残されたもの

 その事件は、「争うような声が聞こえた」「なんだか変な臭いがする」といった、両隣をはじめとする、他の部屋の住人の訴えを聞いたアパートの管理会社の担当者と大家、そして立ち会ってほしいと頼まれた近所の交番の巡査が部屋に立ち入ったことによって発覚した。

 

 2DKの建物の一室で死亡していたのは、田中伸江という六十二歳の女性だった。その遺体には三十七箇所に及ぶ刺し傷があったが、心臓や肺まで達する深い傷のいずれかが、致命傷となったものと思われた。尤も、通報までおよそ三日間、この真夏に放置されていた遺体であるから損傷が激しく、死因の特定には時間を要した。


 伸江には、離婚した夫との間に賢治というひとり息子がいた。事件当時三十四歳の彼は、新卒で入社した有名企業では低い職務能力とは裏腹に尊大な態度を取ることで周囲からよく思われていなかった上、人間関係でトラブルを起こして解雇となり、それ以来、家から出ていなかった。解雇された後は、就職活動らしい就職活動もせずに自室にこもっていたらしい。典型的な引きこもりである。


 賢治は、母親に対して暴言を吐いたり、時には殴る蹴るの暴行を加えたりしていたようだ。伸江が役所や支援センターなどに相談をした記録は確認されなかったが、「以前から男の怒鳴り声や何かを叩く音が聞こえることはあって、何か問題がある家なのかな、と思ってはいた」という証言が複数の住人から寄せられたことがその根拠となった。また、伸江の遺体があった部屋は賢治が使っていたとみられるが、何年敷いたままだったのか、布団の下の畳にはカビが生えており、壁には殴って開けたものと思われる穴がいくつも開いていた。これも、賢治の暴力を裏付ける証拠として採用された。


 事件の態様は、賢治が将来を悲観して伸江を道連れにしようとした、無理心中であろうと推定された。事件現場が賢治の部屋であったこと、凶器として使われたと思われるダガーが賢治の所有物であったこと、ダガーには賢治と伸江の指紋および血液が付着していたことからそのように判断されたのだが、それにしても、不可解な点があった。


 ひとつは、凶器として使われたもの以外にも現場には複数のナイフが残されており、その全てに賢治の指紋と血液が付着していたことである。これは賢治が無理心中に及ぶ前、あるいは事後に自殺あるいは自傷行為に及んだためと考えれば説明が付くように思われたが、それにしては使われたと思われるナイフの本数が多いことがいかにも不審であった。もしかしたら賢治は精神障害を患っており、このような行動に出たのかもしれないと考えることもできた。しかし、事件当時の賢治の精神状態について、詳細を知るのは不可能な状況であった。

 

 不可解な点はもうひとつあった。現場には伸江の遺体しか残されておらず、賢治の死体は室内にはなかったのである。賢治の精神状態を解明できない理由はここにあったのだが――現場に残された血液の量から、賢治も致命傷を負ったことはほぼ確実と見られており、現場で絶命していなかったのは極めて不自然である。

 瀕死の状態で逃走を図り、屋外で死亡した可能性も皆無とは言い切れないため、五十人体制で捜索が行われているが、賢治の死体は発見に至っていない。数々の証拠が伸江を殺害した犯人は賢治であることを示唆しており、賢治の死体が挙がれば被疑者死亡のまま書類送検、という形で決着が付けられそうなところだが、現時点では賢治が生存している可能性を完全に排除することはできず、現在も捜査が続けられている――。




 八神はここまでの内容を確認して一度資料から目を上げた。

 ありがちな、中高年引きこもりによる家庭内殺人だな――それが八神の第一印象だった。彼は犯人とは同年代だが、正直いって、一体何が不満で引きこもりなんぞになったものか理解できないし、ましてただひとりの肉親である母親を長年にわたって痛めつけ、あまつさえ残虐に殺すような男を許す気には全くなれない。もちろん、刑事である八神が捜査に私情を持ち込むのは禁忌だが、それでも――こんなに同情する気になれない殺人犯というのも珍しい。

 

 八神は再び資料に目を落とした。

 そこには数枚の現場写真があったが、うち一枚には、部屋の床いっぱい――より具体的には、部屋のドア付近から窓のすぐそばまで――太く長く、まるで何かが這いずった跡のように残された血痕が写されていた。一見すると、重傷を負った犯人が窓からの逃走を試みた際に残した痕跡のようだと言えなくもない。しかし、現場に残された犯人の血液の量からして、逃げおおせることは不可能だったのではないかと思われたし、何より――現場は四階だった。万が一、犯人が瀕死の状態ながら窓からの逃走を試みることができたとしても転落死は必至であり、そう考えるとやはり、犯人が窓から逃げた可能性は皆無といえた。階下の地上に犯人の死体はおろか、その他一切の痕跡が残されていなかったことも確認済みである。



 だとすると、犯人――田中賢治は一体どこへ消えたのか。

 

 懸命な捜索にもかかわらず賢治は発見されず、「暴力的な引きこもりが起こした無理心中」という事件の態様は明らかでありながら、犯人が挙がらなかったため、この事件は未解決事件ファイルへの仲間入りをすることとなったのである。





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うまれそこない 金糸雀 @canary16_sing

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