 ……。

 …………。

 そんな結ばれ方をしてから夜を明かし、待て、初夜を迎えたという意味ではないぞ。

 そう、朝が来たのだ。清々しい新しい風に吹かれ、私はいつもの厚い外套に身を包み、隣に立つ妻を見る。我が愛しの妻アイウェンディル。うむ、今日も今日とて美しい。彼女はいつもの布を前後に張り付けただけの礼装を身につけている。さすがにこれだと目立ち過ぎるので、人目のあるところでは何か羽織ったりするらしい。

 「何とも感慨深いものだ」

 私は行く先の道を見ながら呟いた。

 「何がですか?」

 「いやなに、酒場でつい声をかけたガラドエルからこうして君の村に招かれ、そして妻を連れて今旅立つのかと思うと、人生は分からんものだな、とそう思ってな」

 「そうですねぇ。私も人間と結婚するとは思いませんでした」

 いやぁ不思議なものです。と言いながらアイウェンディルは私の髭を触ってくる。今までも事あるごとに触られたが、夫婦となってからは更に増して手が伸びてくるようになった。私も触っていいんだろうか、どことは言わんが。

 「さて、行こうか」

 どこへ行こうか。それすらも決めず村を出た。

 きっとどこへ行っても楽しいだろう。

 このまま沿岸沿いに北上しようか。

 それとも丘を眺めながら行こうか。

 どこでもいいさ、君となら。

 手を繋いで旅路を行く。

 二人して空を飛んでいく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

RPGライブラリ 月山 朗 @AkiraTukiyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ