第4話 生きたい
四. 生きたい
朝から憂鬱だった。
徹夜明けで人生の全てが無意味に思えるくらい気分が悪くなっていて、かつ、自分以外の人間が裏で繋がりを持ち、俺を悪く言っているような妄想が攻めてきていた。
腹は減れども食べる気がしなかった。喉が渇いてもコップに水を注ぐのが困難だった。
ひどかった。何が一番ひどかったかと訊かれると、ヒカルにもその悪い波が来ていたことだ。
「……」
俺たちの中にはルールがあった。
それは、体調が優れない時は無理せず言うこと。お互いが我慢の限界値を超えて発病した者同士、変な我慢はしないことに決めていた。
だが、しかし。
お互いがフォローできず共倒れの危険性がある時は、変則的に対応する必要があった。
(しんどい、死にたい)
口には出さないが、お互いの肚の中は大体分かった。自分の考えていることが概ねそのまま相手の考えていることだからだ。
(ああ、くそ、つらい)
俺は右手で顔面を右半分だけ覆い、頭をゆっくりと前後に揺する癖があった。ヒカルはというと、壁に寄りかかって下唇を軽く噛みながら、小さく唸っていた。
(体を燃やしてしまいたい)
世の中の全ての悪意が自分に向いているような気さえしてきた。もしもそれが真実なら俺たちにはどうしようもない問題だ。
頭に穴を開けてトチ狂った行動(と自律的な動きのほとんど)を止めさせる処置があった。ロボトミー手術とかいうヤツだ。今ならそいつを受け入れられそうだった。
俺は、膝立ちで、かつ、上半身をよろめかせながら薬の在り処にたどり着いた。頓服薬を飲んで寝てしまわなければ本当に死んでしまいそうだった。
ネットを禁止するまでは、この段階であらゆる自己表現の場において、鬱々垂れ流しの惨状を繰り広げていた。今はそういったツールへのアクセスを断っているので、真っ直ぐ薬に頼る他なかった。
(死にてえ)
(いや、世界の皆が俺の死を望んでいるのかも)
俺は胃の中に鉛を注がれたような重たさを感じながら、薬を取り出して口に入れた。
水、水、水。
食卓横の小さなカレンダーが目に入った。
(ああ、世間はゴールデンウィークも近くて浮付いているんだろうな、なんで俺はこんなんなんだろうどうしてあそこであの場所に行っちゃったのかな信じられねえ人生やり直したい、いや、やり直してもだめかクソもうどうしようもないのか)
口の中で錠剤が溶け始めてざらついた舌触りをしたので、はっとした。
いけないいけない、早く飲んで寝よう。
時計の秒針が鳴っている。
(秒針ですら規則正しく動いてるのに人間様である俺が俺たちが十時、十時っていう時間なのに働きもしないで朝飯も食わないでただただそこにいるだけでいいのかな、いいわけないよね、もっとどうにかしようがあるよね、あ、吐きそう吐きそう吐きそう俺がいけない俺がいけないんだ俺が悪いんだ)
水道のレバーを力なく動かして、蛇口からチョロチョロと流れ出した水を口に受けた。
濁点のついた「あー」を絞り出しながら、俺は布団の方へと歩き出す。壁際では、同じ音を出しながらヒカルが何もできないでいた。
ここまで重い症状が二人で重なるのは初めてだ。
こうなるとコーヒーを飲むのもダメだ。というかそもそもから薬とカフェインの相性がよろしくない。いつもは、ちょっとくらいならいいかな、という感じで嗜んでいるのだ。
「うあああああ、うああああ、うおおおおおおお」
とにかく喉を鳴らして、布団の上に倒れ込んだ。
そして強く目を瞑った。
ヘソを中心に部屋が溶けてぐるぐると回っている感覚がした。次第にそれが拡大していって、地球がなくなっていくようだった。
そして、俺は湖の上に浮かんだベッドに寝ていた。遠くに釣りをしている人が、いなかった。いなかったんだ。そう、誰もいない湖の上に取り残されていたんだ。
ベッドは足の方から水に沈んでいき、俺は頭側の方に避難した。すると今度は雨だ。それもバケツをひっくり返したようなスコールだった。口の中に雨水がどっと流れ込んできた。
でも大丈夫、俺にはこれがある。
そうさ、これさえあれば
これってなんだ?
ぷつん
***
三時間ばかり寝た後、俺は目が覚めた。
そこで何よりも心配だったのはヒカルのことだった。
ヒカルの姿を探しても、部屋には影がなかった。ベランダにもいない、キッチン周りにもいない。
バスルームに、果たして、ヒカルはいた。ヒカルは、下着姿になって太腿に安全カミソリを当てていた。
「おい」
ここでヒカルが涙をぼろぼろ流しながら何か言い訳する人物であれば、多分何かしらの救いがあったのだろう。だが、友人は本気で血の気が引くほど、至極冷静な顔をしてそういうことをするのだった。
「……」
何も言わないヒカルの手からカミソリを優しく取り上げた。
「これさ、なまじ切れないから無駄に痛いだけだろ」
俺は至極冷静につっこんだ。
安全カミソリは、それこそ思い切りゴリゴリとやらないと肌を傷付けられないようにできていた。だから力の抜けた精神病患者なんかじゃ致命傷など作れないのだ。
そして、後に残るような痕もそうそう作れない。それこそ、本気で手首など細い部位を切り落とす勢いでなければ。
包丁じゃなくてよかったな、と俺は言った。
それは思いつかなかった、とヒカルはぼんやりと応えた。
後日、このやりとりを兄に聞かせたら、何故か俺が頬を張られた。理不尽だ。
薬を飲ませて布団まで運んでやると、ヒカルはしばらく目をぎょろつかせた後、疲れたらしく眠りに落ちた。それを見届けてから、テレビを点けて、ボリュームを落とした。
NHKの教育番組で小学生向けの科学番組が流れていた。アメンボが何故水面に浮いてられるかの解説をしていた。
浮いている、というワードがなんだか俺の気分をやにわに害したので、テレビを消した。
少しすると、今度は猛烈に腹が減って、兄に渡された土産物の梅茶漬けを作って、むせながらもかきこんだ。米は冷凍してあった余りご飯をレンジで温めたヤツ。
汁を最後まですすって、ほう、と息をついた。
その後、昼の分の薬を飲んで、新聞を広げた。内容は、正直ほとんど頭に入ってこなかった。記憶力の低下もまた、抱えている症状の一部だから仕方ないことだった。
それでも何度か読む内に記事の面白さ、重要さが分かることがあった。ハート型の毛色の猫、トラックの脱輪事故、通り魔、消費増税問題。良いこと、悪いこと、下らないこと。それらが概ね理解できたところで、読めた部分をスクラップした。
スクラップブックが充実していく度に、俺は遠からず社会復帰できるんじゃないかと思っていた。このままじゃいけないという気持ちがそこにあったからだ。少しだけ満足げに、にんまりとして、それを棚に戻した。
鼻毛カッターが目に入ったので、処理を始めることにした。その後、ティッシュでぐりぐりと鼻の穴を掃除した。細かく短くなった鼻毛が出るわ出るわ。
これが肺に蓄積したら死ぬな、と考えて、数時間前までの自分の自殺願望を思い返した。
「……自殺したら、殺されるよな」
矛盾した話、自殺したら真っ先に兄に殴り殺されるであろうことを思って、鼻をさすった。またどこかを折られるのは、嫌だ。同じぐらい、兄の拳を痛めたくはない。
ましてや、肉体でない部分に癒えない傷をつけるなど、とても。
***
ヒカルが起きたのは夕暮れ時のことで、俺はビーフシチューを圧力鍋で作っているところだった。ブロック状の大きめの肉たちをほろほろになるまで煮込んだ、ヒカルの好物だ。
「お腹空いた」
だろうよ、と思った。
ヒカルは内股が痛い、と言って、恥じらいもなく下を脱いだ。そして、事態を確認してからおずおずと言った。
クリニックの先生には黙っておいてください、と。
自殺未遂は、本気度が高いと認識され、その数が重なると強制入院を宣告されることがある。やっぱり閉鎖病棟に入りたくはないのが本音だ。一度入るとなかなか出てこられない、というのがぼんやりとした知識であり、イメージとしては前時代的な鉄格子付きの窓が一番にある。
シチューにフランスパンを浸しながら俺たちは何度も言った。
今回はヤバかった、と。
間違いなく俺たちの共同生活始まって以来、最大の試練だった。いや、間違いない。本当に。どうにかこうにか乗り切ったが、笑い話で終わらせられない状況だった。対策を練る必要があった。
俺たちの状況を理解していて、かつ、身近で頼りになる人物の援助が必要があった。
「俺ですか」と、リョウスケ君。
なにとぞ。
「いや、でも俺そんな大したこと」
ひらにひらに。
「ゴキブリ退治程度でそんなに信用されても」
なにとぞ。
「いや、ですから」
ひらにひらに。
ヒカルがダメ押しの「乳揉み事件不問」を唱えると、リョウスケ君は即時受け入れてくれた。ヒカル本人がどういうつもりだったかは知る由はないが、世に言うところの脅迫という行為だ。
「信頼されてんだかされてないんだか、ホントにわかんないですよ……」
「それでも受け入れてくれる君は本当にいいやつだな」
携帯の短縮ダイヤル一番に、隣人氏へのホットラインが登録された。あと、せっかく来てもらったのでシチューを振る舞った。
ビーフシチューには米だ、とリョウスケ君が言うので、あり得ぬ、と俺たち二人は唇を歪めた。
その晩、就寝前の一服をしているヒカルの携帯が俺の手元で鳴った。ヒカルの旧い学友の名前が表示されていた。
俺は何度か思い出話でその名を聞いていたので、名前を読み上げながら携帯を渡してやった。電話口に、心なしか上機嫌で出たヒカルだったが、すぐにその顔は強張る。
***
自殺だった。
深い事情など知らない。そこに至った経緯など、俺たちは知らない。ただただ、事実として、その旧友は自らで命を絶った。
俺たちは翌日の葬式に足を運んでいた。そこで知らされた内容に、それ以上の情報はなかった。
手を握っていてくれないか、とヒカルが言う。俺は黙ってそれに応じた。
横たえられた遺体の死化粧は見事だった。今にも起きて動き出しそうだった。
空いた方の手で、ヒカルが旧友の頬を撫でてやっていた。その肌の冷たさ、固さに小さく驚いたのが、握った手から俺に伝わってきた。
ヒカルは、分かりやすく震えたり、泣き叫んだりしなかった。俺の手を、握るだけだった。
遺族はヒカルに泣きすがり、今までよくしてくれてありがとう、と言った。ごめんなさいね、とも言った。他にもたくさんの、言葉にならない声が漏れて出て、ヒカルを包んだ。
その姿が自分の家族のものだったら、と俺は胸が張り裂けそうだった。
死んでたまるか。そう、強く思った。
帰宅し、お浄めの塩を撒き終わると、ヒカルは何か言葉に詰まったように息を飲んだ。何を言おうとしているのかなんとなく理解できた。俺たちには、言葉がいらない瞬間は少なからずあった。
それでも、俺はその言葉を待った。言葉は口にすると力を持つ、なんて気がしていたからだ。
「……私は」
ヒカルは、ひとすじ涙を流した。
表情は変えずに、ただ、雫だけが零れ落ちた。
「生きたい」
ヒカルは言った。
「ああ」
ちっぽけな俺はそう返事するのが精一杯だった。
自分で自分を抹消しようとすることの愚かしさは、生きながらにして俺たちは知っていた。
もう一度、俺は言った。
「ああ」
病んでいない精神の持ち主が、力強く、まくし立てる自殺否定よりずっと、その一言の方が俺たちには重みがあった。
俺は喪服がシワになるのも気にせず、ヒカルを抱き寄せて、玄関口でお互いを確認した。
お互いの生をだ。
ちっぽけな俺たちには、そうすることが精一杯だった。
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