君ともう一度、はじめから

服部ユタカ

第1話 俺たち二人の関係

    一. 俺たち二人の関係


 春先の朝のことだ。


 無理矢理借りることに成功した、安い学生アパートの一室にある狭いキッチンで、電動コーヒーミルを回していると、ふと思い出した。先日、煙草が切れたんだった。学生時代に買い貯めたアメリカンスピリットがだ。すでに学生でもなくなってしばらく経つのだが、かと言って仕事もしていないので、再度の購入に踏み切る気分にはなれなかった。思っていた以上に、なんとなくだが口元が寂しくなっていたようで、一応、飴玉やらガムやらでごまかしていたこともある。


 元々、俺は週に数本も吸わなかった。煙を肺にも入れなかった。いわゆるふかし煙草が好きだった。本当に時々の習慣だったが、それが断たれた。


 それなら、と葉巻を勧められたことがある。名前も憶えていないそれは、なかなか美味かった。ブランドは確か、コイーバ、とかいっただろうか。


「悪くない」


 そう、悪くない出会いだったが、いかんせん高くついた。買い貯めた頃の紙巻煙草の値段を思い出してぼんやりと比較する。あれからニコチンにどれだけの課税がなされたかを、俺はもう覚えていない。


 背後でヒカルが言った。「そんなに喫いたいのなら、何故とっととそいつを買わないのか」と。ヒカルはヒカルで美味そうに自分の紙巻を咥えている。一本が短い、ショートホープだ。


 ふわり、紫煙が鼻を過ぎる。


 かなり細かく挽いた豆をエスプレッソメーカーに移して俺は首を捻った。いつから俺は喫煙を始めたのだろう。昔、三十歳になったら葉巻かパイプを始めようと考えていた。だから喫煙はいつかする予定ではあったわけだ。だが、全く節目が思い出せない。


 火にかけたエスプレッソメーカーがこぽこぽと音を立てる。深煎りコーヒーの濃厚な香りがキッチンに漂った。


 シンクに寄りかかりながら、ヒカルはくわえたフィルタを強く吸い込み、そして、深く息を吐いた。さらに何気ない様子で「ふかしだけだったんだから、いっそ止めてしまえば?」とも言った。


「そうだな」


 ミルクと砂糖を用意しながら俺は答えた。とてもテキトーな答え方だった。


 あちらも気の抜けた「うん」だけで返した。俺は、立ち昇っては換気扇に吸い込まれていく副流煙の一部を軽く吸い込んで、香りを確かめた。


   ***


 深夜にガラケーが鳴った。俺は発信主の名前を確認して眉を寄せた。昔付き合っていたヤツからだった。立ち上がってキッチンに向かう。頭を掻きながら、一呼吸おいて、ようやく通話ボタンを押す。


「どうした」


 大体いつも聞かされるような話だった。つまるところ、また男にフラれたらしい。原因は分かっている。依存と恋愛を履き違えたのだ。その点について疑う余地はなかったし、だいたいからして何度目だ、この話の流れ。


 背後でヒカルがマッチを擦った音がした。燃焼する赤燐特有のツンとした香りが鼻につく。


 俺は振り返り、起こしてすまない、と首を軽く倒すようにして頭を下げた。それを受けてヒカルは、構わない、と手を振る。


 さて、と身構えるまでもなく、めそめそとした、とりとめのない話が始まる。俺は電話口から垂れ流される言葉の数々を、曖昧にかわした。


 どうして彼は優しくしてくれたんだろう、とか。勘違いさせるなんて、とか。


 どれもこれも、俺からすれば「うん、そうだね」としか言えないような嘆きの文句だったが、それすら口に出さなかった。言って何も変わらないのだから、何かを変えようとも思わなくなっていた。


 ヒカルが煙草をくわえながら、キッチンの換気扇のスイッチを入れる。そこでようやく、俺は喉から音をひねり出す。


「もう遅いから明日にしてくれ」


 とかく、もう本気で眠かった。とにかく眠かった。


 横には、ぼう、と眠たそうにヒカルが立っている。俺も、多分同じくらい睡眠欲まみれの顔をしていることだろうと思った。


 ヒカルが煙草の箱を俺に差し出してくる。一本、取りやすいように突き出ていた。俺はそれを受け取って、しかし、唇に触れさせることはなかった。結局煙草は、酔っ払いの持ったタクトのようにふらふらとしただけだ。


 電話を一方的に切るほど俺は薄情じゃない。でも、引き続き話を適当に聞き流すほどには、充分に薄情だ。


 そこから、折り畳みの丸椅子に座り、俺は適度に相槌を打った。ちゃんと聞いているのか、と問われたら、もちろん、と答えた。


「もう遅いから明日にしてくれ」


 再度の発言はもはや懇願の色を宿していたのだが、こちらの意向は全く通らなかった。


 バイクが外を通る音がした。新聞屋だろうか。窓の外を見る。嘆息するしかない。なんともはや、朝がそこまで迫って来ている。


   ***


 太陽がすっかり沈んだ頃に、俺たちはデリバリーピザを取ることにした。


 午後九時から、二人の好みのB級映画が放送されることを知ったからだ。ヒカルはコーラのボトルを買いにスクーターを走らせて、部屋にはいない。と、そういうタイミングを見計らったかのように、例の電話の主が、ヤツが部屋にきた。


 俺はドアの覗き窓から外を見て、下唇を突きだした。

めんどうだ。


 居留守を使ってもヤツは部屋の前で座り込んで俺を待つだろう。そうすればヒカルかピザ屋の配達人とバッティングする。そうなれば居留守はバレるし、余計な厄介ごとを招く。俺には、とっととドアを開けて中に招き入れる、という選択肢しかなかった。


 めんどうだ。


 ドアを開けるなり、ヤツは玄関先の靴を見てはっと息を飲んだ。そして、何やら言おうとしたのか俺と靴とを見比べたが、結局唇を結んだまま部屋に上がる。俺はローテーブル横の座布団を指差して座らせると、ヤツは頷いて従った。


「どうしたんだ」


 とりあえず俺はそう言ってやった。まあ当然、内容は電話の続きかあるいはそれに類する話題なんだろうし、そう言うまでもなく堰を切ったように話は始まるのだが、とりあえず、だ。


 そして、話が始まるのだが……長い。話が長い。


 やがてヒカルが帰ってきた。おや、と玄関口で声がしたので、来客には気付いたようだった。エコバッグ片手に、ヒカルが部屋に入ってくる。


 なんとはなしに緊張した面持ちの客と遭遇すると、ヒカルは最近会得した、柔らかい微笑みのようなものを実践した。不慣れさの表れである強張りを持ったそれに加えて、こんばんは、と言いさえした。


「ルームメイトです。よろしく」


「こっちは前付き合ってた、ほら、以前話した学生時代の」


 ヒカルは「ああ」と受け止めて、目を白黒させることもなく短く自己紹介をした。まあ、「そういう」話はしていたからな。


 がっちりとした顎にはしっかりと髭をたくわえた、むやみやたらに大柄の男、“俺の元彼”が恥ずかしげに会釈をした。伸ばした髪を高い位置でひっつめたヘアスタイルも、控えめな態度も、なんとも変化がないやつだ。


「あの、お、俺は。その、えと」


「ああ、話は聞いていますから。安心してください。ところでご飯食べていきます?」


 ヒカルのその言葉を引き継ぐように、テンポよくドアチャイムが鳴った。ピザ屋だろう。ヒカルからエコバッグを受け取ると、そのまま支払いを頼んだ。


 ペパロニ追加のデラックスミートピザはヒカルの趣味だった。もう一枚のシーフードピザが俺のチョイス。明朝に持ち越しで食べる予定であったので、量は三人前以上ある。


 ヒカルはけっこうな肉食人だ。長い黒髪の似合う、白い肌をした細身なのに。痩せの大食いというやつだ。


 その点、前付き合ってた男はまるで逆。野菜好きなのに図体がとにかくデカい。摂取するタンパク源が基本的大豆か乳製品と、いつか話していたのを思い出す。


 肉について考えていると、映画の中で人が怪物に食われた。チープな、作りモノの肉片が主人公立ちの周辺に降り注ぐ。俺たちは無表情でそれを眺めていた。


 いや、つまらなかったわけではない。


 ただ、まあ、空気というヤツがある。ピザの上に乗ったイカを噛み締めながら、俺はそう考えた。


   ***


 ヤツがいつ帰るのかと思っていたら、夜が更けていた。布団を敷いて川の字になろうかという段で、俺はさすがに具合がおかしくなってきた。たまりかねて、待て、と両手を前に出してヒカルを制止する。


「いや、何かおかしくないか。そもそもだな、お前いつ帰るんだ?」


「いいじゃないか、たまにはこういうのも」


 ヒカルが、俺の言葉を受けてそう言った。


 誰が誰の隣になって、中心が誰になるか、電灯は全部消した方が眠れるのか、そういえば風呂入るか、というやりとりの全てが意味不明だった。


 異性に興味ない同士が三人並んで寝るのか、そうか。このまま泊まる気か、そうか。目元を押さえて首を傾げると、頭が重くなったように感じられて、危うく転げ落ちそうになる。


 煙草が吸いたくなった。しかし、ストックはとっくに切れている。


 その状況を察したのか、ヒカルが昨晩と同じように自分のショートホープを差し出してくれた。俺はそれを受け取って、くわえて、しかし火をなかなか点けなかった。


「いいじゃないか、たまには」


 それはタバコを吸うかどうかについてなのか、俺の元彼を泊めるかどうかについてなのか、どっちに取ればよいのか分からなかった。


 ヒカルがマッチを擦って、煙草の先端に火を近づけた。とりわけ喫煙時間の短い紙巻煙草を深く吸い込んで、じりり、と燃焼させると、一服目をさらに肺に深く落とし込んでから吐き出す。その表情は完全なニュートラルで、一年ほど一緒に暮らした俺ですら考えが読み取れない。


「……」


 俺は黙ったまま、規制のせいでやけに重たくなったライターのスイッチを押して、煙草に点火した。これを喫い終わる頃には、まあ、何か気分も変わっているだろう。希望的観測ではあると理解しつつ、だ。


 立ち昇る煙の向こうで、ヤツがこちらに背を向けて座っていた。テレビを見つめる背中を眺めながら、俺は煙がしみて目を細めた。


 口腔に煙草の苦みが満ちると、加えてコーヒーが飲みたくなった。


 俺とあいつの好きなブレンドが、冷凍庫の奥に入っていたことを思い出す。


 何故そんなものを後生大事に持っていたのか? 何故だろう。もう随分と古くなってしまったはずなので、きっと、美味い不味いの前に飲めたものではない。


「……ふむ」


 豆を解凍して、ミルにかけて、メーカーに移して、フィルタをセットし、火にかけて、待って。ぼんやりとその手順を考えて、煙草で灰皿を叩いた。俺の愛飲していたものほど葉が詰まっていないそれは、軽く灰が落ちる。ヒカルは早くも半分ほどを喫って、火をもみ消していた。


 そして、両手を組んで背伸びをすると、夜の分の抗○○剤諸々を飲んだ。コップ一杯の水を干すと、ヒカルは風呂に向かう。


 ヒカルがシャワーを浴びている間に、俺はヤツの背中に言った。


「俺に何かを期待するなよ」


 以前の関係性を含んだ温度を、一切感じさせない言い方に、自身、驚く。背中を向けたまま、ヤツはうつむいてしまった。何も言えないようだった。


 俺は煙草をもみ消した。


 日付が変わると共に、テレビではニュースのトピックが切替わった。


 ヤツが立ち上がると、俺に向き直って、息を飲み込み、喉から音を出そうとする。しかし、何も言えないようだった。


 狭いキッチンに男二人で立つと、余計に狭く感じる。平均より少し身長の高い俺ですら、ヤツと目を開わせるのに、少し、見上げる必要があった。


 しばらく視線を合わせたあと、ヤツは顔を近付けてきた。唇を重ねようとし、目線を迷わせた後、結局、ヤツは俺を抱きしめるだけに留まった。


「……もう帰れ」


 俺は、それきり、黙った。


 同性を、あるいは同性をも愛する人間。それが俺であり、ヤツだった。だが、俺たちは今現在、互いにそういう関係ではない。



「帰ったの?」


 風呂上りのヒカルはいつものように、下着一枚にTシャツ一枚で髪を拭きながら出てきた。


 その顔に「意外」とか「残念」とか言った感情が見受けられなかった。その無表情なのが、ヒカルのニュートラルポジションだ。だから、先ほど見せた微笑みなんてものは本来、ヒカルにとっては不要な機能と言えた。


「せっかく修学旅行みたいだったのに」


 まあ、内心ではどういうつもりだったのかさっぱり分からなかったが、けっして嫌悪感ではないことが分かった。


   ***


 明くる日、ベランダに出た。その日は、朝から小雨がぱらついていた。ひやりとした空気を感じたくて、折り畳みの丸椅子を組んで座る。


 隣人の男子学生が、同じくベランダに出た音を聞きつけて、俺は壁越しに声をかけた。彼とは割といい関係を築かせてもらっている。


「最近調子どうですか」


 男子学生は当たり障りのないところから話題を転がして、それとなく俺たちの近況を気にしてくれた。


「安定してるよ。気分もいい」


 折り畳みの椅子を組んで、灰色の空を見ながら話をする。顔を合わせないで会話するこの時間は、なかなか貴重で、心が洗われるような気がしていた。事実、ベランダから室内に戻ると、なんだか体が軽くなったように感じるほどだった。


 部屋の中から、友人が起きてくる音がした。どうやらシリアルを皿に入れたようだ。


 俺も空腹感を覚えて、話を切り上げ室内に戻った。牛乳が切れていたのか、友人はそのままチョコクリスピーを食べていた。


 俺は俺で、ポップアップトースターに食パンを二枚セットすると、むにゃむにゃという声を聞く。


「あまり寝られなかった。眠剤も飲んだのに……」


 目元をどんよりさせて言うヒカルは、テーブルに肘を突き、片手で頭を重そうに支えている。


「食べたらもう少し眠るといい」


 焼きあがったトーストに粒入りのピーナツバターを塗って、かじりながら俺はテレビを点ける。日曜の朝に放送されている、女児向けアニメの新シリーズが始まるらしかった。まともに働いていた時期から既に二シリーズほど話は進んでいた。


 急に味を失ったトーストを、どことなく乾き始めた口内に突っ込み、もそもそと食べ終わると、俺は深呼吸をした。


 割と安定していると隣人に話したばかりではないか。自分に言い聞かせ、キッチンに立つ。


 昨晩のことを思い出していた。


 何が、俺に何かを期待するなよ、なんだろう。


 違うだろう。俺に何も期待しないでくれ、だろうが。


 だからこそ、憐れみや憂いのある言い方ができなかった。自分に向かってのどうしようもない諦めを、口にしていたからだ。


 不意に名前を呼ばれて俺は振り返る。疲れた顔のヒカルが俺の顔を両手で柔らかく挟み込む。


「君も少し寝た方がいい」


 ああ、とだけ返して、俺たちは布団に戻った。


 さああ、と小雨の降る景色を横になって眺める。時々そうするように、横たわりながら手を繋ぐ。お互いが独りじゃないことを辛うじて忘れないように、そうした。


 目が覚めたら駅前のパン屋に行こう、と俺は誘う。ヒカルは、それもいいな、と応えながら、まぶたを閉じた。


 夢の中で俺は切らしたはずの煙草を手に持っていた。俺は別れたはずのヤツの隣にいた。いつ始まったか分からない、そして終わったはずの関係がそこでは続いていた。


 ふわりと煙が漂っていた。懐かしさと寂しさ。穏やかさと空虚さ。胸に満ちた感情が溢れるように、ふう、と煙を吐き出すと、形あるものは全て溶けた。


 慌ててそれを止めようとしたが、うまくいかなかった。全てが手からするりと抜け出してしまった。


 目覚めると、まだ手の中にヒカルの小さな掌があった。


 もう少しだけ寝よう、と俺はまぶたを閉じた。すると、小さな声が耳に届く。


「おやすみ」


「起きてたのか、ヒカル」


「ちょうど目が覚めただけ」


 俺たちは、目を閉じたまま少しだけ言葉を交わし、すぐに眠りに落ちた。


 今度は、ヒカルのおかげで、夢を見なかった。

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