第5話 ソウタとユウコ
五. ソウタとユウコ
ピクニックに行こう。唐突に思い立った。場所は電車で数駅の、都心にある広い公園だ。
そうと決まればメンバー集めだ。人数はいた方が楽しいよな。ようし、片っ端から声をかけるぞ。皆が集まれる日を教えてくれよな。
「そんな元気があったらいいのにな」
なんとなく気分が重い日に、そんな妄想をした。どんよりとした目元を揉みながら、テレビで紹介される行楽情報を眺める。
「いいんじゃないか、ピクニック」
ヒカルはそう言うと、必要な物をピックアップし始めた。
弁当箱。ない。
水筒。ない。
レジャーシート。ない。
フリスビー。ない。
バドミントンセット。ない。
あと、気力もない。
そんな事実を伝えても、ヒカルは諦めなかった。ヒカルには元気の波が来ている日のようだった。
「外に出よう。日光で体内時計をリセットしないと」
分かってる、それ医者にも言われた。あと適度な運動な、分かってるよ。
自分で作った料理の味がいまいちピンとこない。ああ、ダメだ今日。味噌汁がマズかった。いつもと同じように作ったのにだ。
ヒカルが俺を残して部屋を出る。そして、すぐ戻ってきた。
「俺もそういうの持ってないですけど、ドンキでも行きます?」
隣人リョウスケ氏。困ったときはこの人だ。
そういえば今日は土曜日だった。大学も休みだし、それは在宅しているはずだ。失礼ながら彼女持ちの人間には見えないから。
「車出しますよ」
車持ちだったとは知らなかった。型の古い軽自動車を親類から譲り受けたらしい。
俺は新車特有の香りが苦手なので、ちょっと使われたぐらいの車の方が好きだ、と脳内にぼんやりと言葉を組み上げる。
そうこうして、安全運転で国道を走る間に、リョウスケ君はピクニックに応じそうな人物を挙げた。
この人には驚かされっぱなしだ。なんと同じアパートの二〇一号室の住人と交流があるとか。実は相当に人間関係が広いんじゃないのか、と思った。彼女がいそうには見えないのに。
ヒカルは乗り気でその人たちを呼ぶと言い始めた。この日のヒカルはバイタリティが違った。変動値の振れ幅が大きいのだ。
俺はというと、初対面の人と上手くやれるか分からない不安と、車がどこかで事故ったり人を轢いたりしないかで心臓がバクバクだった。
抱え続けた自動車事故への不安が、単なる杞憂に終わったことに安堵すると、今度はドンキホーテの人混み圧迫祭りへの不安が俺に立ちはだかった。想像するだけで目が回りそうだったので、俺は屋上の駐車場から店内へと続く自動ドアの横でベンチに座って待つことにした。
自販機でナタデココの入った乳飲料を買った。きゅむきゅむとナタデココを噛んでいると、正直かなり癒された。
まだ夏と呼ぶには早いが、春というにはちょっと暑い日差しが、前傾姿勢でさらされた俺の首筋をじりじりと焼いた。
なぜか、買い物は長引きそうな予感がした。こういう時の勘は大抵当たる。もっと役立つ場面で勘が鋭ければいいのに。本気で。
店内から出てきた青年が、オイルライターのフリントを擦りつつ口元を覆った。店内にいる段階で煙草をくわえて出てきたらしい。スムーズな喫煙スタイルが様になる、少しガタイの良い青年だった。年の頃は二十代前半だろう。
「隣いいですか」
青年はベンチに座る前に一声かけてきた。
はい、と小さく答えると、彼は静かに座った。俺は身長が低いわけではないが、その青年もなかなか上背だった。
「暑くなってきましたね」
ごく自然に青年はそう言った。
俺は喫煙所でのコミュニケーションを取るほどのスモーカーではなかった。いやまあ、煙草関係なしでのコミュニケーション能力の低さか。
とにかく、だから、と言い訳させてもらうが、ちょっと戸惑った。
少し間を空けて、そうですね、とだけ俺は言った。
「いやあ、行楽日和なのに買い物に付き合わされちゃって、参りました」
そこで話が完結するような、しないような言い方に、俺はまたまた戸惑った。
「いやー、参ったなー」
などと言う、独り言なのか俺に拾って欲しいのか分からない言い方で、青年は時折口を開いた。なんというか、出てくる言葉が若干所帯じみていた。
天気がいいから布団を干してきたんです、とか、夏野菜が美味しく育つといいですね、とか。
副流煙を吸いながら、俺は黙り込んでしまった。もうちょっと気分がいい時ならもっと話せるのに、とたらればをひとつ。
「お待たせー」
しばらくして、青年に比べ、いくらか幼く見える女がドアをくぐって出てきた。ヒカルに比べると、服は今風にしゃれていて、頭半個分ほど小さかった。
おっ、と青年が呟いて、煙草を灰皿に落とした。彼の連れらしい。
「遅いってのー。待ちくたびれるとこだったぞ」
砕けた話し方を始めた青年に、女は両手に提げたレジ袋、じゃないなあれ。マイバックだ。女はそれを片方渡した。中身は見えなかったが、結構な量だった。
「帰ろっか!」
女がそう言うと、青年の方は俺に向かって軽く会釈した。俺も、ぐい、と首を軽く前に倒して応じた。
その男女は、二人で仲良く並んで車に乗り込み、すぐにその姿は見えなくなった。
そして、残された俺は話しかけてくる相手もいなくなったので、缶に残ったナタデココを吸い出す作業に没頭できた。
***
リョウスケ君がドアチャイムを押すと、のしのしという足音がして、ドアが開いた。
「はいよー。お、なんだリョウスケか。……ん?」
二〇一号室の住人と顔を合わせた。出てきた青年は、首を傾げて俺を凝視した。そして数秒。
あ、と俺と青年は同時に言った。
ドンキで、とまた同時に言った。
なんだ知り合いじゃないか、とヒカルが言うので、俺は否定した。さて、偶然とは恐ろしいものだ。近くに住んでいて顔を合わせたこともなかったのに、目的ができたら急にお近づきになるとは。
中途半端に会話したことがあるせいで、俺の脳内で組み上げた初対面会話マニュアルが崩壊してしまった。ちなみに文章化して出力したところで、文庫本の一ページの半分も会話レパートリーは用意していなかったのだが。
それほどのコミュニケーション障害者として成立している今の俺は、リョウスケ君の仲介なくしてはいられなかった。うーん、頼りになるぜ、隣人氏。
サポート付きで自己紹介をしたところで、青年の名前がソウタということが判明した。
そして、話の本筋を説明すると、「ピクニック!」とソウタ君は目を輝かせた。そして室内に顔を向けて、ピクニックだぞ、と言うと出てきたのは、はい、見覚えある顔だ。
「え、どういうこと?」
おお、やっぱり見たことあるぞ。確信した。
ソウタ君の彼女氏が、えーと、と人差し指を顔の横に立てながら、俺とヒカルの間で視線をさまよわせたので、俺たちは名乗った。
「初めまして。私たち、あの、二〇四号の」
「ああ! 初めまして! なんだ、リョウスケの知り合いだったんだ! ユウコです。ユッコって呼んでくださいね」
すぱっと片手を上げて、可愛らしく敬礼したのが印象的だ。そんなユッコちゃんとソウタ君が並ぶと、中学の先生とその生徒が一緒にいるように見えた。俺自身、それがどうした、という考えに至ったが。
部屋に上げてもらうと、ふわりと女の子っぽい香りがした。同じ住人構成でうちはふわりとヤニ臭いけどね、と内心自嘲する。
冷たい麦茶をいただきながら、俺は部屋を見回さないよう努力した。リョウスケ君は何度か来訪したことがあるらしく、落ち着いたものだった。
話はとんとん拍子に進んだ。
日取りは明日、日曜日。場所は車で行ける郊外の公園。弁当手作り、アルコールは抜き。遊ぶ道具はソウタ君が用意。運転はリョウスケ君。軽自動車に詰め詰めでなんとかなるという見立てだ。
そこまで話を進めて、俺とヒカルの病気のことを話すべきか、少し悩んだ。世間的に、俺たち二人のような人間は偏見とも戦わないといけない場面が多々ある。強く拒絶することを隠さない人間は当然いるし、なんなら病名をジョークのネタに用いる人種にも会ったことがある。
しかし、一緒に行動する人間に、状態を教えないわけにはいかないだろう。状態が急変して迷惑をかけることだってあり得るのだから。
しばし会話を展開させてから、どん引きするレベルまで掘り下げず、マイルドに、俺は現状を告げた。えらくマイルドにしたので、最近ドタバタしたのも丸々カットだ。
後日、病気のことを話すのは本当に身近な人にだけにしろ、と医師から指導があったのを補足しておかねばなるまい。
「わー、大変ですね」
ユッコちゃんの控えめな一言。これが一般的な反応ってやつだろう。
そうです、大変なところもあるんです。
幸いなことに、簡単に発狂したりところ構わず失神したりはしない。普通に接する上で地雷を踏むことはないから、その辺は安心してくれ、と俺は伝えた。
その晩、急に、俺は病気を告白したことでモヤモヤし始めた。今頃俺たちのことを色々噂しているんだろうな、とか。明日変に気を遣われたりしたら嫌だな、とか。ドタキャンされたりしないかな、とか、とか、とか。
危うく悪い方に精神が転びかけたので、俺は弁当の準備をすることした。
「お弁当、何作るの?」
ひみつ、と言って、俺は早く寝るよう促した。
俺の背後でうろちょろしながら、ヒカルはショートホープを吸った。
独特の、臭いとも言われる香りに鼻をくすぐられながら、俺は鼻歌を歌った。
怪獣のバラード、という曲だ。
これがなかなかに泣ける歌詞で、独りのカラオケではよくマイクなしで歌ったものだ。中高で、俺のテノールは結構聴かせると評判だった。合唱部から何度かお誘いもあった。
懐かしい。その辺が俺の黄金期だったのかもしれない。
***
快晴だ。俺もヒカルも、晴れやかな気分だった。素晴らしい日だった。
車窓を流れる風景が陽光を受けてキラキラと輝いていた。パワーウィンドウを下ろすと、爽やかな風が気持ちよかった。
車内にはリョウスケ君セレクトの、洋楽のヒットチューンが流れた。誰もが聴いたことのあるような曲ばかりだった。
詳しくは知らない、発音もめためたの英詞を、適当にふにゃふにゃとなぞって歌うのは楽しかった。ボヘミアン・ラプソディは特に盛り上がった。
リョウスケ君、どこまで気が利くんだ。
俺は助手席で、膝の上に弁当箱を乗せ、ナビをした。ナビと言ってもほとんど真っ直ぐの道だったけれど。
車に揺られて一時間ほどで目的地に着いた。駐車場にはまばらに車が停まっていて、家族連れが原っぱに散見された。
少し森の方に行けばアスレチックが用意されていて、小さな子供がターザンロープで遊んでいた。
思い切り背伸びをして、肺の奥底から空気を吐き、ぐうっと息を吸う。
「行け! わん太!」
わん! とソウタ君が四つん這いで駆け出した。その光景、というか四つん這いらしからぬ走行速度に、俺たちは笑った。
それからしばらく、皆でフリスビー(商品名らしいが知ったことか)やバドミントンに熱中した。疲れたら、レジャーシートに横たわって、水筒からよく冷えたお茶を飲んだ。
正午を少し過ぎてから、俺は自作の弁当をお披露目した。
カツサンド。あとポテトサラダどっさり。
これは俺の実家のイベント向け弁当のスタイルで、運動会なんかの時は大抵これだった。作りながら懐かしくて子供に戻りたくなるくらい思い入れがあった。
そして、ユッコちゃんの持ってきた弁当は、鶏の唐揚げがメインのバランスの良いものだった。おにぎりが俵型で、ひとくちサイズなのが女性らしかった。彩りも豊かで、ソウタ君が体型を健康的に維持できる秘訣がそこにあるようだった。
あっという間に日が暮れて、そろそろ帰ろうか、という空気になった。
「ああ、楽しかった!」
本当に久しぶりに、俺は楽しい一日というのを過ごした気分だった。活動的な休日を意識的に過ごすのは、病気をしてから初めてだったかもしれない。
隣人氏に、車を出してもらった礼に、帰りのコンビニで煙草を、エコーをひと箱進呈した。軽く笑って、リョウスケ君は受け取ってくれた。
ソウタ・ユッコペアは、どこに隠していたのか、うまい棒をどっさり用意していて、それを無理矢理リョウスケ君に押しつけていた。半ば悪戯だ。
そして、ヒカルは何か耳打ちをして、隣人氏の一番嬉しそうで恥ずかしそうな顔をゲットしていた。何を囁いたのかは全く想像もつかなかった。ヒカルの表情から読み取れるものは少ないからだ。
帰宅して、早々にシャワーを浴びた。その日の楽しい事だけが思い起こされた。俺がニコニコしながら浴室を出ると、友人が寝ながら少しだけ笑っていた。いつもよりずっと自然な笑みだった。風呂が空いたら呼んでくれ、と言われていたが、俺はしばらくそうさせてやることにした。
幸せな気持ちなら、それでいい。
誰かが自分を悪く言っているかも、なんて思わなくっていい。世界の悪意なんてものは自分とは無関係だと思っても構わない。ただただ、幸せであれ。
俺はそう思って、毛布をかけてやった。
ベランダに組み立て式の丸椅子を出して、月を眺めることにした。風を浴びていると、壁越しに気配を感じたので、俺は隣に話しかけた。
「今日はありがとう」
「いえいえ、こちらこそ。本当に楽しかったです」
ライターを擦る音がした。続いて紫煙が宙に舞った。
「これ、ごちそうさまです」
エコーの箱を俺の見える位置に突き出しながら、リョウスケ君が言った。
「そんなもんしか渡せなかったけど、悪いね」
「まあ、そうですね」
「返品してくれても構わないけど」
「冗談ですよ」
くく、と二人で笑った。
「また遊びに行けるといいですね」
リョウスケ君は言った。
社交辞令かもしれない、という邪推を、その時ばかりは捨て去って、応えた。
そうだね、と短い言葉で。
「ちょいちょいちょーい、お隣さん同士だからってずるいですよ。僕も混ざりたいのに!」
少し遠くで嘆く声がした。それを受け、俺は初めてベランダから身を乗り出して二〇三号室、二〇一号室方面を見た。ちょうどそれぞれの部屋の住人が、ベランダから乗り出していた。
皆、同じように。
こうしてみると、壁があっても人との距離って案外近いんだな、と俺は思った。リョウスケ君、ソウタ君も、共に同じことを思ったらしく、にやっと歯を見せた。
それから、俺たちは時折ベランダ越しに雑談するようになった。俺はもっぱら聞き役で、二人の大学生活に耳を傾けることが多かったのだが。
ヒカルが交じることもあった。根が素直な性格なので、仲間外れはなんか嫌だ、と言ってベランダに出てくるのだ。
するとリョウスケ君は少しドギマギして、舌の回りが鈍ったものだった。
ははあ、さては、と俺は思ったが何も言わなかった。
***
早くも売り出されていた線香花火を入手して、隣人たちを誘った。アパートの裏手にある駐車場で、静かに楽しむことにした。
ヒカルは短いスカートで出てきたので、しゃがみこんだ際には下着がちょいちょい見えていた。
リョウスケ氏はそれを高速でチラ見をしては目を逸らすので、黒目の残像が作り出せそうだった。「そちらは残像だ」と魔王的な何かが俺の脳内で仁王立ちして、思わず少し笑った。
美しく儚く終わる線香花火に、俺は自分を重ねそうになった。いくらか妙な気持ちになったあと、頭を振って立ち上がった。
俺はこんなセンチな人間ではなかっただろう。
消えた花火をバケツに放り込むと、腰を反らして深呼吸した。
火薬と草いきれの、夏の香りがした。
それから小雨が降った。
土埃の舞い上がる、あの鉄くさい香りが鼻についた。
これもまた夏の香りだな、と俺は思った。
春が終わってしまう名残惜しさが、少しだけあった。
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