第8話 愛されること愛されないこと

    八. 愛されること愛されないこと


 傷が抉られた。俺のじゃない。


 胸の中にナイフを突っ込んだような傷だ。俺の胸じゃあ、ない。


 その傷はいつの間にか付けられていたものだ。


 知らぬ間に、それは大きくなって、消えなくなってしまったものだ。


 いつもは何かで覆われていて、見えないふりをしていた。


 その傷が抉られた。



 ヒカルの姉が訪ねてきていた。そして、俺はそれを一度は拒んだ。


 目的の人物は現在、不在である。日を改めて来られたし、といったところだった。


 しかし、「今日はその手は食わない」とあちらは退かなかった。半ば強引に部屋に押し入ると、クッションを抱えたヒカルを、彼女は見つけた。ヒカルの姉は、それを見るとホッとしたような表情で言った。



「いつまでこうしているつもりなの?」



 嗜虐性。


 一言で彼女を表すとしたら、それだった。その裏付けは、ヒカルの背中に無数の烙印として残されていた。人間を弄ぶことが、彼女だった。少なくとも、俺にとってはそう見えた。


 ここで語るに忍びない内容が、口から飛び出して止まらなかった。ヒカルは、その怒涛を黙って受けていた。どんな風に感じているか、俺には分からなかった。少なくとも、いい気持ちではなかっただろう。当然だ。


「お茶のひとつでも出せないの? あ、大丈夫。あなたに言ってるわけじゃないから。ね、ヒカル。やっぱりあんたは気が利かないね」


 俺は口を挟むことはなく、もちろん、歓迎することもなかった。俺にはヒカルの姉を止める力も賢さもなかった。


 気力が、なかったんだ。


「楽な方にばかり逃げてたらダメだよ。帰ってこられなくなっちゃうでしょ」


 ヒカルは彼女の目を見ることもなく、身じろぎひとつせず聞いていた。もしかしたら、聞いてなかったのかもしれなかった。


「ほら、頑張ってごらんよ。散歩とかぐらいはしてるんじゃないの? できるから、根性出せば人間ってなんでもできるから」


 彼女はそう言って、ヒカルの両肩を掴み、無理矢理立たせるように引っ張り上げた。ヒカルは、なされるがままに立ち上がると、しかし、すぐ壁沿いにずるずると床に落ちた。


 俺は部屋のどこにいればいいのか分からなかった。たった一人の人間に、そこは制圧されていた。


「あんたならまだできるよ。もう充分休んだでしょ? 違う? 仕事してないとわからないかもしれないけど、普通はこんなにまとめて休まないんだよ」


 おそらく、大きな身振り手振りや道具は彼女に必要ではなかった。明るく励ますような語調と、自身の行いの正当性を支える笑顔が凶器だった。


 もしかしたら、彼女は現代社会の「俺たち」に対する意見の象徴だったのかもしれない。もしかしたら、彼女こそが正論なのかも、しれなかった。


 夕暮れに染まる空を見る頃、彼女は帰った。置き土産に、特別可愛らしくも感じられないぬいぐるみをヒカルに押し付け、バイバイ、また来るね、と言った。時間の流れが遅すぎるくらいだった。


 沈黙が部屋に横たわった。夕方、子供に帰宅を促すメロディが、茜空を切り取った窓から入ってきた。それが止むまで待っても、俺からは何も言えなかった。


 ヒカルは涙のひとつすら見せなかった。


 彼女は感情発露の回路を「とある事情」でほとんど欠いていた。


 その「とある事情」の一端を担う人物が帰っても、失われたものは戻ってはこなかった。一方通行の、ある意味、人間性の搾取だった。


 ヒカルに何が与えられたのだろう。いくらかの生活資金か。無視に近い環境での自由か。


「……」


 それとも、今まさに陥っているような、無惨に弄ばれた姿か。もしくは「歩く嗜虐性」が時間をかけ、ヒカルの背中に作った正視に堪えない無数の火傷跡か。いずれにせよ、ヒカルという人間の精神の骨組みを脆弱にするには充分な行為がなされていた。



 その日、ヒカルはシャワーも浴びず、夕食も摂らず、煙草も吸わなかった。


 俺は努めて普段通りにヒカルに接しようとした。しかし、ヒカルには言葉が届かなかった。手を握ってみると、力なく、するりとそれは抜け出してしまった。


 無理に抱き上げて布団に運ぼうともしたが、ヒカルは頑なに壁際から動こうとしなかった。根が生えたように、そこにいた。


 俺には何ができただろう。怒鳴ってヒカルの姉を追い出せばよかったのだろうか。それとも、話をうまく逸らしてやればよかったのか。


 分からない。


 俺はヒカルのショートホープを、「希望」の名を冠する煙草を、吸った。部屋の電気は落としたままだったので、煙草の火が赤々と浮かび上がった。


 窓から差す街灯と月光。


 サーキュレータの稼働音だけが耳についた。


 ヒカルは動かず、呼吸すらほとんどしていないようだった。それを認めると、俺は世界に、自分とヒカルしかいないような、そんな錯覚に陥った。


 傷付いたヒカルと、傷付いた俺。どこかしら歪んでしまった、俺たち。


 そのたった二人しかいないような。


 ショートホープはすぐにフィルタぎりぎりまで燃えた。印字されてある「ホープ」の英字が焼け消えそうだった。


 俺は少し早めに煙草をもみ消すと、水をコップに汲んで少し飲んだ。どんな人間にだって、希望はなくてはならない。


 たとえ、それがいかにささやかな希望でしかなかったとしても。


   ***


 二人の共同生活に至る前後の数週間を振り返った。


 出会いから、二週間もしないうちに、ヒカルはそれほど大きくもないボストンバッグを、俺の実家に持ってきた。本当に荷物はそれだけか、と訊くと、ヒカルは首肯した。


 ヒカルは俺の親兄弟に、少しの間お世話になります、と頭を下げた。


 住む部屋が決まるまで、俺の実家に身を寄せることになったのだ。俺の母親はかなりの女傑で、そのような事態になっても全く困った顔を見せなかった。俺の姉はとっくに結婚して家を出ていたが、ちょっとまあ、色々と俺がやらかしたことで、少しの間、帰省していた。


 つまり、俺の自殺未遂と病名診断によるコンビネーションが、家族をまとめ上げたことになる。ひどく申し訳のない話だった。


 部屋を選んでくれたのは、もっぱら兄と両親だ。俺とヒカルは後ろについて、不動産屋の説明をなんとなく聞き流している状況だった。


 ユニットバスはよくないだの、部屋の向きがいまいちだの、エアコン付きがどうのこうの、風水的にこれはどうだの。


 俺たちは凄まじく体力が低下し疲れやすくなっていて、その上、精神力がなかった。だから、本来自分で決めるべき仔細な事項のほとんどを家族に決定してもらった。


 最終的に部屋を決めるのは自分であると分かっていても、自分からは働きかけることができなかった。


 本来ならば実家で、家族の助力を求めつつ社会復帰を目指すべきだったのかもしれないが、ヒカルの身上を慮るに、そのような事態が現実的でないことぐらいは想像できた。少なくとも、俺の崩壊寸前だった精神では彼女とのルームシェアが最善策だと思えた。その考えは、人知れず共倒れしないよう、兄が時折足を運んでくれる、という条件付きで実現した。


 賃貸物件探し等々に時間をかけている間、ヒカルは俺の姉の部屋に寝泊まりしていた。姉はさばさばした性格で、ヒカルをほどよくもてなし、ほどよく放っておいた。


 それがよかったのか、俺たちが屋上で出会ってから、少しだがヒカルの顔色はよくなっていた気がする。気がするというのは、ヒカルの感情の発露が、顔色含め実に微々たるものだったからだ。


 俺はというと兄に殴られた時に鼻骨を骨折していたので、鼻にかっこ悪いマスクをしていた。その時の流血が奏功してか、俺も血色はややよくなっていた。それが医学的に良かったのか悪かったのかはこの際置いておくとして。


 我が姉はいくらかの服をヒカルに譲った。時には一緒に買い物に行くこともあった。だが、そうして買い物をしても、ヒカルの荷物はボストンバッグをもう一つ増やすだけで事足りる量だった。


 ヒカルはとにかく物を持たない人物だった。


 鞄の中身は、洗面用具、四日分に満たない着替え、筆記具、通帳、煙草程度の内容だ。女性らしいものはほとんどなかった。


 俺が荷物を物色したわけではなく、列挙した内容は姉からの伝聞だったのだが、思い出の品と思われるものは見当たらなかったのだと思う。


 持つことを許されなかったのか、それとも所持することを自ら選ばなかったのかは俺には分からなかった。


 ヒカルは多くを語らなかった。必要なことは受け答えしたし、俺の姉とはうまくやっていたみたいだ。だが、過去を饒舌に語ることなど考えられないことだった。


 ヒカルが持つ銀行口座には、決まった額が毎月振り込まれていた。一人で生きるには少し少なかったが、俺とルームシェアするには充分な額だった。


 俺にもヒカルにも蓄えがいくらかあった。俺のは仕事で得た賃金だが、ヒカルのは単純に使わなかったものだ。金に綺麗だとか汚いだとかはないと思っていたが、ヒカルの懐にあるのは、なんとなく虚しく、くすんだ数字だった。


 どうやったかは知らないが、母は学生アパートの格安部屋をもぎ取ってきた。すると、俺は入居までの間に家事をある程度仕込まれることになった。俺は、料理はしたが、他はまるでダメだったのだ。


 しかし、そこはさすがの俺というべきか、病気でぐったりしつつも、なんとか全てそつなくこなすレベルに到達した。


 ヒカルは特に何もしなかった、というかできなかった。俺の母が強く、何もせんでよい、と指示を出したからだった。これは、大いなる愛によるものだと、俺は考えた。


 我が家では母の指示はほぼ絶対だった。それは絶大なる信頼によるものだ。この人に任せておけば万事問題なし、という素晴らしい後ろ盾っぷりだった。


 父は言葉こそ少なかったが、母に負けない愛をもって俺たちに接してくれた。俺は、幸せな家庭の中に育ったのだと、改めて認識した。

いつまでも家族に甘えるわけにはいかない、と実家を離れたものの、独りになった途端、俺は職場での重圧に潰されてしまうこととなるのだが。しかし、そこで受けた扱いに関しては、これ以上語ることはない。


 実家で食卓を囲む時は、亡くなって久しい俺の妹が将来的に収まるはずであった位置に、ヒカルが着いた。彼女は疲れ切った顔で感謝を述べつつ、出された食事を摂った。美味しいとも不味いとも言わず、少しずつ少しずつ食べていた。


 一般人よりもよく食べるようになったのは、共同生活をしてしばらくしてからだった。


   ***


 ヒカルは、自身の姉の訪問から一日と半分を待って、ようやくひとくちサイズのゼリーを口にするようになった。押し付けられた謎のぬいぐるみは、一応クローゼットの上に横たえておかれた。


 さらに二日ほどして、少し、言葉を発するようにもなった。入浴を望むようにもなったため、俺は安心して、料理に力を入れることにした。豚の角煮だった。


 そして作り始めて少ししてから、「脂っこいのはちょっと」と言われた。俺はがっくりしてリョウスケ君とカンジ君にお裾分けをした。


 カンジ君が素晴らしくいいリアクションをしたのでよしとしよう。一方で、リョウスケ君はというと、彼はひどくヒカルの容態を気にしていて、果物を差し入れてくれた。


 パイナップルを出すと、ヒカルは時間をかけてたくさん食べた。口の中が荒れるよ、と俺は注意したが、あまり聞こえていなかったみたいだった。


 俺はエスプレッソを淹れた。二人分、たっぷり砂糖とミルクを入れたものだ。豆はカルディで買ったエスプレッソ用のブレンドで、割とイケた。ヒカルの様子を見ても、どうやら味は悪くはなかったみたいだ。


 甘々にしたエスプレッソを干すと、俺は一人散歩に出ようとした。ヒカルは外に出られるコンディションではないようだった。


 部屋を出ると、廊下でばったりリョウスケ君に会った。というか、リョウスケ君の部屋から階段に向かうのとは逆方向の位置での遭遇だったから、うちのドアベルを鳴らそうとしていたのだろう。


「あ、と。大丈夫ですか?」


 誰が、何が、とは言わなかった。充分、話は伝わったからだ。


「うん、大分落ち着いたよ」


 俺は素直にそう思って返事した。リョウスケ君のほっとした表情に、俺も少し安堵した。


 俺たちを気遣ってくれる人間がここにもいた。その事実だけで、胃の下あたりにじわりと暖かいものを感じた。それがいかなる感情によるものでも構わなかった。ただ、人間が独りではないと思わされるだけで、充分だった。


 俺は散歩に行く前に、リョウスケ君を部屋に案内した。ヒカルを独り残していくのは、やはり憚られたからだった。すると、リョウスケ君は頭をかきながら、小さく言った。


「そんなに信用されちゃっていいのかな……」


 大丈夫、と俺は応えた。正直なところ、ほとんど特別な異性として見られてない、という点で信頼があったわけだが、わざわざそんな無礼なことを言うほど俺は愚かではなかった。


 そうして俺は安心して散歩を始めることができた。


 昼下がりの町は穏やかそのものだった。公園にたどり着くと、俺はベンチに腰かけて、尻ポケットに入れていた文庫本を取り出した。本棚から適当に持ってきたものだったので、内容はおろかタイトルも覚えていないやつだった。


 文庫本を斜め読みしながら、俺は時折目線を上げて人間を観察していた。


 コーギーを連れた老翁が目の前を通った。ランニングパンツを履いた壮年の男性が目の前を通った。ウォーキングに精を出す主婦たちが目の前を通った。幼稚園児たちが保母に連れられて目の前を通った。


 いずれも、それぞれに人生があることを想像した。俺は、その人生にどれだけ関与することになるのだろう、と考えた。


 人は独りでは生きていけない。それは俺が既に知っていることだった。だが、どこまでの人間が関わり合いになれば充分なのだろう。


 どれだけの人間と一緒に同じものを見て、感情を共有すればいいのだろう。その疑問に対するたった一つの答えは実にシンプルだ。そんなものは本人と他者との距離感によって異なる。


 だが、俺はその思考を止めなかった。


 気が付けば俺は文庫本を閉じていた。代わりに軽く口が開いていたようだった。口内が乾燥し始めていたので唇を結び、再度、俺は考え続けた。


 ヒカルは、どれだけの人間が関わり合いに「ならなかった」方がよかったのだろう。ヒカルの姉たちと、その両親と、関わらずに生きて来られたら、きっともっと違った世界がそこにはあったはずだ。


 ヒカルはもっと感情を豊かに表現し、普通の恋愛をし、そして今頃誰かと結婚でもしていたかもしれない。さほど輝かしくなくとも、幸福のある生活がそこに、当たり前に存在していた可能性があった。全ては幻想、妄想。想像の中のものだ。


 しかし、と俺は、考えなければならなかった。


 ヒカルが俺と同じだけ絶望を味わっていなければ。あの屋上に俺たちの出会いがなければどうなっていただろう。


 そう。今の俺は存在していないことなる。


 ヒカルが、俺が、お互いを守った。それは直接的なものではなかったが、事実だった。


 俺たちは暗い井戸の底で、巡り会った。お互いの顔がどこにあるか分からないくらいの暗闇の底で。そして、俺たちはそこからなんとかして出ることを思いついた。独りでは絶対に考えられなかったことだった。


 井戸の底は冷たくて、陽の光も届かず、狭い視野の中、ただ、上空を飛ぶ鳥が時たま見られる程度の世界だった。長い時間そこにいてはいけないことを、正常な人間なら誰でも分かったことだろう。


 健常な、人間なら。



 ふと我に返ると、すっかり日が暮れていた。学校帰りの中高生たちがふざけ合いながら公園に入ってきた。その姿に、昔の自分の姿を見出そうとしたが、できなかった。


 発病してから、「よかった時代」を思い出すのが少し難しくなっていた。きっと、一番酷かった時期をも同時に思い出すことのないよう、記憶にストッパーがかけられているからだろう。


 はっきりと思い出せる過去は、幼稚園児だった頃から中学生くらいまでであり、大幅に空白の時期を経て、ここ一年くらいのものしかなかった。安全に回想することのできる領域が、その程度しかないことにほかならなかった。


 とんびが上空を行った。海に近いこの町らしい風景だった。


 俺は空腹を覚えて帰宅することにした。


 とんびが、長く、鳴いた。


   ***


 俺は、自室の様子を見てから部屋を出て、リョウスケ君に質問をした。


 問い詰める、というような激しいものではなかった。ただ、単純にことの成り行きを訊きたくて部屋を訪問したのだった。すると、リョウスケ君は即座に土下座した。


「いや、ちょ、顔を上げてよ」


 ますますもって不可解な状況になった。俺が崩そうとしても、彼の姿勢は変わらなかった。


 何故リョウスケ君は土下座をするのか。何故、俺たちの部屋ではヒカルが上半身裸だったのか。そして、そのヒカルの頬に平手打ちを受けたような跡があるのは何故か。


「本っ当にすみませんでした」


 謝られることでもしたのか、と問うと、言葉を濁すリョウスケ君。一体如何なる事件がそこに起きたのか、問う権利が俺にはあるはずだ。


「俺からは上手く言えないです」


 言えないのか、そうか。


「すみません……」


 ならばヒカルに話を訊くしかあるまいな。


 俺はとりあえずその場を後にして、自室に帰った。


「ただ少し、人に必要とされたくなってしまったんだと思う」


 細かいところをすっ飛ばして、ヒカルは言った。


 俺が一度部屋に戻った時とは異なり、ヒカルはTシャツを着ていた。ブラをしていなかったので、乳首が浮いていたが、そこは置いておいた。


 俺は言葉の意味を上手く理解できなかったので、細かく説明を求めた。すると、次のような話の組み立てが行われた。


「彼が部屋に来て、新しく果物の皮を剥いていてくれたんだ」


「それで、お返しに、体に触ってもいいよ、と私は言った」


「彼は拒否したけど、私は昔みたいにそうしなければいけない気がして……」


「とにかく服を脱いだんだ。それともこっちかな、って背中を向けてこれを見せたんだ」


「そしたら、ビンタされて、説教を受けた」


「……『なんで自分を大切にできないんですか』って」


 もう一度、俺はリョウスケ君の部屋に赴いた。


 そして、礼を言った。


「ありがとう、ってなんでですか? だって、俺、あんなことして、ヒカルさんを叩いて」


 困惑した表情のリョウスケ君は、俺からパンチの一発でも貰う覚悟でドアを開けた、と後日語ったが、俺はそんなつもりは一切なかった。


「いいんだ。それでよかった。君でよかった。ありがとう」


 真剣に、礼を言った。


 リョウスケ君の行動は全くもって正しかった、と俺は肯定した。すると、リョウスケ君は照れくさいような、恐れ多いような顔で、はあ、とだけ言った。俺はリョウスケ君を部屋に連れて帰ろうとした。


 残念ながら、その時は拒否されてしまったが、まあ、それもそうかと俺は人気のないアパートの廊下で一人ごちた。


 ヒカルは説教を受けたことで、何故か、多少元気になっていた気がした。もしくはビンタが効いたのかもしれない。ヒカルは余っていた豚の角煮と白米をぺろりと食べた。少なくとも舌と胃の調子はよくなったみたいだった。


 その後、ヒカルは何日かぶりに煙草を吸った。十本入りの箱は、もう中身が二本しか入っていなかったけれど、ヒカルにはそれで充分だった。タールが十四ミリグラムの重たい煙を肺に入れ込むと、ヒカルは換気扇に向けて煙を吐き出した。


 その光景を見て、俺は少し安堵した。


 俺は、ヒカルが最後の一本に点火するのを見届けて、布団の用意をした。ここ数日、誰よりも強く気を張っていたのが自分であったことに気付いたからだ。


「今日は早めに寝るか」


 誘うと、ヒカルは首肯した。


 交代でシャワーを浴び、薬を飲むと、俺たちは布団の上に転がった。風の爽やかな夜だったので、網戸だけを閉めることにした。タオルケットが、柔らかく、気持ちよかった。


 電灯を落とした暗い寝室で、ヒカルはひとつ言った。


「きっと、果物の皮を剥いている背中が君のじゃなくて、むなしくなったんだ」


 俺なんかの背中にヒカルは。


「不安に、なったんだ」


 俺なんかの、自分のことで手一杯の、こんな人間の背中を、ヒカルは、頼っていてくれたんだ。


   ***


 ヒカルの姉は三人いた。


 裕福な家庭にあって、姉全員が何かに秀でているというめったにない環境だった。末っ子のヒカルだけが、その、整った見た目を除いて取り立てて述べるところのない子どもだった。


 本人は自身を「変な子」と称したが、その線引きは難しかった。普通かどうかなんて、誰にも分からない。何が基準か、誰にも設定できたものではない。


 ヒカルの姉たちは皆(この単語は嫌いだが、便宜上用いると)「普通」より逸脱していた。優れているという部分を含めて、ある意味で異常だった。通常とは異なるから異常。これは良い意味にも悪い意味にも適合する。

特に、先日訪れた「嗜虐性の塊」は、ヒカルの言葉どおりなら、表裏の顔を使い分けるのが巧かった。それでいて、表の顔はよくできたもので、やはり、異常と言うほかなかった。


 俺にも兄と姉、そして妹がいた。妹は早くに亡くなってしまったので、今は三人兄弟だとしている。しかし、妹が産まれた時に用意された自宅の食卓には、今も六脚のまま残されていた。俺たちはどこかしらクセのある兄弟で、それもまあ、普通より逸脱していた。俺たちもある意味で異常だったが、それなりに幸せだった。


 俺とヒカルの差異はそこにあった。


 俺の心がぽっきりと逝った時、本当はいくらでも逃げ道があったのだ。しかし、ヒカルにはなかった。


 ヒカルの家庭環境には、逃げ道というものが用意されなかった。自分で作り上げるのが、ヒカルの家庭での「普通」だった。


 ヒカルには、その「普通」ができなかった。何故なら、彼女の周りは世間的に言う「異常」人種だらけだったのだから。本来的な意味での「普通」のヒカルには、困難すぎる問いだった。


 もう、ここらで語ってもいいだろう。


 例の女、ヒカルの姉は、ヒカルを逃げ道にしていた。暴力によるストレスのはけ口にすると同時に、売春まがいのことまでさせて金銭を得ていた。それを知ってなお、ヒカルとの付き合いをやめなかった人間は少ない。とりわけ、今なお消えてはくれない背中の火傷の痕が、人を遠ざけさせた。


 虐待が日常の一部と成り代わる頃、ヒカルは、自分という存在の境界が曖昧になり、異性というものがなんなのかを忘れ去っていた。おそらく、精神が壊れないよう自衛したのだ。

そして、自分が自分であるうちに、と、とある雑居ビルでの身投げを考えたのだという。その結末はすでに語ったとおりだ。


 追い詰められて初めて気付く幸福というものがある。後ろ盾となってくれる存在に気付く瞬間がある。自分を肯定してくれる人は、探せばいるはずだった。探し出すことができればそれだけで、少なくともしばらくは耐えられる。


 ヒカルは、そういった人物の探し方、作り方を知らずに、あるいは忘れて生きてきた。先日亡くなった旧友以外に、俺はヒカルの友達を知らない。自分を守るために属するコミュニティというものは、ほぼ、ヒカルをうまくそこに根付かせることができなかったのだ。


 リョウスケ君は、そんなヒカルに、ある程度の強度で認められた。しかし、それを受けたヒカルの空虚な内面が、おそらく「自分にとって一番の、そして、わかりやすいやり方」で反応した。


 体を売って得られる信頼関係なんかない。俺はそう思っていた。


 ヒカルは、判断力が鈍っていたとはいえ、頬を張られるだけの無礼な行動をしてしまった。それだけ、相手がいかに下衆な人間であるか、を計っているように思われてしまうような行為だった。


 リョウスケ君は確かに性欲に流され易かったと言えた。酒の勢いとはいえ、一度はヒカルの胸を触りに触った。だが、今回の一件では、彼の誠実さが強く感じられた。尊敬に値する人物だと、見直した。


 もしかしたら、突然の展開に動揺しただけかもしれなかった。性欲よりも先に驚きが立って、「そういったこと」ができないだけかもしれなかった。


 ただ、そこでヒカルに目を覚まさせるだけの行動をしてくれたことが、ありがたかった。俺にはおそらくできないことだったからだ。


 ヒカルはいつもの安らかな顔で眠っていた。俺はそれを眺めて、しばらく眠れなかった。


 ヒカルは、俺を求めてくれている。それに対して、俺はどれだけ応えられるのだろう。


 もしも、俺がリョウスケ君と同じような状況に立たされて、俺はヒカルをすくいあげられるのだろうか。そうはならず、ただの共依存に陥って、沼に沈んでしまうのだろうか。


 夜が、珍しく俺の心に影を落とした。陽光に後ろめたさを感じることは多かったが、この日は夜が怖かった。


 今夜、どれだけの男女が寄り添い過ごしているのだろう。そこには偽りの愛がどれだけあるのだろう。


 その歪さが闇の中で実体化し、その浅ましさが見えてくるようで、俺は身震いした。ただの依存を愛と勘違いしている人々はどれだけいるのだろうか。そして、以前、俺と恋愛関係にあった男のことが浮かび上がる。俺だって、醜く歪んでいた。


 胸の内側が重苦しく、四肢の感覚が鈍い。これは、不安の発露だ、とすぐに理解した。


 ヒカルが、隣人からの性か暴力に身を任せて、空虚な気持ちを解消しようとしたこと。その虚ろな性質の種がヒカルの姉によって蒔かれ、俺の不在で運悪く芽吹いたこと。俺たちが、そんな不安定さを見せてしまっていること。そして、先行きが全く見えてこないこと。


 様々な不安が、俺の気持ちを落ち込ませた。


 俺は両親を想った。兄弟を想った。ヒカルの家庭を想った。妹の死を想った。俺自身がヒカルと共にこの世界から逃れた先に、妹が待っていてくれるのだろうか。答えはない。世界は常に死に向かっている。何があっても、その終わりは必ずくる。そして、俺たち人間は必ず、死ぬ。


 急激な吐き気を催し、トイレへ駆け込んだ。


 食べたものに混じって、不安が流れ出るようだった。止めどなく溢れた。便器から顔を上げると、すっかり胃の内容物はなくなっていた。水で口元を清め、俺は布団に戻った。


 ヒカルが、ごめんなさい、と寝言で言った。


 涙が一筋、流れていた。


 寝たら、朝にはこんな気持ちも解消されているのだろうか。時間は物事を悪化させもするし、解決させたりもする。


 誰かと話したくなった。


 リョウスケ君は、ベランダに出ているだろうか。組み立て式の丸椅子を持って、俺はベランダに出た。


 暗い、夜だった。偽物の愛を隠すには、うってつけの。

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