第5話:誰かに見せたい景色
由香里はそのまま空気に溶けるようにして消えてしまった。いくら待っても再び現れる様子もなく、
「誰と話をしていたの?」
「うん、天崎……
「そう」
琴美は驚きもせずペットボトルの中身を飲み干すと、自動販売機横のゴミ箱に捨てる。カランという音に、小さなトンボが1匹飛び立っていった。
「どんな話をしたの?」
「毎年、夏にこの場所に現れる理由を知りたいと思ってさ。何かやり残したことがあるんじゃないかって。でも、彼女、何も覚えていないんだ」
「ね、貴樹。君は由香里さんのこと、まだ好きなんだね」
「好きとか、愛情とか、そういうのちょっと良く分からない」
「ごめん。そうだよね。でも貴樹は由香里さんにまた会いたいと思うでしょ?」
「思ってはいけないのだと思う。彼女の姿、あの時とおんなじなんだ。十四歳のまま成長していない」
アスファルトに視線を落とした貴樹の頬を伝うのは涙だろうか、それとも汗だろうか。
「やり残したこと、それを叶えてしまえば、きっと本当に向こう側へ行ってしまうよ。もう会えなくなるかもしれない。それでも良いの?」
「本当は、中学三年夏でもう会えなくなってしまったはずなのに……。なあ、琴美。これから雅也のところに行く。確認したいことがあるんだ」
■□■
住宅街の片隅に立つ佐伯カメラ店。かつてはフィルムの現像注文でにぎわう店内だったが、今は家電量販店とその業務は変わらない。
「いらっしゃい。ああ、貴樹君、久しぶりだね。雅也なら上にいるぞ」
雅也の父親はそう言って、店の奥に二人を案内した。狭い階段を上り雅也の部屋の前でドアをノックする。昼寝をしていたのだろうか、雅也はやや虚ろな表情で二人を部屋に招き入れた。
「どうしても、確かめたいことがあるんだ。あの場所で、田堵江波海岸の砂浜で、由香里はカメラ持っていなかったか?」
雅也はカメラと聞くと虚ろな目を大きく見開いた。
「貴樹……。お前に話せなかったことがある。どうしても……。俺もずっと由香里が好きだったから。ファインダー越しに彼女が見たのは何だったのだろう。由香里が最後に見た景色を、そう……、自分だけのものにしたかった」
「やっぱりカメラあったのね?」
琴美は語気を荒げながら雅也に詰め寄った。
「オリンパス製のOM-1と茶色のストラップ」
雅也は小声でそういうと、クローゼットの扉を開け、小さな段ボール箱を取り出す。蓋を開けると、真鍮製の銀色のカメラが入っていた。
「三年前、お前が田堵江波神社で由香里を見たと言ったとき、俺は本当に驚いた。由香里がこの写真を探しているんだってそう直感したんだ。お前に見せるために。お前に見せたい風景があるんだって、あいつはそう言っていた」
「写真、現像したのか?」
雅也は力なく首を振る。
「どうしても、できなかった……」
■□■
赤色の光の中で浮かび上がる風景。嵐の前の静けさ。電柱が水平線に向かって立ち並ぶ田堵江波海岸だ。印画紙をよく乾燥させると、雅也の父親は、暗室から出ていく。貴樹たちも後に続いた。
現像できた写真は三枚。あとは未露光のフィルムだったそうだ。台風が接近しているというのに、夕暮れ時まで晴れ渡った気象条件は、強くそして儚い風景の機微をフィルムに焼き付けていた。由香里が最後に見た風景。その繊細な記録。貴樹は写真を手にすると、佐伯カメラ店を勢いよく飛び出した。
夕暮れ近い神社の境内は、真夏だとは思えないほどひんやりする。
「由香里」
肩で息をしながら貴樹は境内の真ん中で彼女の名を叫んだ。ヒグラシの声が鳴り響く中、程なくして天崎由香里は彼の隣に現れる。
「由香里……」
毎年繰り返される夏景色。亡き人ともう一度会える、そんなにわかには信じがたい現実が、貴樹の日常になりつつあったのは確かだ。
「この写真……」
貴樹は彼女に三枚の写真を手渡した。由香里はしばらく眺めていたが、やがて顔を上げると、その澄んだ瞳で貴樹を見つめた。
「君に見せたい景色があった。そう、見せたい景色が……。私、ずっと君に見てもらいたかったんだと思う」
由香里の真っ白な肌が、空気に溶けていくような気がした。
「もう、君に会えないのか?」
「ありがとう貴樹。ずっと、ありがとう」
「由香里……」
「ねぇ、一歩づつ、自分の影を踏んでみよう。良い時も、悪い時も、私たちきっと笑っていられる。君に素敵な明日が来ますように。ね、貴樹。いつか、また」
心を動かされる経験。それにちょうどよいくらいの心的な距離があるんだ。対象に近すぎても遠すぎてもいけない。それは、感情移入の度合いを図る距離。
誰かに見せたい景色があるというのはとても素敵なことだと思う。心動かされるような美的な価値判断は自分の情動だけじゃなくて、他の誰かの共感を求めるけど、そんな情動と記憶を共有できることができるのなら、それはとても幸せなことに違いない。
「そういえば、記憶ってさ、人の中に宿っているんじゃなくて、どちらかというと、世界の側にあるよね。茜色の空とか、心地よい波の音にふっと記憶が再生されるから、やっぱり記憶は世界の側にあると思うんだ」
いつだったか、カメラのファインダーを覗き込みながら由香里はそう言っていた。そして夏が青いと笑っていた。
夕暮れ近くの境内に、赤とんぼが1匹迷い込んできた。海側から吹き込んでくる風が少しだけ生暖かい。玉砂利をギュっギュっと踏みしめる音が近づいてくる。汗と涙にまみれた顔を上げた貴樹の視線の先には、春野琴美がたたずんでいた。
「悲しみの後でも人はまた笑うことができるよ。感情って不安定で不確かなものだから。感情に正しいも悪いもない。ただそこにあるもの。ね、そうでしょ?」
悲しみの中に永遠があるのであれば、たとえそれでも永遠でいてほしいことがある。前に進むために、過去を忘れる必然性なんてないんだと、琴美はそう言って笑った。
景色の中で、記憶の中で。 星崎ゆうき @syuichiao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
時間を想う時/星崎ゆうき
★20 エッセイ・ノンフィクション 連載中 5話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます