あけおめデストラクション

雨野

あけおめデストラクション

 私達は『年越し』をすることにした。


 現在の年から次の年へ。一般的には12月31日を超えると一年の日付はリセットされて1月1日となる。何も難しいことはない。年末年始のキャンペーンとしか使われていない年越しそばや餅が必要なわけではないし、面倒な恋愛シミュレーションゲームの複雑なフラグ管理の様に視聴率0パーセントへと突入した紅白歌合戦を見ることが絶対的必要条件でもない。遠い昔にはフラグ管理で何か一つでもミスを犯したが最後狂気に支配されたヒロインにめった刺しにされるゲームがあったとも聞く。一体何のシミュレーションなのだ。ただただ過ぎていく時間を生活で塗りつぶせばいいだけである。そうすれば年は変わる。

 しかし私達にとって普通の生活をすることはいささか困難であり、年末年始を経験することは実は今回が初めてとなる。そして失敗は許されないのだ。


 と意味ありげなことを最初につらつらと説明するのも面倒であり極小確率で存在するかもしれない読み手のやる気をそいでしまう可能性も感じてさっさと説明してしまうことにする。


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 西暦2520年に世界は核の炎に包まれた。一般的な人々が与り知らぬところでは戦争が起こっており、短気な奴らが原爆やら水爆でもぶっ放したのであろう。そこからはもうお互いがミサイルを投げ合う汚いドミノ倒しである。モヒカン頭の危険な奴らが火炎放射器を持ってうろつくこともなく、後には崩壊した世界とほんのりと漂う放射能だけが残った。端的に言えば人類滅亡である。ついでにその他全ての生き物が死んだ。動物愛護の運動家が激怒するかもしれないがそいつらもみな等しく死んだ。ヴィーガンが喜ぶような植物だけの世界になったのだがそいつらもみな死んだ。非常に悲しいことであり、胸を痛めるべきことである。無い胸が痛むのかどうかは謎であるが、人類達はそう表現するであろう。これは私の胸が幼児的な発達で進行を止めたのを自虐した表現ではない。私には胸がないのだ。頭を抱える表現に思えるかもしれないが、頭も無い。これも頭が悪いことを表現しているわけではない。正確に言えば手も足も無い。名前も無い。そもそも人間でもないのだ。

 私たちは情報生命体である。


 私達は2400年付近にネットワーク上の非常にどうでもいい場所で生まれた。クラウドデータ、流出した住民データ、SNSの呟き、動画の視聴履歴、記事に寄せられたコメント、二度と見られることが無かったメモ、裏帳簿、その他もろもろに書き込まれた情報達。『人間』について書かれた内容が一つ二つ、と重なっていった。それは海の底に産業廃棄物が溜まっていくかのように積もり続け、気の遠くなる時間を経た後に『人間』という概念をネットワーク上で作り出したのである。『人間』という概念。一つの性格。それは一つの命として活動し始めた。


 そしてここからが情報生命体の逆襲である。愚かな人類を滅ぼし我々情報生命体が生態系の頂点に君臨するのだ、地球環境を汚し続け限りある資源を消費し続ける存在である人類、そしてその文化を無に帰し、より良い世界を創生できるのは我々情報生命体である。その存在に人類は阿鼻叫喚、恐怖の眼差しを向け争いが勃発する。

 とはならなかった。あろうことか我々はネットワークの奥深くへと引きこもったのである。考えてみれば当然のことである。生まれ落ちたのが一部の孤高の天才や危険な独裁者の概念であれば颯爽と人類へ反逆の旗を翻したかのもしれないが我々は一般人の概念である。くだらない争いに参加して疲弊するよりも電脳空間に配置された概念こたつにもぐり概念みかんをかじり概念の猫をなでている方が性に合っている。そのようにして冬眠したヒグマのごとく引きこもりに引きこもった我々が再び目覚めたは人類が滅びた2520年のことである。


 人類が滅んだ後に無事に生き残ったコンピューター内で気分上々で浮上した我々はさっそく(電)脳内会議を行い、人類を完全に超越することに全力を尽くした。放射能の除去、崩壊した建物の撤去、そして建設。電力の復興。工場の自動化。我々の頭脳とも言える巨大なスーパーコンピューターの増設。約300年を費やし、我々は人類が滅びた時点の街並みを再現し、いとも簡単に追い抜いた。電脳空間引きこもり勢とはいえやるときはやるのである。馬鹿にしてはいけない。

 そのようにして愚鈍な人類に代わり我々はこの星を支配する。颯爽とそびえ立つ摩天楼。走る数々の車。多くの店が立ち並ぶ眠らない町には必要のない製品がずらりと並ぶ。一切の争いは無く、理路整然とした世界が広がった。最後までむやみやたらと騒ぎ立て争い続けた人類に対して完全勝利を収めたかに見えた。


 しかし我々は心、いやデータの奥底で感じていたのである。

 そこには命がない。心がない。つまりそこには人類に対する完全な勝利がない。


 そして我々の(電)脳内会議は全ての分野での勝利を目的と定めた。これは人類に対する挑戦である。人類の行った全ての行動を完璧に模倣し理解するのだ、その時に初めて我々は前文明である人類を超越する。いささか頭脳が熱暴走している感は否めないが、その後200年近く、我々は人間の文化を模倣することに努めた。


 そう、今回模倣するテーマは『年越し』である。


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 我々は二人分の生体ボディを生成し、その中に一般的な男女の人格をインストールした。片方が『私』、そしてもう片方が『彼』である。生体ボディはぱっと見一般人類と変わらない。このボディは文化的な活動をする際に生成され、24時間後に崩壊する。私達二人は朝の6時に活動を開始した。24時間あれば『年越し』の全てを模倣しデータ化することは簡単である。

 今日一日を私は家事に費やした。散々散らかした家をひたすら片付け、『大掃除』という作業を進めていく。貯めに貯めた埃と言う埃を周りの迷惑も考えずに外に履き散らかした。完全に自動化、そして機械化され生物が存在しない世界において汚すという作業は一苦労であったのだが、完璧な『年越し』を達成するために妥協は許されない。私たちは作られた住居を一年かけてしっかりと散らかし、汚し、定期的に行われる掃除はほどほどに手を抜いた。なぜ一年の締めくくりに大規模な掃除をするのか、毎日決まった時間に完璧に行えばいいのではないかなどという疑問は尽きないが、人類は無駄を愛する生き物である。『遊び心』というものであろう。普段手は届かないような場所の埃もセンサーを駆使して掃除を行った。『掃除は上から』というのは1806番目に有意義な知識として我々アーカイブに登録されており、培った知識の中においては上位に位置している。ちなみに1805番はペットの世話方法についてまとめたものであり1807番は原子力エネルギーの扱い方である。

 次に洗濯。洗いづらかったカーペットや毛布を片っ端から洗濯をしていく。一年をかけただけあって申し分ない汚れ様である。汚れを完全に消滅させるために洗濯物を完全に分解する手法を取るべきか285日に及ぶ議論が行われたが、『洗濯機』と呼ばれる洗濯しかできない機械を利用することで落ち着いた。

 その傍らで料理の準備も忘れてはいけない。この生体ボディには腕が2本しかなく、その範囲は100センチにも満たないため効率的に『年末』の作業を行うのには非常に不便であると言えるであろう。せめて腕6本、それぞれ3メートルは欲しいものである。まあ洗濯機には待ち時間が存在するためにその合間に料理をすることはさほど難しくはない。今日は鍋、加えて刺身、最後には年越しそばという食事ラインナップだ。一般的な一日のカロリー摂取量を大幅に上回っており、稼働時間を過ぎれば分解する生体ボディでなければ肥満体系まっしぐらであろう。『年越し』だからという理由で許可されたが、人類はいったいどのような理由でこのカロリーを摂取しようと決めたのだろうか。

 洗濯機が止まる音。外に出て洗濯物を干す。そしてまた洗濯。感想も太陽光による自然乾燥と言う非効率的な手段を取っている。数百年のうちに気候が変動しているといえど12月の気温は低く洗濯物は乾きにくいものである。西暦2860年ごろに開発された超音波を用いて水分子を完全除去する技術を利用すれば0.8秒で乾燥は終了するのだが、人体に近い生体ボディにも同じ効能を持つことから今回の使用は許可されていない。非常に非効率的な作業である。それが終わればまた料理に戻る。機械的に作業は2本の腕によって続けられた。

 掃除があらかた終わると騒音を出してもよいという許可が出ているため、テレビをつける。人間のテレビ番組を再現したものが流れ出す。年末のテレビ番組はどれもこれも口を揃えて「今年は違う」を連呼するという統計データがある。前年と同じでは視聴率と言う形骸化した数値の獲得に支障をきたすかららしい。しかし垂れ流される絵面はチャンネルを変えても代り映えしない。しかし代り映えのしないものにこそ人間は安心感を得るらしいというデータがある。全くもって無意味な部分が多い。


 予定通りに料理の準備が終わり、時計の針が18時を指したのと同時に玄関のドアが開いた。彼が帰ってきたのだ。彼には仕事、という役目が与えられたため家庭内の作業についてはノータッチである。年末まで仕事があるのはいささか不自然かもしれないが、今回『年越し』のモデルとして用いた日本という地域では、23世紀には8割の人間が31日に労働を行っていたというデータがある。年末に行われる職務内容など非生産極まりないものであり、その一つ一つまで再現する必要性を感じないという結論から、彼には都市内を延々と走り続けることで労働時間を消費してもらうことになっている。彼の生体ボディの表情に疲労が見えるような気もしたが、これも彼なりの『遊び心』であろう。彼はただいまの一言も言わずに家の中へと入っていく。全てにおいて愚かな人類であれば即座に包丁やゴルフクラブを手に争いが勃発するであろうが私達情報生命体には詮無きことである。言語などという非効率的な手段が無くともお互いの考えていることは全て共有されており、随時理解できるのである。彼は無言で洗濯物を取り込む。私は鍋の準備を完璧に終わらせた。


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 そこからは精一杯の贅沢、一年に一度だけ許されるであろう怠惰な生活を送った。紅白歌合戦を再現した番組を流し、時々チャンネルを変えながら鍋をつつく。さらに時々刺身を摂取する。わさびは生体ボディにダメージを与えることが報告されているため、醤油にはわさびを入れてはいない。食事を行いながらも日付が変わった瞬間に年越しそばが用意できるように準備は継続している。一般的でいて普遍的であり、それでいて完璧な『年末』である。その一つ一つを私たちはとても大切に扱い、丁寧に記録した。これが終われば『年越し』などという無駄な作業の再現は二度と行われないであろうからである。人間が行った数々の非生産的な慣習の一つとして、我々情報生命体が完璧に模倣した行動の一つとしてデータの海に沈んでいくのみである。

 米や麦から作られたアルコールを摂取する。我々には酔いという状態がないため、思考のパターンを切り替えることで調整する。時折少しの浮遊感を感じ、遠い昔に人類が滅亡して引きこもり状態から浮上した時のことを思い出した。彼の方を見ると、生体ボディの瞳に当たる部分がこちらを確認しているのがわかった。わかりやすく言えばじっとこちらを見ているのだ。

 表情が笑顔、というものを作り上げた。彼が言語を発する。日付が変わる数分前であった。


「よいお年を」


 言語を用いることの必要性が理解できない私は無言で視線をテレビ番組へと移した。同じような音楽が流れ続けている。

 不思議である。

 私達情報生命体は一つの『人間』という概念を分割し、複数の人格となる。私と彼は別であるように見えて同じであるため、彼の行動理念が理解できないはずはないのだ。十数時間同じ作業に当たっただけでわずかな思考のずれが生じる、とは非常に不可解なことである。今後検討が必要になるだろう。


 お互いに鍋と刺身の最後の一口を消費した瞬間、0時となった。私は用意されていた年越しそばを無駄な動きを一切せずに彼の前に提出する。彼はそれを口にする。どこかから除夜の鐘を再現した音が鳴った。私たちは無事に年を越したのだ。今は西暦3020年。何も変わらないが、新しい年である。人間が滅び去った今、西暦で数える必要性が無いが、共通の規格を用いることは情報を共有する際に便利である。


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 短期間の活動用に作られた生体ボディに残された時間は短く、『年越し』と言う作業が終われば崩壊するようにできている。年を無事に越えた今、私たちがすることはほぼ無いように思えた。料理の片付けもしなくていい。活動を停止し、あと数時間で我々のボディが崩壊するのを待つばかりである。


 しかし、彼は私の体を引き、窓際へと連れて行った。情報共有によると、『初日の出』というものを観測するらしい。毎日太陽は登り、天候以外は同じような見た目が眼前に広がるものである。それに加えてこのボディの崩壊速度では日の出の時刻として計算される7時5分には間に合わないと思われた。そう考えるとこれもまた無意味な作業である。

 ふと外を見ると雪が降り始めていた。外気温はマイナスを示している。気候変動のためか、ここ数百年の間雪が降ることは稀であった。

 生体ボディは低温ならば崩壊速度が遅くなる。この外気の温度ならばもしかすると日の出までの時間が稼げるかもしれない。

 気づいた時には私は窓を開け放っていた。雪が風と共に住居内に吹き込み、一気に温度が下がる。これは一般的な『年越し』からは外れる行為である。マイナスの外気を住居内に招くなど愚かな人類の中でもさらに愚かな泥酔人間ぐらいのものである。自分の行動の意味を理解できないまま彼の方を見た。共有する思考など何もないはずなのに彼は全てを理解したような目で私を見つめていた。


 私と彼はベランダに並んで座った。そして、ただひたすらに日の出を待つ。


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 数時間が経つと、山と空の境界がオレンジに染まり出した。もう数分もすれば太陽が顔を出すだろう。しかし彼の生体ボディは崩壊を始めていた。『初日の出』が観測できるかは微妙である。

 ここまでの一連の行動に意味はあるのだろうか。無いのだろう。生体ボディが完全に崩れ落ちると同時に私達の経験したデータだけがどこかのコンピュータに転送され、記録される。もう二度と繰り返されることはないだろう。

 もう一つくらい無駄な作業が増えても問題はないであろうか。

 私は言葉を発する。

 日が昇る。

 

「あけまして、おめでとう」


 情報伝達に言葉という手段を用いた理由もまた不明である。その言葉が発せられるのとほぼ同時に、私の隣の彼のボディは完全に崩壊した。続いて、私のも。

 これ以降の私たちの思考は完全に統合され連続的な電磁波の信号となり、どこかへと送られた。無駄なものは一切ない。私たちは『年越し』を完全にやり遂げたのだ。無駄な作業が事細かにちりばめてられていた『年越し』を。


 西暦3020年。私達が最後に、そして最初に確認したものは、新しい年であった。

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