ガードレールに腰かけてる(3/9)

それでも、名刺に刷られた文字を見るたび、朋恵は自分の居場所がどこか別にあるような気がした。三十六歳という年齢に気持ちの整理がつかない。三十までに子どもを産んで、育児が一段落したら家事の合間に仕事する――学生の頃に思い描いたレールの電車に乗れず、人里離れた駅のホームにポツンと立っている自分。


追突事故の翌日は朝から細い雨が落ち、自宅マンションのエントランスで空を見上げたとき、朋恵の携帯電話が鳴った。四度目のコールで通話ボタンを押すと、取引先が声を荒げている。

納品物のほとんどに欠陥があり、一刻も早く正常な商品を届けろという。何かの冗談?サプライズのシナリオ?まったく予期していなかった連絡に頭の中が白くなった。

事実なら、不良品をつぶさに検査して、然るべき段取りで製造元に交渉しなくてはならない。とりあえず、平謝りの通話を切って、北参道のオフィスへ急いだ。

製造元はドイツが本社の新規パートナーで、エージェント任せで書面にサインしたのが半年前。競合他社に先を越されるのを嫌い、契約を急(せ)いた。朋恵の落ち度だった。

空調の効いた車内で冷たい汗をかく。タクシーのガラス窓を雨が斜めに叩き、赤信号で停止すると、首の後ろに砂袋が乗った重さを感じた。

会社までわずか数百メートルの距離で工事渋滞に阻まれ、料金メーターだけがいたずらに進んでいく。

今日のサーモンピンクのジャケットは取引先へ出向くには派手過ぎたと下唇を噛んだ。トラブルを知ったあとに、ダーク系のスーツに着替えるべきだった。

息つく暇なく、オフィスで契約書を再確認して、顧問弁護士の事務所を訪ねた。まずは謝罪に行く意思を取引先に伝えたものの、「謝るよりも商品が先」と叱責され、ホワイトボードに記す外出先を変えた。


「これは弱った事態ですなぁ。ちょっと慢心でしたかな?」

朋恵の父親ほどの年齢の弁護士は、書面に目をひととおり通して、訛りのある口調で発した。

会社の規模が身の丈に合わず、仕事が雑になってしまった――朋恵が打ち明けると、弁護士はメガネの奥に鋭い光を宿して「あなたは当事者なんだから、自分の立場を客観視してはいけない」と続けた。

その晩、独りになったオフィスでメールを送受信すると、首がズキンと痛んだ。いつもの肩凝りとは違う感覚に、財布からタクシーの領収書を取り出してはみたが、少し迷ってからゴミ箱に捨てた。そのうち治まるだろう。忘れよう。とにかく、いまは仕事の方の事故を解決しなくてはならない。

オフィスの真ん中で首をゆっくり回して帰り支度を始めた。終電ぎりぎりの時間だった。オフィスには物音ひとつない。世界の終わりのような静けさに包まれて電気を消すと、パチンというスイッチの音で涙がこぼれた。思いがけず、前触れなく。

リノリウムの床に落ちた大粒の一滴を、慌てて電気を点けてパンプスの先で消す。

新しい滴(しずく)がまた頬をつたう。

早足で駅に向かいながら、俊哉の携帯電話にメッセージを残してみたが、翌朝も次の日の夜も返事はなかった。


取引先への再納品のメドが立って、木曜日の夜に原宿表参道のレストランで朋恵は高校時代の友人と会うことにした。気分転換できればと、友人からの急な誘いに乗った。

「最近、いろいろあってね……」

ポルトガル産ワインがもたらすほのかな酔いで、タクシーと仕事のトラブルを打ち明けていく。

ため息、愚痴――家でも職場でも弱音を吐ける相手がなく、久しぶりに再会した友人に申し訳なさを覚えながら、目の前の懐かしい顔についつい甘えた。

「たいへんねぇ……でも、トモは幸せよ。旦那さんがいて、自分の会社を持って、仕事ができて。わたしなんか、お局状態。結婚は無理でも、子供だけは産んでおきたいわ」

「わたしも子供はほしいけど……」

「それは、ないものねだりって言うのよ」

グラスに残ったワインを、友人は朗らかに飲みほした。その笑顔が作る加齢の皺に気づき、朋恵は化粧室の鏡を恐る恐る覗き込んだ。

ファンデーションの下で、張りの乏しい肌がアルコールの赤みをうっすら帯びている。


(4/9へ続く)

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