ガードレールに腰かけてる(2/9)
運転手に促されて外に出ると、追突してきた男は携帯電話を耳にあてていた。保険会社か警察か、繋がるのを待っている様子だ。
等間隔の街灯が片道二車線の道路を照らし、事故車以外に通行の流れを遮るものはない。
向かい側で点滅を繰り返す日焼けサロンの看板を見て、朋恵はふぅっと息を吐いた。明日の朝はいつもより早く家を出て、オフィスでプレゼン用の企画書をチェックする。午前も午後もスケジュールがいっぱいだ。週始めの今夜は体をできるだけ休めたい。こんな時間に、こんな場所で足止めされている場合ではない。
うなじに手を添え、首を一回転させる。逆方向にもゆっくり。追突の影響が分からないくらいに肩凝りがひどく、肩甲骨にも重い分銅がぶら下がっている感覚だ。
加害者と被害者の運転手ふたりは朋恵を置き去りにして、傷ついたバンパーの前で言い合いを始めた。
「災難ですねぇ……」
話しかけられて振り返ると、ガードレールの内側で痩身な若者が立っている。ストライプのユニフォームを着て、両手に缶コーヒーを持ち、きちんとした教育を受けた優等生の顔立ちだ。フレームのないメガネは新調したばかりか、まだ顔に馴染んでいないように見える。
取り繕いの会釈をして、朋恵はファストフード店に視線を移した。二階のフロアでは、積み上げられたイスが窓ガラスに寄りかかり、脚の間から蛍光灯の明かりがこぼれ落ちている。
「ちゃんと警察を呼んでもらった方がいいですよ」
若者は穏やかな口調で右手の缶コーヒーを差し出してきた。
「これ、当たったんで、よかったらどうぞ」
屈託のない笑顔に乗って、朋恵は小声の礼で受け取り、ぎこちない笑みを返した。自動販売機に長く留まっていたスチール缶がひんやりした感触を掌に伝える。
「お客さん、大丈夫かい?」
タクシーの運転手ががなり声で朋恵に尋ね、加害者の男は車道側に顔を向けたままタバコに火をつけた。
「もうすぐ、おまわりさんがくっから、ちょっと待っててくれっかな?」
ポケットに手を突っ込みながら憮然とした表情で運転手が続け、加害者に聞こえるほどの舌打ちをする。
「はい」も「いいえ」も言わず、朋恵はジャケットの背中を丸めた。折からの風が街路樹をざわめかせ、夏とは思えない気温に悪寒がする。警察が来たら、しばらくは解放されないだろう。とんだとばっちり。あり得ない災難。ふぅっと、また息を吐く。
ガードレールに腰かけた若者の左袖にネームプレートがあり、そこに「K.OKADA/CLEANER」と印字されているのが目に留まった。
「……すみません、わたし、帰ります」
缶コーヒーを握ったまま、朋恵は最初に若者に告げて別のタクシーを拾った。
◼
ゴールデンウィークを過ぎた頃から、朋恵が夫の俊哉(としや)を見かけるのは二週に一度くらいになった。
アメリカの同時多発テロの余波で単身赴任先から帰国して以来、夫は明らかに変わった。意を決して渡米したのに、たった数ヵ月でキャリアを閉ざされ、ニューヨークの空港に人生そのものを置き忘れてきた感じだった。
家にいるときは自室にこもりきりで、帰宅した妻とめったに顔を合わせることはなかった。
結婚して八年。朋恵が寄り添おうとすると、俊哉は心の内側に固い鍵をかけた。まるで、顔に大きな傷を負い、他人の視線から逃れるような態度だった。
夫婦の倦怠期というありきたりなものではなく、思い当たる節はニューヨークでの出来事以外にない。エリート社員のPTSD――心の傷は誰の目にも見えず、その深さも計り知れない。他人同士がたまたま同じ屋根の下で暮らし、お互いのプライベート空間に配慮している感じだが、妻はそんな配慮を夫に願った覚えはなく、他人行儀の遠慮も望んでいなかった。家にいない夜はどこでどう過ごしているのか……何かを問うことが怖く、とりあえず、時間が過ぎていくのを待つしかない。いまはそういう時期なのだ、と。
私生活と反比例して、仕事は順調に数字を伸ばしていった。たった三人でスタートした事業が追い風に乗り、わずか二年の間に「代表取締役」として、朋恵は十五人の従業員を持つ身になった。企業経営というプレッシャーで、目薬と胃腸薬とビタミン剤が欠かせないものの、オフィスでの充実感が家庭の病を和らげているのは確かだった。
(2/9へ続く)
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