短篇小説「ガードレールに腰かけてる」

トオルKOTAK

ガードレールに腰かけてる(1/9)

テーブル席のグループが会計を済ますと、バーはとたんに雰囲気を変えた。

フロアは広くもなく狭くもなく、マスターがひとりで仕切るには程よい大きさだが、店が静寂に包まれるのはまだ早い。終電までには時間がある。

オープンしてちょうど一週間。いちばん最初にこのカウンターに座った客はどんな人だったろう──リクルートスーツを着た部下の隣りで朋恵がそんなことを考えると、携帯電話が鳴った。「番号非通知」に夫を疑い、慌てて外に出る。

駅前の喧騒から離れた場所なのに、雑居ビルの前には若者たちが集い、電話越しの声がかき消されてしまう。着信は夫ではなく取引先からだった。急ぎの用件ではなかったし、店の中で話した方が良かったな……朋恵は通話を切ってから後悔した。


「地下がクラブなんですよ。そのことが、ここに店を出すときに引っかかったんですけどね」

建物から少し離れて通話したことを告げると、マスターは眉をひそめて打ち明けた。

「クラブ通いの連中が建物の前にたむろするんです。とっとと帰りゃいいのにね。ちょっとした営業妨害ですよ」

リクルートスーツは口を挟まずに朋恵とマスターの会話を追いかけている。

「黒い服でガードレールに腰かけて、カラスみたいだわ……そうね、あれはたしかに営業妨害よ。いっそ、お店に入ってきたらいいのに」

「いや、まともに酒も飲めない輩(やから)ですよ。ああして仲間たちとつるんでるのが楽しいだけで」

L字型のカウンターには朋恵たちふたりだけが座り、他には誰もいない。無人のテーブル席でキャンドルライトがゆらめき、バックヤードのリキュールが新たな来訪者を待ち望んでいる。平日とはいえ、お客がもう一組くらいあっていいのに……朋恵は店の行く末をぼんやり案じた。

「マスターって、おいくつなんですかぁ?お若いですよね?どうして、お店を開こうと思ったんですかぁ?」

朋恵が仕事の話を切り出そうとした矢先、リクルートスーツが話題を振った。語尾を引きずるイントネーションとラメの強めなメイクに学生気分の幼さと甘さが表れている。

シンクの前でグラスを拭き終えたマスターは、ボタンダウンシャツの襟を正した。

「普通は、いくつに見えます?って聞き返すんだろうけど、ちゃんと答えますよ。今年で四十三です」

「えー、ウソー!わたしより二十も上ですかぁ!?全然見えなーい」

「嘘よ、嘘、嘘」

リクルートスーツの過剰な反応に、朋恵が慌てて言葉を重ねる。

「ほんとうは、今年で三十三です。ゾロ目のさんさん」

正確な年齢を打ち消す感じでマスターが有線のボリュームを上げ、80年代のアメリカンポップスが店内に紛れ込んだ。

「わたし、いつか、店をやりたいんですぅ!」

社会に出たばかりのリクルートスーツは、朋恵の存在をないがしろにした調子でカクテルグラスを傾けた。グラスに残った液体が、間接照明の具合でライトアップした水面に見えて、ふと、朋恵はいつかの花を思い出す。

それは地中海のそばに咲いている花だった。



朋恵が「彼」に初めて会ったのは八月最後の月曜日。東京全体が太陽を忘れてしまったような一日だった。

デスクトップパソコン、オフィス共有のプリンター、蛍光灯のスイッチをオフにして、事務所に鍵をかける――普段と同じ一日の終わり、カルチエの腕時計は深夜の二時半を示していた。

週の始めだというのに、手足の関節がたくさんの分銅をぶら下げた感覚で、目をつむると、まぶたの裏がちかちかした。

北参道の交差点で拾ったタクシーが急ブレーキと急発進を繰り返し、朋恵の心身をいっそう疲れさせていく。

そして、信号が黄色に変わり、バッグから目薬を出したとき、おでこが助手席のヘッドレストにぶつかった。座っていたイスをいきなり後ろに引かれた感覚だった。

運転手が車から急ぎ出て、朋恵はアクシデントを把握した。

まったく、こんなときについてない。自分のタクシーが追突事故に遭うなんて。シートに座ったままウィンドウガラスを開けると、生温かい夜風に頬を撫でられた。

そこは、シャッターの降りたファストフードの前で、いつもは何事もなく通過している場所だった。


(2/9へ続く)

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