第7話 ラムコークを流し込む

    七. ラムコークを流し込む


 連日の高温多湿に伴い、猛烈にラムコークが飲みたくて仕方がなくなっていた。名前の通り、ラムとコーラのカクテルだ。キューバリブレの名でも通っている。


 ロックアイスが冷凍庫にストックしてあって、ラムもマイヤーズの商品があった。気温が少しずつ高まるに連れて、次第に飲みたい欲求が強くなっていた。ベランダ越しにニーマルメンツへとぼんやりとその欲求ついて同意を求めてみたが、すぐに別の話題で流れそうな呟きだったため、次のようなリアクションが集まったのみとなった。


 洋酒はからきしで、とリョウスケ君は言った。僕はビール専門なんですよねー、とソウタ君は言った。カンジ君は頑なに飲酒を拒んだので対象外。


 思わず、腕を組んで「なんでみんなこれがわかんねえかな」という表情を作ったが、位置の関係上、全員がそれを見ることがなかった。


 俺は夏場に飲むラムコークの美味さを、その感動を誰かと共有したかった。あれはよくできたカクテルだ。配合を失敗しても、適当なステアでも、まあ、それなりに美味かった。目分量でおおざっぱに作れるというのは素晴らしいことだ。


 などとのたまいながら、三杯目を作ろうとすると、ヒカルに酒瓶を取り上げられてしまった。


「翌日の自分をもっと労われ」


 甘ったるくなった口に堅揚げチップスを詰め込むと、俺はヒカルに従った。ゴネても仕方ないし、一日ニ杯までなら許してくれるのだから感謝するべきなのだろうな。


 室内にサーキュレータを回しながら、半袖短パンで俺たちはぼんやりしていた。その日の映画放送まで何事もやる気がしなかった。


 ヒカルの細い二の腕を、指でつまんだり弾いたりして、無心でぷるぷるをしていると、ドアチャイムが鳴った。いつものヤマトのおっちゃんだった。


 郵便物はアマゾンに注文した西島大介の新刊だ。俺はこの作家の漫画が大好きで、アルコールをしこたま飲んでいた時期、よく泣かせてもらっていた。


 ヒカルは表紙を眺めて、俺に本を渡した。


「感動して泣いたことはあるか?」


 俺の問いに、ヒカルは少し考えてから、ない、と答えた。泣いたことさえ数えるほどしかないし、と。俺の見立てでは、それらを頑張って数えたところで、先日の葬式の分を入れて五本の指で足りるのだと思った。


 ヒカルの育ちを考えれば仕方のない事なのだろう。俺は、「火の鳥」を読ませて泣かせてみたいと思った。今度実家から送ってもらおう。今は本棚の肥やしになっているだけのはずだ。


 映画が始まった。


 俺とヒカルは四つん這いになってテレビに近付くと、座り直して、静かに鑑賞を始めた。


 ターミネーターの三作目だ。俺にしてみれば、色々と素晴らしい作品だった。


   ***


 携帯が鳴って、俺は下唇を突き出した。


 またかよ。


 恋多き乙女ならぬ髭男が電話をかけてきた。前に付き合ってた、例のヤツだ。


 今回、相手は女だということらしかった。


 どっちもいけるのか、そうか、と適当に答えた。知らなかったわけではなかった。改めて、節操ねえんじゃねえのか、と思っただけだった。


 糸楊枝を取り出して、奥歯の間を掃除しながら生返事をしていた。夕飯に食べた肉が詰まっていたのだ。それが取れてすっきりしたところで、話の流れが一旦止まった。俺は脳が馬耳東風モードに入っていたので気にも留めなかった。


 あのさ。


 やっぱり、俺たちやり直せないかな。


 ヤツがそう切り出したので、即答した。



 無理。



 なんで話がそうなるのか俺には分からなかった。恋愛相談して、別の相手が気になる、ここまではまあいい。


 そこでなんで、俺と元鞘に? ありえない話の組み立てだろう。


 やっぱり落ち着くんだよ、とヤツは言った。


 そうかい、と俺は言った。


 ヒカルがシャワーを終えて戻ってきた。


 その音を聞きつけて、ヤツは訊いた。


「だって、その女の子と付き合ってるわけじゃないんだろう?」


 あぐらを一度解いて、全身で伸びてから、また脚を組んだ。


 それがお前に関係あるか、と俺は質問で返した。


 スピーカーから「俺には、俺には、お前が必要、なんだ」と途切れがちに聞こえた。


 もう一問一答の体すら成さなくなっていた。


 それはただの依存だ、と俺は言葉を切った。


 ヒカルが冷蔵庫からウェルチのボトルを取り出し直接口をつけて、ぐい、とやり始めた。


 ガラケーのマイクを手で押さえて、俺の分もとっておいてくれ、と言ってから、再び耳にスピーカーを当てた。


 ヤツはぐすぐすと鼻水をすすり始めていた。


「辛く当たられても、それでもお前が好きな気持ちがあるんだ」


 ヤツはそう言った。


「おいおい、じゃあさっきまで話してた女は一体なんだったんだ」


 俺はそう返した。


「多分、多分……」


 ヤツは言葉に完全に詰まってしまった。


 大体分かっていた。話をするきっかけに「とりあえず」色恋沙汰を持ち出していたんだ。そういう話をすれば俺がヤツに嫉妬か何かをするものだと期待して、だ。


 グラスに注がれたウェルチを、ヒカルがテーブルに置いてくれた。俺は片手を上げて礼をすると、少しだけ飲んだ。


「寝るよ」


 下着にTシャツだけの簡単な格好になると、ヒカルは小さく言った。そして、寝室の電灯を消して、タオルケットに包まった。


 俺はあくびをして、時計を見た。零時を過ぎていた。グラスの残りを干すと、俺はヒカルと同じセリフをヤツに残して、通話を切った。


   ***


 そもそも、何故俺がヤツと付き合いだしたかという話になる。無理やり奥底にしまい込んできた記憶を、学生時代まで巻き戻した。俺の精神疾患発症の時期に触れると、不安定がやってくるので、極力、社会人なりたての頃の事柄を経由しないでおく。


 当時の(今でもだが)俺は喫煙者コミュニティに上手くなじめない人間だった。なので、煙草を吸う場所には気を遣った。


 考えてもみろ。同期、先輩、後輩が巣食う汚染大気中で、落ち着いてふかし煙草ができるか。


 否。断じて否だ。


 アメリカンスピリットはせかせか吸うものではない。葉巻のように穏やかに静かに吸うもんだ。と、そういう風に俺は他の喫煙者から距離を置いた。


 睡眠中を除き、一日のうちに最低三時間、自分だけの時間を用意しなければ耐えられなかった俺は、ふかし煙草をますますこっそりと行うようになっていた。


 さて。そうして学内の外れにある、穴場の喫煙所を利用していたときだった。


「俺、実はお前のことが」


 唐突にそう言われた。相手は、数少ない友人の中の一人だった。体はがっちりとしていて髭もたくわえた、性染色体XYの立派な男だった。


 始め、俺は性質の悪い冗談だと思った。俺が女に対してほとんど興味を示さないことを知っていたヤツだから、余計にだ。


「はあ?」


「いや、だから……」


 二度も言わせないでくれよ、とヤツは言った。


 二度も言わないでくれよ、と俺は思った。


 それから、俺たちはお互いを意識し始めてしまった。なんてこった、だった。


 ヤツは俺が煙草を吸いに出ると大抵ついてきた。そういう思考の下に俺といたのか、と俺は何やら合点のいった心持ちで煙を小さく吸った。いやな動悸がした。思ってもみないところから爆弾を投げつけられた気分だった。


 異性愛者(ノーマル)ではないことがいつ知られたのか。むしろ同性愛に傾いていることをどうやって知ったのか。皆目見当もつかず、正直驚きを隠せなかった。


 ちょっと飲みに行く程度の相手が、俺のことを深く想っているという。この状況は、俺を本当に奇妙な心持ちにさせた。


 俺は直接的にカミングアウトをしたことがない。訊かれた時に、ああ、まあ、と強くは否定しない程度だ


 今も昔も、なんとなく分かるやつには分かるレベルで話をしたことがあったにはあった。なので、特別、この話題を神経質にはしていなかったが、それでも、わざわざ自分がソッチの人間でーす、だなんてアピールするほど俺は無防備でもなかった。


 そして、告白を受けてからしばらく、何も進展がないまま時が経った。急に、ヤツは動き出した。俺たちの住んでいる地域では珍しく、雪が降った冬の日のことだった。


 俺はキスされた。人生で指折りの衝撃が走った。


 それから雪は数日降り続けた。本当に珍しいことだった。


 人は建物の中にこもり、穴場の喫煙所はますますの穴場となった。そこで俺たちは変わらず煙草をふかしていた。


 キスは初めの一度から、そう何度もなかった。我慢しきれなかったヤツの、感情の発露、いや、爆発といったところだった。


 ヤツは茶色のモールスキンの分厚いジャケットをよく好んで着た。流行りを無視した、少し古臭い香りのするそれと、デカい体はよく目立った。


 しかし、秘め事は守られた。体の芯まで冷える外気と雪によって。わざわざ寒い中に煙草を吸いに出るのは、煩わしいコミュニケーションを断ちたい俺か、そんな人間関係障害者である自身を好むヤツだけのようだった。


 俺は特別避けることはしなかった。その頃の俺は、変なプライドを持っていた。自分が同性に愛されているという事実を得たことに、妙な矜持が生まれてしまっていた。それが現在の面倒な状況をも生み出すことになるのだが、当時は当時だ。


 浮かれていたんだと、俺は思う。ヤツは良い人間だと思っていたし、数少ない友人だった。これが異性に当てはめられれば、愛が生まれるのも至極当然の成り行きに思えた。


 ただ単純に性別が同じだけ、ということで、俺がヤツを拒む理由はなかった。


 簡素な壁とトタンの屋根で覆われただけの喫煙所で、俺が煙草をふかし、ヤツがその横でベンチに座りながら生協の安い缶コーヒーをすすった。


 時折、自分の手に息を吐きかけて、手先の冷たさを誤魔化そうとした。すると俺の両手を、ヤツが大きな手のひらで包んだ。ヤツは、一緒にジッポー社の白金カイロを握っていた。


 今でも覚えている。そのカイロは、実に暖かく、そこそこ大きくて、ヤツに似合っていたんだ。見てくれを時代に合わせることなく、少しばかり大きすぎるその道具が、ヤツに似ていたのかもしれない、などと、今では思う。


 俺たちは言葉も少なく、「そういう」関係になっていった。今でもそう、覚えていた。懐かしくないと言ったら、嘘になる。


   ***


 カンジ君が髪を切った。かなりバッサリといった。俺はその頭を撫でながら、部屋に通した。


「家庭教師やるなら小奇麗に、って斡旋してくれた学生課の人に言われちゃって」


 中身の優秀さを知ればそんなの大した問題じゃないのにな、と俺は言った。すると、謙遜、謙遜、謙遜の嵐。


 奨学金の第一種取得、かつ返還免除にも臨めそうな受講態度と理解度らしいではないか。


 俺はそんな噂を聞いたぞ、しかと聞いた。隣人たちから。


 短髪になったカンジ君は、しかし、それもなかなか悪くなかった。服装も夏が近いので簡単なデザインのポロシャツに七分丈のジーンズ、クロックス。リア充大学生の夏がカンジ君に凝縮されているようだった。


 友達はできたのか、と訊くと、それなりに、と嬉しそうな表情を見せた。カンジ君は、実習と体育で気の合いそうな友達が何人かできたと言った。


 それから、冷たいカフェオレを振る舞いながら俺は近況を訊いた。というのも、俺には一週間ほど嫌な波が来ていて、外に出られなかったのだ。


 この日はなんとか俺が復調していたので、暇ならうちに来ないか、と招いたのだった。下心というものは、完全になかったと言わせていただく。下心はないぞ、断じて。


 ヒカルがショートホープの箱をスライドさせて煙草を一本取った。


 そして、キッチンに置いてある徳用マッチの箱を持つと、今更ながらカンジ君に許可を取った。思い返せば、うちに初めて招き入れた際に、ヒカルは無言で喫煙をしていたのだった。


「あ、大丈夫ですよー」


 カンジ君の祖母は煙草を吸う人だったらしい。銘柄は知らないが、いぐさのような香りがする煙草だった、とカンジ君は言った。


「わかばかな」


 何故かそこで俺は「かっぱじゃないよカエルだよ」と付け加えた。二人が不思議そうに俺を見た。いや、意味はないんだ。


 しゅ、とマッチが擦られた。俺はカフェオレを一口飲んだ。換気扇に煙が吸われていった。それでも吸い切られなかった分が俺とカンジ君の所に届いた。


「いつから吸ってるんですか?」


 ヒカルは軽く目を細めてから、三年くらい前からかな、と言った。


 俺は、へえ、と言った。ちなみに、三年前というと俺たちは出会ってすらいなかった。


 カンジ君はついでに、といった風に軽く質問を重ねた。


「いつからお二人は付き合ってるんですか?」


 俺とヒカルは目を合わせて、無言のまま瞬きを繰り返す。


 あれ、俺まずいこと訊いちゃったかな、とカンジ君が顔色を悪くした。


 いや別にいいんだよ、大丈夫だから、と俺はそんな意味の音を出した。


「あー、うー、うん」


 カンジ君が顔をにわかに曇らせたままだったので、カフェオレのおかわりを差し出した。ヒカルはというと煙草をもみ消して腕組みをしていた。


 そう見えても仕方のないことではある。男女が二人同じ屋根の下、やることはひとつだけ、みたいな状況だ。


 しかし、カンジ君のようにまっすぐ(愛孫の前でも煙草を愛飲する祖母の下でというのが珍しいが)育った男の子には、理解の難しい奇妙すぎる関係性に違いなかった。


 そういうんじゃないんだよ、と俺は言った。確かに俺たちは支え合っているわけだし、世間一般からすれば「恋愛感情からお付き合いをしている」ことになるのかもしれない。だが、簡単にそこに収まらない部分というのがある。


 なんと表現したものか、と俺が悩んでいるとドアチャイムが鳴った。ドアの向こうから現れたのは、スーツ姿の兄だった。それも、なかなか見ない、ひどく疲れた様子で。


「疲れた……。なんだよ、あの女」


「あの女? 仕事の相手か?」


 俺が訊くと、兄は首を横に振って、何事かを伝えようとしたが、カンジ君の存在を認めて口を一瞬つぐんだ。そして、すぐさま笑顔になって挨拶をした。


 主賓のカンジ君はというと俺と瓜二つの顔を眺めて、表情を変えていた。気まずそうな空気はそこそこに壊された。グッジョブ兄貴。


 兄は土産に生八つ橋を持ってきていた。出張帰りでついでに寄った、色々種類があって迷ったがまあ食べろ、とかなんとか兄が言っている間に俺たちは既にそれを頬張っていた。説明はいいから食べ物が優先だ。


「お茶だな」


 遅れて八つ橋を口に入れてから、兄が緑茶を所望した。抹茶味の八つ橋とカフェオレが抜群に合わないということは俺も確認済みだったので、無言で応じた。


 電気ケトルで湯を沸かし始めて数秒、カンジ君がまた疑問を投げかけてきそうな予感がした。結論から言えば彼は何も言わなかったのだが、俺は答えてやらないといけない気がした。


「まあさ、とりあえずの同棲、ってとこだよ。ルームシェア。別に男女の関係はない」


 現代日本に広がりつつある文化、ルームシェア。便利な言葉ができたものだ。


 俺と髭面のヤツとの同棲も、外の人間にはルームシェアで通っていたからな。中で何していようが、外に持ち出さねばよいのだ。


 腑に落ちぬ、という顔でカンジ君は「はあ」と言った。


 まあ、そんなものだ。


 ヒカルがローテーブルの横に着いて八つ橋を手に取った。俺が、そっちはこしあん、と伝えるとヒカル「了解した」と食べ始めた。


「美味い」


 八つ橋だって、中に何が入っているか、教わるか食べるかしなければ分からないままだ。きっと俺たちの共同生活もそんなもの。どこぞの猫入り箱の実験と同じようなものだ。


 中身がつぶあんなのかこしあんなのか。付き合っているのかいないのか。同性愛者の同棲か、何もしない男女の奇妙な暮らしか。あるいは、恋愛感情がそこにあるのかないのか。


 蓋を開けるまではどんなことだってそこにはあり得ただろう。


 そういえば、と思い出して、本日現場に来ていないリョウスケ君に八つ橋の存在を伝えることにした。いつもお世話になっていることであったし。


 バリエーション豊富な生八つ橋軍団であったので、銘々が好みのものを適当に食べていくというスタイルで時間は過ぎていった。


 なんとなく、それぞれの好みがキャラを表しているようで、俺は内心にやりとした。


 これも割と同じ部類の事柄で、誰がどんな好みなのか、機会がなければ知り得ぬことであっただろう。


 二〇一号室の二人には、後ほど未開封の箱を渡すことにして、その場は適当に解散となった。特に、兄は部屋への到着前に起きた何かしらのトラブルも相まって、疲れが溜まっていたらしく、思い切り眠たそうだったから、早く帰すことにした。


   ***


 ヤツに駅前のカフェへ呼び出された。


 パニーニが置いてある店で、俺とヤツは時々大学の近場にあった店舗へ、くっちゃべりに出たものだった。


 ヤツはアメリカンスピリットを持ってきていた。一本差し出されるままに受け取ると、俺はその固く詰まった葉の感触を確かめた。俺はライターを持っていなかったが、ヤツは当然ながら、火を用意していた。ジッポーのオイルライターだった。手垢でいくらか曇ったそれは、使い込まれている感じがした。


 俺は、お前も吸うようになったのか、と訊いた。


 以前は吸えもしない煙に巻かれながら、喫煙所で我慢する様子を見せていたものだが。


 ヤツは言葉の代わりに、煙を思い切り肺に入れてから吐き出した。その姿が答えだった。


 俺はブレンドコーヒーをすすってから、ライターを受け取った。それから、しばらく俺たちは近況報告めいたことをした。


 それというのも、俺たちが電話をすると大抵ヤツがめそめそとし出すので、「普通」のことに関しては話が及ばなかったからだ。


 ヤツは外ではタフな男を演じていたので、出先の方が割と話がしやすかった。その内面がどれほど繊細で折れやすいか、俺は知っていたが。これもまた、人生の中に訪れる開けてみないことにはわからない事実だ


 喫煙が進んだ。十本ほど入っていた箱が空くと、ヤツは新しい箱を取り出した。


 時計を見やれば、長針がぐるりと一周してさらに半分、先へと行っていた。時間が過ぎるのは早いな、と思っていると、本題を切り出された。


 やっぱり、ダメか、と。


 俺はそこで、何がだ、と言うほど薄情ではなかった。しかし、そうだな、と素っ気なく言うほどには薄情だった。


 いつもより少し、鼻から煙を抜く量を増やした。刺激がきて、目を軽く細めた。


 何故だ、とヤツは食い下がった。


 カップの半分以下になったぬるいコーヒーを、俺はすすった。酸味の出始めたそれを飲み干してから、答えることにした。傾けたカップを戻し、時間をかけて内容物を胃に落とし込み、そして答えた。


「……」


 嘘だ。俺は答えられなかった。


 その場しのぎの言葉はそこらじゅうにありそうで、実際にはどこにもない気がした。本気で探せばいくらでも見つかりそうだったが、あくまでもそれは真実ではない。


 本当のことを言ってしまえば、俺はヤツをひどく傷付けることになってしまう。それに耐えられるほど、俺も、ヤツも強くはなかった。


 たった一言の答えが、それだけ重かった。


 俺の本音を形にしてしまえば、こうだった。



 俺が死を選んだ時、お前は傍にいなかっただろう?



 死に場所を探しだすまで、常に胸に満ちていた粘つく絶望。

 他者には理解されないと、ため込んだヘドロのような感情。

 それらと矛盾した、空虚な腹の中の、すかすかとした感覚。

 屋上から身投げする人間の心を、煽るように吹き荒ぶ寒風。


 それらを同じように経験したのは、たった一人の人間だった。


 俺は、そこまで追いつめられたことを、ヤツには言えなかった。誰にも言えなかった。それは誰にも訊かれなかったから、言わなかったのかもしれなかった。誰にも訊いて欲しくなかったから、言わなかったのかもしれなかった。


 ただ、ある女だけが俺と同じ立場で、同じ目線で訊いたのだ。「死ぬつもりなのか」と。


 人間らしい輝きを失ってしまっていたヒカルの瞳の中に、自分を見た。同じことが俺の瞳にも起きていたのだと思う。


 相手を守ろうとすることで、自身を救おうとしていたのかもしれない。むしろ、そうでもしなければ俺は今度こそ死んでしまいそうだった。


 そして、今の俺はもう「助けてあげたいと思うような“弟”」を必要としていない。そのような存在を捜すことはしていない。


 手の届く範囲にいる、俺自身を内包したヒカルという人間を、愛している。恋愛感情からではない。性差などを計算の外にした、純粋な愛情を抱いている。今は、それだけだ。

 長らく沈思黙考していると、ヤツはフィルタぎりぎりまで燃焼しきった煙草をもみ消した。そして、黙って俺の目を見つめた。俺の中の闇を、なんとか汲み上げようとしているのかもしれなかった。



 お前が必要なんだ、とヤツは言った。


 俺は、俺は。


 頼む、とまでヤツは言ったが、俺は。


   ***


 ラムコークが飲みたくなった。ひどく飲みたくなった。氷を入れたグラスにラム、コーラを注いでできあがりだ。ごく簡単なカクテルで、俺はこいつが好きだった。


 ローテーブルで適当に三杯目を作っていると、ヒカルが俺の向かいに座って、じっと見つめてきた。止められるかと思ったので、ラムの瓶を置くと、ヒカルが訊いてきた。


「飲まないの?」


 いいのか、と俺は訊き返してしまった。


 たまにはね、とヒカルは言った。


 ラムを多めに注いで、俺はラムコークを作った。アルコールが濃すぎて、あまり美味くなかった。なんだか帰宅してからこっち、ずっとおかしな気分だ。


 少し考えて、シンプルなものにも、ほどよい関係、バランス、というものがあることを思い出した。どちらかが強すぎても弱すぎてもダメなことがある。それは簡単には計れない様々な要因による。


 うまく種々の要素が合致して、いい具合になることも、ある。タイミングが重なって、なにかしらを成すことも、また、ある。


 ヤツとは、つまり俺の元彼とは、絶妙に成立していた繋がりをいくらか逸してしまったのだと、俺は考えた。俺が勝手に自滅する過程で生じたズレだ。ひどく自分勝手なことだと分かっていながらも、残念ながら、少なくともしばらくは、俺と生きるタイミングが重なることはないのだろう。


 俺のキャパシティでは、眼前にある、ささやかな状況を維持することだけでも、精一杯だ。


 俺は唐突に、愛している、とヒカルに伝えた。


 ヒカルは少しだけ窓の外を見てから振り向いて、私もだよ、と答えた。


 もう一度、確かめるように同じことを言った。


 ヒカルは、二回目には応えず、隣に座ってきた。


 映画のテレビ放送が始まった。

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