死神との別れ

 大変申し上げにくいのですが……。


 あの日から、数日後のこと。

 いつものように兄の病室にお見舞いに来た私に、兄の主治医からこう切りだされた。


 このままでは、お兄さんは意識を取り戻すことが無いかも知れません……。


 手術自体は成功し、一命を取り留めたものの兄の意識が戻ることは無く、寝たきりの状態が続いている。

 人工呼吸器に繋がれ、力無く呼吸を繰り返す痛々しい兄の姿をそれ以上見ていられず、私は病室を飛び出した。


 どれだけ夢中で走ったかは分からない。

 気づけば通っている高校の校門前だった。

 兄の母校でもあるこの高校は市内でも有数の進学校であり、卒業後の進路も既に考えていた私は、死にもの狂いで受験勉強に邁進して受かったのだ。


 私達、兄妹には両親がいない。

 物心ついた時には、既に祖父母に引き取られており私に両親の記憶は無い。

 高齢の祖父母はじきに介護施設に移ることになっている。

 その為、既に一人暮らしを始めていた兄を頼り、高校進学を機会にこの街へと戻って来たのだった。


「雫? 家にいないと思ったら、こんなところで何してるの?」

「黒羽……。貴方こそ、昨日から帰って来ないでどこほっつき歩いてたの?」

 

 追加の試験よと、彼女はそっぽを向いた。

 あの霊安室での一件の後、兄の手術は長引いた為、入院に必要な手続きだけを先に済ませ、黒羽と一緒に家に帰った。

 なんでも、悪霊をあの世に返すときに力を使い過ぎてしまい、あの状態では死神の鎌を振るうことが出来なかったとか。


 その後は当然のように私の家に居候をしており、未だに出て行く素振りも無い。

 死神が家に居座っているお陰か、見たくも無いモノが迷いこんで来ることは無くなったけども。


「はは—ん? さては医者から、貴女のお兄さんはもう助かりません……。みたいなこと言われて、飛び出して来たってとこかしら?」

「黒羽、貴女に何が分かるの?」


 私は黒羽に軽蔑するような視線をちらりと送ると、放課後で人もまばらな校内に入って行く。流石に気まずかったのか、黒羽は小さく「ごめん……」と謝罪する。

 そして、私の後を少し離れた位置からついて来るのだった。


 校内の奥地にある花壇の前まで来た私は、隅に置いてあるベンチに腰を下ろす。

 所属する園芸部が世話している花壇にはリコリスの花が鮮やかに咲いている。

 県外で農家を営む祖父母の家では、土弄りと花の世話ぐらいしか趣味が持てなかったので、この高校に園芸部があると兄から聞いた時に、私の進学先は既に決まっていたようなものだった。

 ささくれだった心もリコリスの花を見ていると、幾分気分が和らいできた。

 まだ……兄の意識が戻らないと決まった訳じゃない。

 病室に戻ろうと腰を上げかけると、黒羽が何故か頭を痛そうに手で抑えていた。


「黒羽? どうしたの?」

「分からないわ——。急に頭が痛くなって……」


 見るからに気分が悪そうだ。

 私は黒羽に触れることは出来無い、ということも忘れて近づく。

 突如、彼女の手に大きな鎌が顕現した。

 冥浄鎌(めいじょうがま)というらしいそれは、あの夜に悪霊が出た時のように鈍い輝きを放っている。

 そして、私と黒羽を飲み込むようにその鈍い光があたり一面に広がった。


 ……目を開けると、そこは普段と変わらない園芸部の花壇の前だった。

 だけど、咲いている花が微妙に違う。

 デコラティブケ—ルなんて植えてあったっけ?

 それに、あのベンチに座っているのは……。

 最近見慣れた背中まで届くほどの長い黒髪。

 魂の奥底まで見透かされるようなダークブラウンの瞳。

 高校生の格好をした黒羽そっくりな女の子が、自分の腕にナイフを突き立てようとしていた。


 見れば腕だけじゃない。足にも包帯が巻かれ、片目は見えないのか眼帯が付けられている。

 本物のナイフを握った腕は、限界いっぱいまで頭上高く上げられている。

 こうしちゃいられない……。

 私は急いで黒羽そっくりな女の子に向かって駆け出す。

 何故か知らないけど、声が出ない。

 やめて! と叫びたいのに声が出ない。

 ナイフの切っ先が真っ直ぐ振り下ろされる。

 私は……目の前で起きようとしているその光景から目を逸らす——。


 グシャッという音が聞こえた。

 刃物が肉を裂いたらこんな音が出るんだろうか。

 恐る恐る目を開ける。信じられないことに……素手で彼女が振り下ろしたナイフを寸前で握り止めた、高校時代の兄がいた。


「あ……」

「どんなに苦しくたって自ら命を断つようなことだけはしちゃ駄目だ。……音無さん」


 そういえば兄が高校生の時、手を包帯でぐるぐる巻きにしていたことがあったのを唐突に思い出す。

 園芸部で草刈りをしていた時に鎌で手を切ったと、その時は言ってたけど、まさかこんな経緯で負った怪我だったなんて……。

 それに音無? 生前の黒羽の苗字なんだろうか?

 ナイフを投げ捨て音無さんを見る兄の表情は、これまでに見たことが無いほど険しくて優しい顔をしている。


 兄を驚愕の表情で見る音無さんは、俯くと人目も憚らず涙をぽろぽろと流し始めた。

 そんな彼女に寄り添うように、兄はブレザーを脱いで音無さんの肩にそっとかける。

 二人はどういう関係だったのだろう?

 兄はこのことについては、一度も話してくれ無かった。

 そして、これから聞けるかどうかも分からない。


「思い出した……」


 いつの間にか横に黒羽が立っていた。

 女子高生の格好では無く見慣れた黒衣の死神装束だ。

 なら、聞けばいい。音無さん本人に。

 再び鈍い光に包まれた私と黒羽は、まるでこの場に残された過去の記憶から退場するように、チリ一つ残らず掻き消えた。


 ∞ ∞ ∞


 気づくと再び花壇の前に立っていた。

 ずっとそうしていたような気もするし、白昼夢を見ていたような気もする。


「黒羽……あなた、兄と知り合いだったの?」

「……病院に向かいましょう、雫。歩きながら話すわ」


 黒羽はさっきまで過去の音無さんが座っていたベンチを寂しげに見やると、そのまま振り向きもせず花壇の前から立ち去る。

 来たときとはまるで真逆の立場で、私は黒羽の後をついていくのだった。


 私もね貴女と同じでよく無いモノが見えてたの。


 病院までの道すがら、黒羽は生前のことをぽつり、ぽつりと思い返すように語る。

 よく無いモノが見えるということを知られ、幼い頃からイジメを受けていたこと。

 ……何度も自殺未遂を繰り返していたこと。

 せめて高校では普通に過ごそうと思って、誰も知り合いがいないこの高校を選んだけど、裏サイトでこれまでのことをバラされた。

 孤立無縁の状況で、黒羽はますます追い詰められていった。

 そして、幽霊部員となっていた園芸部の花壇の前で、兄に命を救われた。


「あの後、聞いてみたの。何で、殆ど関わりも無かった私を助けてくれたの? と」


 そしたら彼なんて言ったと思う? 僕の妹も生まれつき、よく無いモノが見えるんだ。

 だから、他人事とは思えなかった、って。


 兄らしいと思った。

 そういえば、祖父母の元にいたときも地元の子達からの心ない嫌がらせから、私を身体を張って守ってくれた兄の背中を思い出す。


「だからね……恋、しちゃったと思うの。貴女のお兄さんに」


 結局、その後不慮の事故で黒羽は命を落としてしまうのだが、両親は別居中で親類縁者の誰一人としてこなかった黒羽の葬儀に参加したのは兄とその友人達だけだったとか。

 救われない話だとも思うし、私だって理解者である兄がいなければそうなってたのかもしれない。

 話ながら歩いているうちに、兄が入院する病院に着いた。

 黒羽と過ごしたのは、ほんの数日のことだけどお別れが近づいている——そんな気がした。


 ∞ ∞ ∞


 ……ここ数日の短い回想を終えて私の意識は再び現在に戻る。

 黒羽が寿命を迎えたばかりの人の魂をあの世へと誘えない理由も、何となく想像がつく。


 黒羽は愛を知らない。


 死とはその人が生きた証であり、誕生と同じように多くの人に見守られ、あの世への旅立ちを祝福することだと私は思う。

 彼女が悪霊以外に冥浄鎌を振るえ無いのは愛を知らないからという勝手な推測。

 だけど、あながち間違って無いんじゃ無いのだろうか?


「気づいてたわよ……そんなこと」


 力なく黒羽が床から起き上がる。

 彼女がどのような経緯で死神見習いになったかは分からない。

 いつだったか、黒羽がぽろっと何故兄をあの世へと誘わないといけないのか、語っていたことを思い出す。


 生前犯したとある罪で、この試験に合格しないと私は地獄行きなの。


 この罪とは恐らく、自殺未遂のことだろう。

 自らの魂すら愛せない者に対しての厳罰のようなもの……何だろうか。

 私が黒羽に駆け寄ろうとすると、彼女は片手で来ないように制止する。

 そして、冥浄鎌を再びその手に顕現させるとその柄を両手で持って、自身の胸に向けた。


「黒羽!? 何する気なの!?」

「迷惑ばかりかけて悪かったわ、雫。貴女と過ごした数日、とても楽しかった」

「お別れみたいなこと言わないでよ!! せめて、その迷惑を帳消しにするくらい恩返ししてよ!?」


 ゴメン、それは無理。


 黒羽は軽薄そうに笑う。

 けれど、初めて見るその憑物が落ちたような眩しい笑顔は何だかとても尊いモノに見えた。


 死神はね、魂を愛せないの。


 唐突に告げられた黒羽の言葉を理解することは出来なかった。

 魂が愛せない? 分からない、どういう意味か全く分からない。


「貴女の兄、恵(けい)が死んでるのは本当よ。その肉体に彼の魂は残っていない」

「そりゃ当たり前よね。魂が無いのだから冥浄鎌が振るえるはずも無い。そんな、単純なことすら私は今まで気付けなかった」

「だけど、一つだけ方法がある。天国から彼の魂を呼び戻す。それだけ」

「でも、死神見習いとして中途半端な私じゃ天国には戻れない。だから、冥浄鎌を自ら突き刺して死神の霊格を消し去る。……私は死者、これ以上は死にようが無いの。だから……泣くのはやめて、雫。こっちまで悲しくなるじゃない……」


 限界だった。

 私と同じ境遇の黒羽は、私の写し鏡。

 一つ運命の歯車が食い違えば彼女が辿った末路は私が辿ってもおかしくなかった。

 そんな彼女にこれ以上の苦難なんて負わせたく無い……。

 彼女の為なら、兄だって……。


 駄目よ、雫。


 黒羽の声が耳元で聞こえた。

 いつの間にか彼女は鎌の柄を持って私の隣に立っている。

 そして、私の手を持ってそっと鎌の柄を彼女の手と重なるように握らせた。


「黒羽!? 何させるつもり!?」

「もう、思い出してしまったのだもの。……貴女の兄、恵に抱いてた感情。天国であのお人好しに告白してやるんだから。私を惚れさせた責任取りなさいよ!? ってね」


 その鎌を突き刺せば何が起こるか分からないのに、黒羽は清々しい表情をしている。

 全く……この、はた迷惑で愛おしい友人は。


「それじゃ。お別れね、雫。私が恵を連れ戻すまで、彼の身体任せたわよ」

「待ってるからさっさと連れ戻して来なさい。二人一緒に戻って来るのを、いつまでも待ってるから」


 私と黒羽は互いに微笑み合うと、冥浄鎌を二人で持ち上げる。

 その光景を、夕日を浴びた彼岸花が静かに見守っていたような気がした。

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死神は魂を愛せない 大宮 葉月 @hatiue

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