死んでしまえ
俺は、コレクションしているナイフの中から、小振りで扱いやすいが切れ味が抜群の一本を選び取った。膝を立てて座り、左膝の口を睨みつけながらナイフを高々と掲げた。
『そんなもの振りかざして、一体どうするつもり?』
せせら笑う口に向かって、まっすぐに刃を突き立てた。左膝には目もくらむような激痛が走るが、構わず二度、三度と繰り返し刺す。
「死ねっ! 死ねっ! 死んでしまえ!」
饒舌に俺を罵っていた口は
しかし、左膝からの出血が止まる気配も見せないうちに、今度は右膝にちり、という違和感を覚えた。
まさか――という予感は的中し、そこには、左膝にあったのと寸分違わぬ艶めかしい、朱い口があった。
『私に対しても暴力でどうにかしようとするのね、ホント、つくづく最低。
でも、私をあんなナイフで殺せると思うなんて甘いわ。
私は――』
「うわああああああっ!」
みっともなく叫びながら、今度は右膝を滅多刺しにした。断末魔の叫びを上げた口は足の裏に、腹に、腕に、手首に――潰しても潰しても、新たな場所に現れては俺に対する罵倒と嘲笑を繰り返し、死ねと恫喝した。
血と脂で切れ味を失ったナイフを投げ捨て、ずるずると這いずって別のナイフを手に取る。そして足の裏の、腹の、腕の、手首の、口を潰し、潰し、潰し、潰し――
狂ったモグラ叩きのように俺はナイフを振るい続けた。
てめぇこそ、てめぇこそ死んでしまえっ。
この、このこのこの――生まれ損ないのクソ女っ。
罵りながら口を潰すと、また別の場所に現れた口が罵り返す。それはいつ終わるとも知れない罵倒合戦であり、互いの
かちゃかちゃ、という物音が聞こえた。これはババアが朝飯を置きに来た音だ。
「一日三食、飯を俺の部屋まで運べ。食い終わったら食器を廊下に置くから片付けろ。ただしドアを叩くな、俺にべたべた声を掛けるのもやめろ」
もう随分前にした命令を、あのババアは忠実に守り続けているのだ。何年前だったか、馴れ馴れしく話し掛けてきたので部屋の中に引きずり込んで、胸倉を掴んでタコ殴りにしてやって以来、ずっと。
母親の気配が完全に消えてから俺はそっとドアを開け、
――あんたそうやってお母さんにごはん運ばせてるのね、みっともない。
という声を聞きながらトーストと目玉焼き、サラダの載った皿を部屋の中に引きずり込み、まだ無傷で残っている左手を不器用に使って朝飯を食った。どうやら、今は俺の鎖骨の辺りに、口はあるようだ。食い終わったところで、左手の箸をナイフに持ち替えて口を始末した。
血液を失ったせいか、それとも痛みのせいか、あるいは単なる寝不足か。
俺はほんの一時、意識を失っていたようだ。
どんどんどん、とドアを叩く音でハッと目が覚めた。
この家に、俺の部屋のドアを外から叩ける奴はババアしかいないが、こんなに乱暴に叩くことはなかった。少しでも大きな音でドアを叩けば殴り倒すと言い渡してあるからだが、それにしても珍しいこともあるものだと思っていたら、
「賢ちゃん? どうしたの? お皿に血が付いていたけど、あなた、怪我をしているの? 大丈夫? ねえ、開けて――」
取り乱したような大声が聞こえる。
――そうか、気を付けていたつもりだが、血が垂れていたのか。
『ほらほらボクちゃん、ママが呼んでるわよ。開けてあげないの?』
嘲る声がいやに近くから聞こえるのでもしやと思って触れると、右の耳たぶの裏に、あの忌々しい口があった。
「うるせぇんだよ!」
俺は怒鳴り付けた。同時に、もういっそ耳ごとやかましい口を切り落とそうと試みたが、手近なところには切れ味の落ちたナイフしかなく、耳の端が少しずつ切れるだけだった。
座り込んで耳を切り落とす作業にかまけている間にドアが開いた。母親が、恐る恐る、しかし毅然とした目付きで部屋に踏み込んでくる。
「賢ちゃん、あなた何を――」
息を呑んだ母親は、死ぬのはやめて、お願いだから――などと叫んでいる。
違う、違う違う違う。そうじゃない。
俺は死にたいんじゃなくて、このうるさい口を潰したくて――
「クソババアっ! てめぇのせいだ!」
しかし、叫びながら気付いていた。
――そうだ、こうなったのは全部、このクソババアのせいではないか。
「てめぇが、俺を生んだから! 俺の片割れを、生まなかったから!
だから――だから、こうなったんだっ!
てめぇなんて――死んでしまえっ」
俺とババアはその場で揉み合いになり、
――気付いた時には、ババアは死んでいた。
その身体には数十箇所の刺し傷があり、辺りにはこれまでとは比べ物にならないほど濃厚な、血の臭いが充満していた。俺はうるさい口を潰すのに必死なあまり全身に怪我を負っていたにもかかわらず二本の脚で立って、仰向けに倒れたババアの死体を見下ろしていた。
『あーあ。あんた一線を越えちゃったわね。どうするの?
まさかお母さんが生き返るとか思ってないよね?
どうするのよひとりで生きて行けないくせにお母さん殺しちゃうなんて』
「俺はやってねぇよ!」
『じゃあ、右手に持ってるそれは何?』
――右手? 何を言っているんだ?
忌々しいその口が何を言いたいのかわからなかったが、俺は、半ば反射的に右手を見た。
俺は、コレクションの中で一番大きなダガーを握りしめていた。
それは、血塗れで、その血は、俺の血では、なくて――。
ダガーを取り落とした俺に、声は囁いた。
『やっと気付いた?』
声は先ほどよりは幾分だが遠くから聞こえた。
右耳に手をやると、そこにはあるはずの耳たぶがなく、どうやらどさくさ紛れに耳たぶごと口を切り落としてしまったらしいと気付く。
痛みと、血の臭いと、それから、自分がしでかしたことの重さとでくらくらする頭で、あのちりりとした違和感が直近で起こった場所はどこかと思い出す。
――そこか。
俺は、ナイフを拾った。
そして。
喉にぱっくりと開いて好き放題囀る口を、刺した。
何度も何度も何度も何度も――
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