第6話 ある種の刺客カンジ

    六. ある種の刺客カンジ


 夏が訪れ、じわじわと湿気が増していく中、アパートの二階にある空き部屋に、時期外れの入居者が現れた。


 縮毛強制をかけているちゃらちゃらとした髪型で、耳には、明るくした髪色に合うピアスがいくつも着けられていた。嫌味なくらい細身のジーパンにウォレットチェーンをぶら下げて、凶器と見紛うばかりの尖ったブーツを履いている、お兄系男子だった。


「あっ、初めまして。二〇二に越してきた者です!」


 そして、うちの玄関口で、ぺこり、と頭を下げる男子。そんな強烈に腰の低い(いや、背もそこまで高くないのだが)その姿勢と童顔が凄まじいギャップを生んでいた。


 俺はぽかんと口を開けてしまった。なんだ、この、この生物は、いや、カンジ君は。


 これはある意味、対象を俺に限ったことかもしれないが、新手の「捨て猫を愛でる不良」ジャンルの刺客だった。


 いや、いやいやいや、騙されはしまい。マイナスの中でプラスが際立っているだけの状況に惑わされていはいけない。


 そう、マイナスの中で━━


「あのぅ、どうかされました?」


 世間の薄汚さなんて全く知りません、みたいな顔で下から覗き込むな。これは反則だ。


 簡単に自己紹介をして(相手の名前をゲットして)、俺は部屋に戻った。


 ヒカルが、わかりやすく不可解な顔をして俺に訊く。


「どうしたの」


「どうもしない」


 脊髄反射で俺は言った。


 そうだ、どうもしないのだ。何もどうもしないのだ。


 断じて。


「良い子そうですよね」


 引っ越しの挨拶に受け取ったタオルの小箱を弄びながら、リョウスケ君は言った。早速懐柔されたか、隣人氏。


「おばあちゃん子だって言ってましたよ」


 そう言って、ソウタ君はユッコちゃんに引き継いだ。


「奨学金、第一種(無利子)取ってるらしいですよ」


 え、それ結構成績良くないと取れな……、いや。


 そうですかそうですか。


 アパートのニーマルメンツ(二〇一やら二〇二号室のメンバー。勝手に名付けた)は既に陥落していた。


 俺とヒカルだけが新たな住人、カンジ君のことを未だほぼ知らなかった。いや、俺だけは彼のことを知ってはいけない気がするのだ。何故かと問うなかれ。


「何故?」


 だから問うなかれと言ったじゃないか、ヒカル。答えに窮する問題なのだから。


 その晩は、以前、兄がくれたスパイスをふんだんに用いて、麻婆豆腐を作った。白米に合う味の濃さにできたと思う。二人で、小指を使ってちょこんと味見をしてから、頷く。


 辛さもちょうどいいね、とヒカルのお墨付きも貰った。


 丼にして食べるか、と尋ねると、ヒカルは小首を傾げ、迷いを見せてから首を縦に振った。洗い物が減っていい。


 俺も自分の分の麻婆丼を作って、食卓についた。レンゲで白米の土台をほぐしほぐし食べていると、ドアチャイムが鳴った。


 ふぁい、と俺は答えた。


 ドアを開けるとそこには件の希少生物がいて、鍋を手におずおずと口を開いた。


「すみません、夜分に。あの、カレー作りすぎちゃって。あはは……」


 俺は、あー、と喉を曖昧に動かしてカンジ君の姿を見る。


 分量をちゃんと確認せず漢料理しようとしたら、ルーに対して水が少なく、そして、野菜も足りなくなり、とりあえず別の鍋に分けて作りました!


 という一連の流れが一瞬で連想されるお裾分けっぷりだ。俺は思わず良い笑顔で、あるある、と頷いた。


 ちなみに、二〇三号室の隣人氏が隣にいたのだが、俺は数秒間気付かなかった。眩しいライトの真横に立つと人の姿もよく見えない。それぐらい、カンジ君は輝いていた。一人暮らしルーキーって結構いいよね。よね、って誰に訊いているわけでもないが。


 リョウスケ君がフォローを入れてくる。


「二種類のルーが混ざってるのでなかなかイケますよ」


 そういう主婦の小技みたいななのを駆使したくなるもんだ、分かる分かる。俺は行為全てを肯定しながら鍋を受け取った。そして、キッチンで大きめのタッパーに中身を移すと、冷蔵庫にしまい込んだ。


 鍋は後で洗って返すよ、と言って、俺はカンジ君の肩を叩いた。そして、俺は、何か困っていることがあったらいつでも相談に乗るよ、とも言った。


「こいつが」


 俺に指名されたリョウスケ君は、やや間を置いてから、はっとして、勢い良くつっこんできた。


「って、俺っすか!」


   ***


 ヒカルが風呂上りにスーパーカップの抹茶味を食べていた。


 下着一枚であぐらをかきながらスプーンを、いまだ硬いアイスに突き立てている様子は、女とは何かというのを忘れさせた。


 湯冷めするぞ、と忠告はとりあえずしておいた。


 それと、一口くれるようお願いをしておいた。俺の記憶ではそれがストックしていたアイスのうち、最後の抹茶味だったからだ。


 あと三個ストックがあって、バニラひとつ、チョコふたつ、が冷凍庫においてあるはず。こういうことは覚えていられる自分が情けないやら悲しいやら。


 ほじくり出された少量のアイスが乗ったスプーンを口に突っ込まれた。スーパーカップの抹茶の味。これだよ、これ。庶民的な抹茶の味だ。気取ってない美味さ。


「さすがだな」


 俺は小さな頃の口癖を呟いた。懐かしい気持ちになった。


 幼少期、兄の、何事かをやらかしては上手く罰を逃れる、という技術に憧れを抱いていた。その他の事柄からも、兄というのは、弟より完全に優れた存在だと信じて疑わなかった。


 俺の期待を受けて、兄は色んな無茶をやったと記憶している。さすがに警察の厄介になる類のことはしなかったし、大勢が困ることも同じくだった。


 しかし、いつからだろう。憧れが妬みに近いものになったのは。


 兄を超えられない自分を卑下するようになったのは、二番手のレッテルに嫌気が差すようになったのは、いつごろだろう。それを悟られないように、苦心するようになったのは?


「……うお!」


 焦点の合っていない俺の眼前に、ヒカルの顔が迫ってきていたので驚いた。


「何を考えてるの」


 俺は、明日の朝食のこと、と言った。


 嘘は完全に見破られていたので、俺はベランダに逃げた。湿気を帯びた風の中で、星が鈍く瞬いていた。すっきりとしない夜空が、心境を反映しているようでもあった。


 ヒカルには、一度だけそういった兄弟への心持ちを説明したことがあった。もしかしたら、同じく兄弟やら姉妹やらを持つヒカルなら、俺の心情を理解してくれるのでは、と思ったからだ。


 しかし、世間様から見てよくできた姉たちの中で、ヒカルは俺なんかよりもっと過酷な環境にあった。もはや、姉たちとは比較の対象外で育ってきたヒカルは、いない者扱いを受けていた。そこにあって、そこにない、矛盾した存在として育った。


 ヒカルからは、本来、自然に育まれて然るべき「感情」というものが、非常に感じ取りづらい。これは家庭の中に生まれた永久凍土に、何も教えられぬぬまま裸で放置されたようなヒカルには、仕方のないことだった。


 その結果、俺が抱いた兄へのコンプレックス、羨望の眼差しは、どうしてもヒカルには理解できないことのようだった。


 そういった複雑な感情の発露を受けたヒカルの口からは、辛いんだろうね、という想像の域を出ない感想だけが転がり出た。それが、本心からの言葉であり、ヒカルにとっては最大限、俺の言葉を消化した上での答えだった。


 これは悲しいことだった。理解されない俺にとって、理解できないヒカルにとって、等しく悲しい事柄だった。


 俺は、精神を病むことがきっかけとなって、兄を羨むことは減った。しかし、長期間に渡って掴み続けていたねじくれた価値観は、変な所にひずみを生んでいた。


 俺は気付けば、男、それも情けないヤツを、恋愛対象に見るようになっていた。自身、それは「自分が優位に立てる相手を探している」のだと考えていた。


 俺を担当した心理カウンセラにはこのことを話さなかった。そのカウンセラの行う、オウム返しの、もはや会話とすら呼べないもので、俺のことをさらけ出す気にならなかったのだ。


 擬似的な“弟”を探す、矮小な“兄”としての自分を、さらけ出すのは、怖かった。


「くそ」


 考えすぎた。


 いつもの癖で頭を揺すってしまう。


 ヒカルは後ろから、何も言わずに、俺の左手を引いてベランダから部屋の中に連れ戻した。


 そして、握った俺の手を、未だ裸の胸の中央左寄り、心臓の上に押し付けた。鼓動が掌に伝わってきた。性的興奮など微塵も感じさせない、この世でヒカルだけにできる清い行為に思えた。


 俺は、しばらくそのままにした。五分かあるいは十分は、続けていたようだ。ヒカルが身震いをした。アイスを食べて体が冷えたのだろう。


 俺は手をどけると、服を着るように言った。その後に、背中を向け、ありがとうと絞り出した。発言内容が本来あるべき順序と逆なのは、許して欲しかった。感謝の気持ちを表すのがそれだけ難しかったのだ。


 寝間着のTシャツを着たヒカルに、俺は訊いた。


 なあ、キス、してみるか、と。


 ヒカルはゆっくりと瞬きをした後、完璧な回答をした。



 必要ならするけれど、私たちにはきっと必要がないからしない。



 俺は短く息を吸って、少し溜めて、吐いた。


 確かに、と俺は呟いた。


   ***


 さて、件のカンジ君の話にスポットライトを当てる。時間は、次の週の日曜早朝まで跳ぶ。


 俺は俺で理想的で、かつ魅力的な“弟”を探していたが、カンジ君にはカンジ君で人生の先駆者たる人物として“兄”が必要に思えた。


 カンジ君はこの春入学したばかりのぴちぴちの大学一年生だ。しかし、親の反対もあって、始めは一人暮らしもさせてもらえず、遠距離を電車で通っていた。そして、門限まで設定されると、どうなるか。


 一年生にとって一番大事な新入生歓迎コンパに出席できなくなってしまったのだった。


 カンジ君がこのアパートに越してきたのは既に五月も半ばになっていた。シーズンはとっくに過ぎていた。新歓コンパに出られず、同じ学部学科の友達を作る機会を逃すと、それはもう悲惨な結果を生んだ。いわゆる、「ぼっち」である。


 顔は良いし、服装も今風、を少し過ぎたカンジ君だったが、いかんせん彼は中身が生真面目過ぎた。リョウスケ君のような下心さえ爆発させないであろう健全さを端々に滲ませていた。


 大学デビューした連中とは波長が合わず、イケイケの子らともどことなく乖離が生まれるような、いわゆるおりこうさん。オタク趣味に理解はあり、彼から近寄ったとしても格好だけで拒絶される。以上は同性間での出来事で、異性からのアプローチもなくはなかったというが、惚れた腫れたのなんだかな、という状況がすぐに訪れる。その後の展開は、うやむやのうちになくなるのだとか。


 まあ、門限に厳しい家庭で育った男の子のもつ地雷感ってすごいからな。


 そんなわけで彼はいずれからも同様に浮いてしまったのだ。これは、内面と外見のギャップが生み出した完璧なミスマッチが原因の事態だった。


 更なる試練が、彼の生活スタイルに降りかかった。なんとか親を説き伏せて大学の近くに越してきたはいいが、今度は生活費を自ら捻出せねばならなくなったのだ。


 大学とバイト先の居酒屋を行き来して、深夜によれよれになって帰宅。


 これでどこで遊べばいいのか。


 奨学金取れたんじゃないのか、と訊くと、極力それには手を付けたくなくって、と返ってきた。


 俺は健気さに両腕がムズムズした。抱き締めてお前は偉いと言いたくて仕方なくなった。


 だが、カンジ君よ、と俺は思った。学生だからもっと遊びも覚えなくてはいけない。例えば二〇一号室のカップルみたいに、華やかな生活を送ることだってできるはずだ。


 などと考えていると、カンジ君はまたも俺のツボを押さえてきた。


 素直にええ、はい、と頷くカンジ君はなんと、自然に正座をしてしっかりと傾聴してしまう人間だったのだ。俺の部屋でちょこんと座っているカンジ君を、いかにして俺の部屋に拉致してやるか思案する、という矛盾した状況が生まれた。


 いかんいかん、と頭を振りに振って、思考を振り払った。


 無関心そうにショートホープを吸っていたヒカルは、インスタントコーヒーを淹れてくれた。マグがふたつしかないので、ひとつ、俺の分は小さなデミカップだった。


 とびきり濃い、しっかりとエスプレッソ並に濃く作りやがったそれにミルクを足して、俺は飲んだ。唇に触れた瞬間から、カフェインが脳をぎゅんぎゅん回す気がした。


「ふむ、そうだな」


 そうやってカフェインを摂取してから、まず、俺は資金繰りを指導してやろうと思った。その間、カンジ君はミルク砂糖アリアリのコーヒーをかき混ぜていた。


 奨学金で少なくない額が入っているのだから、アルバイトを選ぼう。まかないが出るから居酒屋、という安直な考えに俺は×を出した。もっと頭脳労働をする方が君には合っているはずだ。


 家庭教師をやりなさい、家庭教師を。


「ええっと、でも、僕教えるのとか苦手で」


 慣れだ、慣れ。俺にだってできたんだから。


 曜日固定でおやつ付きとかだったら美味しいだろ? それに家庭教師頼むレベルのご家庭のお子様は、ちょっとでも成績上がればそれで満足するんだよ。


「一理、ある」


 ぱか、と口を開けて煙を換気扇に吸わせると、ヒカルは言った。ヒカルは、0が1になるのは大きな差だよね、と続けた。


「なんかそれって失礼じゃ」


 俺は、カンジ君の両肩をタシーンと叩くと、そんなことないよ、と言った。


 次いで、サークルを決めよう、と指を立てて言った。飲みサーやらは……問題外か。というか俺があんまり好きじゃない。


「好きなスポーツとかは?」


「サッカーとか好きでしたけど」


 俺は両手で大きく×を作った。


 そして自慢のガラケーで、短縮ダイヤル一番を押すと、間もなく玄関が開いた。


「だ、大丈夫ですか! 倒れたりしてませんか!」


 リョウスケ君に実情をうかがおうではないか。


「あの電話は緊急用だと思ってたから心配したじゃないですか。まったく」


 隣人氏はぶつくさ言いつつも、説明に応じてくれた。本当に根っからの善人なのだな。助平心の部分に目をつむれば、だが。


 エコーのパッケージを尻ポケットから取り出してローテーブルの上に置くと、隣人氏は切り出した。


 まず、部は止めておけ、と。


「ウチの大学は大して強くないが、ほとんどの部がそれぞれに誇りを持っている。それ自体は悪いことじゃない」


「何が問題なんですか?」


 カンジ君の問いに、リョウスケ君は、胸の前で、自らの掌を人差し指で叩きながら続けた。


「第一に、OBの世話とか幹部交代式とかが面倒なんだよ。良い経験って言っちゃうヤツもいるけど、とにかく神経削れる」


 隣人氏が、中指も添えて、第二に、と言った。


「一年は人間扱いされないぞ」


 え、とカンジ君は首を傾げた。一方で俺は大きく頷いていた。


 そう、体育会系(系と付けると一部の体育会の人に叱られる)の中では、一年は人間じゃない、という風に叩きこまれるのだ。


 二年で畜生、三年で小間使い、四年で人間、OBで神(あるいは財布)だ。このアパートの住人が通う大学も、俺が通っていた大学の体育会系と同じく、それが一般的だったらしい。


「本気で好きなら止めはしないが、本当に長続きするかな?」


 リョウスケ君は演技っぽく、いやらしい感じに目を細めて言った。


 そして、サークルだ、とリョウスケ君が言い、課外活動紹介用の冊子を取り出す。


 サッカー、フットサル、テニス、バドミントン。この辺は同じ競技でも複数の同好会、愛好会、サークルやらが存在している大学が多いらしく、俺の出身大学もそうだったな、と遠い目をしてしまう。


「例として、そうだな、ここ。名前だけにこだわらずに見れば、軽音楽系の集まりが四つもある」


「あ、ホントだ」


「そんな感じで大学って適当な部分があって、選択肢は一応ありすぎるぐらいなんだよ」


 モラトリアムの権化って感じがするよな。


「ひとまず有名なこれとこれとこれは、実質飲み会メインの飲みサーってやつだ。君、アルコールは?」


 リョウスケ君が問うた。


「えっ、未成年ですし飲めませんよ」


 俺は気持ちいいくらい予想通りの返答をするカンジ君のコーヒーに、砂糖を追加で入れてやった。カレー用のスプーンで一杯分。


「じゃあこの辺かな、評判いいのって言ったら」


 オレンジのマーカーで隣人氏はサークルの名前欄に線を引き始めた。


「これは飲み会で無茶させないサークル」


「こっちはきちんとした指導者のいるサークル」


「ここは大変だけどたくさん人が入るから友達作るならアリ、かな」


 リョウスケ君は次々と脳内情報を引っ張り出し、説明を加えていった。カンジ君も疑問を抱いた点については漏らさず訊くようにしていた。


「こんなところか」


 そして、隣人氏はマーカーにキャップを被せた。出来上がったのは、新入生垂涎のサークルガイドブックだ。


 これさえあれば誰もが出鼻をくじかれることなく、快適なキャンパスライフへと滑り出せたことだろう。


 どこぞの通信教育の赤ペン使いだってここまでやってくれないぞ。


 しかし、なんと言ったらいいか、失礼な話、俺はリョウスケ君の情報量を侮っていた。


「よくもここまで熟知してるなあ」


 コミュ力やや高めの漫研か、毒にも薬にもならない落研を紹介されるのが関の山だと思っていたのだが。


「お恥ずかしい話、大学デビュー的なノリであらゆる新歓出てたんで……」


 そこで騒いで楽しく友達作りをしている様は全く想像がつかなかった。地味めな容姿で常識人然とした言動なのに。


 ヒカルが、潰れて介抱されてそう、と言った。


 するりと合点がいった。納得した。


 次に履修登録の相談を始めたカンジ君。その目にはもうリョウスケ君しか映っていなかった。



 はっとした。


 “弟”が取られている。


   ***


 二週間ほどして、ニーマルメンツで焼肉屋に行くことになった。車で走って十五分の、食べ放題コースのある店だ。


 夕暮れの下、走る車の中でカンジ君は助手席に収まり、ワクワクしながら俺、じゃなく運転席に座るリョウスケ君に声をかけていた。


 ヒカルが俺の顔を見て軽く笑った気がした。結果的に、まあ、完全に気のせいだったのだが。


 俺は頑張って会話にそれとなく入ろうとした。失敗した。


 下唇を突き出して、追従しているもう一台の車を振り返った。ユッコちゃんが俺の視線に気が付いて、運転席のソウタ君の肩を叩いた。


 二人が笑顔でこちらに手を振る。俺はグーパーさせてそれに応じてから、前に向き直った。


 ヒカルは肉に向けて精神を統一していたし、カンジ君は隣人氏と喋るのに夢中だ。


 俺? 俺は窓の外見てるよ。楽しいよ。ほら、カラス飛んでる。


 焼肉屋は混んでいた。


 ご予約は、と店員が訊いた。


 隣人氏が、あります、と言って名乗った。


 あれ、焼肉屋行こうってもっと軽いノリじゃなかったか? まさか急に決めて十分で支度しているうちにわざわざ予約取ったのか? この混雑した状況で? こいつ、もしかするとすごくデキるんじゃないのか。いや、俺の能力値から比較すると、という低い基準の上でだが。


 通された席は奥まったところの個室。割とゆとりをもって作られたテーブル席だった。


 ドリンクは、と訊かれて、全員が烏龍茶を注文した。種々の理由により、飲めない人間が多すぎた。


 サラダとキムチとドリンクが先にテーブルに運ばれた。すると、何故か視線が俺に集まったので、烏龍茶の入ったジョッキを掲げながら、喋り出した。


「あー、今日は我々の新たなメンバーを迎え入れー、えーとこれからのますますのご活躍をー、あー」


 ぐだぐだのまま、とりあえず乾杯と締めくくった。


 何かがツボに入ったのか、ユッコちゃんが大笑いして、よだれをじゅるりとさせた。それで火が点き、全員で爆笑した。


 ヒカルですら分かりやすく笑顔になったように見えた。


 ジョッキを、中身を軽くこぼしながらぶつけ合って、会食は始まった。


 肉食い人のヒカルが瞬く間にタン塩、カルビ、ハラミ、ホルモンを平らげ、米を大盛りでおかわりした。店員のお姉さんは驚きを隠せないようだった。


 ソウタ君も負けじとそれに続いて内臓系を攻めた。曰く、噛んでも噛みきれないヤツがお好きだそうで。


 カンジ君はサンチュで巻いて食べるのが好きらしかった。あと左利きで箸の持ち方がお子様だった。超かわ……あ、いや、なんでもない。


 ユッコちゃんはマイペースにユッケを摘まんで、時折ソウタ君のタレ皿に野菜を投じていた。なんだか、すでに良妻を体現しているみたいで、俺は少し微笑ましく感じていた。


 で、おい、誰だリョウスケ君のドリンクをウーロンハイにしたのは。普通じゃないぞ、このやらしい笑顔。


 代行運転でなんとか帰宅した頃には、時計は二十三時を回っていた。俺は焼肉屋で貰ったミントガムを口に入れながら、部屋に戻った。ヤニ臭い空気の中で、俺たちはそれ以上に焼肉臭かった。


 窓を開け、ベランダに立った。


 身を乗り出すと、ソウタ君&ユッコちゃん、カンジ君が同じく顔を出しているのが分かった。


 リョウスケ君は、多分寝てるな。


「あのっ、皆さん! ご馳走様でした!」


 いいよいいよ、と俺たちは手を振った。


 一人頭分割ったところで大して腹も痛まなかったから、本当に問題なかった。


 何より可愛い“弟”のためだ。


 そこで俺は、奇妙にも、頭の中に抱えていたものがほどけて、するりと腑に落ちた。



 あ、弟がいるってこういう感覚か、と。



 それは、支配欲が満たされるものでも、矜持を際立たせるものでもなかった。ただ、自然に湧いてくる穏やかな感情だった。また兄が妬ましくなった。こんな気分を今までずっと味わっていただなんて、ずるいよな。


 狭い浴槽に湯を張り、俺とヒカルは湯船に浸かった。髪を洗いっこして、大人げなく泡で遊んだ。


 肌が触れ合いこそしたが、性的なことはおろかキスも、もちろんすることはなかった。代わりに、ヒカルの背中にある、煙草の火を押し付けられた、いくつもの痕跡を指で撫でた。

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