ガードレールに腰かけてる(5/9)

信号待ちのヘッドライトが、ふたりから離れた横断歩道を照らしている。

「でもね、わたしも旧姓は田中っていうの。いまは合田だけど」

「ゴウダ?なんか強そうな名前ですね」

ユニフォームに付いたポップコーンの屑を落として、岡田は笑みを浮かべて言った。

「ジャイアンでしょ?『合田』は愛媛県あたりに多い名前なのよ」

「じゃあ、旦那さんの実家が四国ですか?」

「生まれはそうだけど、家はもうないわ……もしあっても、遠くて行けないけど」

適当な返事が見つからず、岡田は口をすぼめた。

「毎日、掃除してるの?」

「月曜と木曜だけです。週二日。もっと働かなきゃまずいんだけど、次の日に遅い授業なのが火曜と金曜で……学生だって、結構たいへんなんですよ。オレ、まじめに勉強してるから」

「そうなのね……わたし、ファストフードの掃除って見たことないわ。今度、見学させてくれない?」

酔いの冷めた朋恵が、真顔で唐突に発した。



土日もオフィスに出て、朋恵には気の抜けない一週間が続いた。欠陥商品を卸した余波があちこちに出ている。

追突事故の身体(からだ)への影響は表立ってなかったものの、胃の痛みが治まらない。常備薬も効かず、刃物の先端でお腹の内側を突っつかれている感覚だ。

八月の売上げは前年を下回り、夫の俊哉も連絡を途絶えたまま。まるで、ランチタイムのカフェテリアの賑やかしさが自分を嘲笑っているみたいに思えてしまう。

あらかじめ約束していた夜、朋恵は気分転換のつもりで岡田のアルバイト仕事を見学した。

風の強い深夜に、ファストフードの二階席で缶コーヒーを開けると、ささくれだった心が不思議と落ち着いた。

「邪魔になるなら言ってね。場所を移るから」

岡田は差し入れされた缶コーヒーを持って朋恵の向かいに座った。ストライプのユニフォームの上にゴム製の白いエプロンをつけて、魚市場の業者に似た格好だ。

蛍光灯の物憂気な明かりが照らす店内は、BGMもなく、真夜中のまったりした時間につつまれている。

再会してすぐに、岡田は朋恵の顔色を気にかけた。前回見たときよりも頬がこけて、疲労の色が滲み出ている。

「……ゴウダさんって、どんな仕事なんですか?この辺の会社の人ですか?」

休憩時間と決めたのか、岡田はテーブルに置いたジャンパーから携帯電話を取り出して訊いた。同じテーブルには開封したばかりのポップコーンの袋もあって、水のペットボトルがそれに寄り添っている。

「普通のOLよ。残業続きの普通のOL」

「『普通のOL』は、いくらなんでもこんな夜遅くまで仕事しないですよね。原宿のセレクトショップとか?」

岡田の質問に、朋恵は黙っている。

「推理理由その一。いつもブランドものの服を着ている。その二、年齢以上に落ち着ついていて、ちょっと疲れてる感じ」

「あら、『年齢以上』って失礼じゃない?」

「それだけ若いってことですよ……」

頭を掻く岡田に、話題を変えるつもりで朋恵が清掃の状況を尋ねた。

「これから、全部のテーブルとイスをよけて、床をワックスがけして……乾くまで外で休憩します」

「……で、ガードレールに座って、ポップコーンを食べる?」

岡田は「正解」といった顔で、缶コーヒーを飲み干して、ダストボックスの前に拡げたゴミ袋に缶を放った。

それから、清掃をしばらく見守りながら、朋恵は自宅のベッドで横になるよりストレスのない自分に気づいた。

おでこにタオルを巻いた岡田は、朋恵に話しかけることなく、仕事を手際よくこなしていく。まるで何人分もの手足があるように動き続けて、業務用のモップでワックスがけを始める。

窓拭き用のツール、床をこするヘラ……朋恵が初めて目にする掃除道具が六人掛けのテーブルに並べられていた。

レンガ色の壁に求人用のポスターと同じサイズで写真が飾られ、フレームの中で極彩色の花が息づいている。

朋恵は岡田のモップがけを妨げないようにフロアを歩き、その写真の正面に立った。

初めて見る豊潤な花が陽光を浴びて、房状になった無数の花びらを宙に向けている。大きな花のようで、ものすごく小さな花にも見えた。


(6/9へ続く)

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