第9話 闇の中でただ祈り

    九. 闇の中でただ祈り


 どんどん記憶が混濁していく中で、俺は空中から自分たちを見ていた。



 俺とヒカルが、夕暮れ時の住宅街を歩いている様子だ。風景はぼけていた。

 何か大きな塊が俺たちを跳ね飛ばした。


 

 この時、不確かな感情を覚えた。

 悪意、が一番近いと思う。それも特別強力な。



 不明瞭な世界を俯瞰していた。眼下で、俺が声を枯らして泣いていた。



 もう、あの掌は俺の手を握り返すことはない。

 硬い表情を崩して不器用に笑むこともない。

 他に比べて短い煙草を美味そうに吸うこともない。

 

 俺は声を出し尽くして泣き続けていた。



 もう、もう、起き上がってこちらを見ることはない。

 俺の姿は、その瞳に映ることはない。

 俺の言葉も、その耳に届くことはない。



 始めは、眺めている状況が飲み込めなかった。

 その体が横たえられた場所に連れて行かれても、なお、何が何だか分からなかった。



 電話口で聞いただけでは、もう一人の俺はタチの悪い冗談としか受け止めていなかった。

 白い布が被せられた顔を見るまでは、絶対信じられるものかと思っていた。

 俺がそこに行かなければ、「それ」は存在しないものだった。



 すなわち「死」は。

 


 ヒカルが死んだ。


 

 俺は、それをなす術なく、眺めていた。


***


「……ッ!」


 闇の中で俺は、きちんと自分として覚醒した。


 いや、きっとこれは夢だ。

 信じられない。


 きっとあれも夢だった。

 ……どこからどこまでが?


 白い布の乗せられた人物は本当に、いや、待て。

 落ち着け。現状を確認しろ。しっかりしろ。


 何か大切なことを忘れているらしい。何かが足りない。

 欠落している記憶は一体どんなものだ。


 茜色の空、数字の羅列、回転する視界、衝撃、騒音。そして、大きな暗い色の塊が迫ってくる様子。

 出てくるのはそれらだけか? 他に掘り起こせる情報はないか?せめて時系列どおりに組み上げられないのか?


「クソッ」


 どうやら今思い出せるのはそこまでのようだ。


 そこでようやく俺は、周囲の状況に目を向けた。

 闇の中には一切の重力を感じなかった。



 だが、歩こうと思えば、どの方向にでも歩けた。

 呼吸しようとすれば息もできた。

 何でもそこにはあるみたいだった。

 しかし、求めなければ何もそこにはなかった。



 永遠がそこにある気がした。



 すぐに俺はヒカルを探しに走り回った。



 きっとあれは夢だった。

 そう信じて俺は暗闇を行った。



 きっとあれは、そう、夢に違いない。



 強く考えれば考えるほど、俺の足は速く動いた。

 答えを求めて、俺は走った。


 疲労は長くやってこなかった。

 いくらでも俺は駆けられた。



 なのに、ヒカルがいそうな場所の目星はつかなかった。

 なんせ、全てが真っ暗だったんだ。


 方角が分からないし、目印もなかった。

 当然といえば当然だった。



 遠くから、俺を呼ぶ声がした。

 しかし、どこからなのか、俺には分からなかった。

 こちらからも声を出した。

 どこだ、誰だ、としか言えなかった。



 それに対する返事はなかった。



 一本調子に、だが、真剣な語調で、俺の名が呼ばれるだけだった。



 どうしたらいい。

 焦った。


 この悪夢から目覚めるにはどうしたらいい。

 焦りに焦った。


 ヒカルの安否を知るにはどうしたらいい。

 俺は、とにかく走った。



 体感では一時間も二時間も経っていた。

 もしかしたら、半日はそうしていたかもしれない。

 時間の経過を知ることは叶わなかった。



 腕時計を求めると、それは出現したものの、全ての針は止まったままだった。



 闇は、俺に膨大な広さの、そして壁の無い迷宮を与えるばかりだった。



 きっと、どうにかすればこの夢から覚めることができるはずだ。

 そうすれば、そこにはいつもの日常があるはずだ。


 いや、待てよ。



 この夢から覚めたとして、さっきのが夢であるとは言い切れるのか。



 いよいよもって俺はじりじりと焦燥感に焼かれた。

 そして、次第に恐怖を抱き始めていた。

 どうすればこの空間を抜け出せるのだろう?

 もし、ここを出て、あれが夢でないとしたら?

 

  ***


 ついに根負けして俺は座り込んでしまった。


 声は、絶えず俺に呼びかけていた。

 何人かが声を揃えているようだった。


 聞き覚えのあるものも混じっていた。

 判別はできなかったが、どれも必死そうだった。



 誰か、助けてくれ。



 一度そうやって呟いてしまって、俺は後悔した。

 急激に孤独感が襲ってきた。

 誰も助けてくれないという考えが、俺の体の何倍も大きく膨れ上がった。


 それは、死を選んだ時と同じ状況だった。

 救いなどはどこにもないのだ、という妄想が、現実味を帯びて胸を刺した。


 手足の感覚が鈍くなっていった。


 体がだるくなってきた。


 どっと、疲れが押し寄せてきた。



 何もできない、誰もいない、助からない。



 不安要素をたたえた考えだけが素早く巡っていった。



 頼む。頼む、誰か助けてくれ。



 もし物語なら、ここで過去の象徴が具体化して現れたのだろう。

 あるいは、何かの暗示がそこかしこで店を広げて俺を導いたはずだ。

 しかし、実際はどうだ。


 何もありはしない。

 何も俺に関わってこない。



 独りだ。



 呼吸が荒くなった。

 横になろうとしても闇の中では身を預ける地面がなかった。


 俺は自分の部屋を求めた。

 すると、俺は自分の部屋にいた。

 色のない部屋に、俺は独りでいた。


 寝室の方を見た。

 布団がそこには敷いてあった。


 ヒカルの姿は、果たして、部屋になかった。

 キッチンの、ヒカルのいつも煙草を吸うスペースにも影はなかった。

 住み慣れた我が家に、俺が一番求めていたものがなかった。


 俺は部屋を飛び出そうとした。

 しかし、ドアノブは回ったが、玄関の扉の向こうは、俺の部屋だった。


 窓から脱出を試みた。

 窓の向こうは、俺の部屋だった。


 絶望に近い感覚を味わっていた。


 この色の無い世界は、俺を捕えて離さなかった。

 声がいくらか小さくなって、聞こえた。


 俺は怖くなって、部屋の隅で小さくなった。


 背を何かに着けていないと、安定しなかった。

 その何かが、人であれば、と強く思った。



 リョウスケ君の生真面目な態度が恋しかった。

 カンジ君の可愛らしいあの顔が恋しかった。

 ソウタ君とユッコちゃんとの会話が恋しかった。

 ヒカルの柔らかく小さな掌が恋しかった。



 俺はこの部屋で、多くのものを得た。

 俺にとって、それは間違いなくかけがえのない関係だった。


 考えるまでもなく、大切なものだった。



 全てを捨て、この世に見切りを付けたはずの俺にとって、大事な人たちだった。


「……くそ、くそ」


 右顔面を押さえた。頭を、前後に揺すった。


 俺は、強く帰りたいと願った。

 そして、玄関のドアを開けた。


 今度は、俺の部屋に戻らなかった。


 代わりに目前には、白い天井が現れた。

 俺は覚醒した。

 咄嗟に起き上がろうとして、脚を振り上げ、勢いづけようとした。



 両脚の感覚が、なかった。


   ***


 身じろぎすらもできずにいると、兄が一番に俺の目覚めに気が付いた。


「おい、おい! 気が付いたか! 俺が誰だか分かるか!」


 俺は枕の上から周囲を見渡した。


 母がいた。父がいた。姉がいた。


 外は明るかった。


 一体どういう状況なのか、俺は説明を求めようとした。


 しかし、珍しく取り乱した母の嗚咽に、言葉を飲み込んでしまった。母は、また自分の子どもを亡くしてしまうところだった、と恐れていたようだった。


 俺には、妹がいた。病気でそう長くは生きられなかったが、確かに妹は存在していた。母は、それをずっと胸に抱えて生きてきた。当時、幼かった俺たち兄弟よりも、ずっと深く傷を負っていた。


 だから、交通事故で俺が喪われかけたせいで、その深い傷は今一度開いたようだった。


 こうつうじこ。


 なんだか現実味のない言葉に過ぎて、俺は困惑した。なので、俺は重要な点を尋ねるために、かすれた声でこう言った。


「そん、な、ことは、まあ……いい」


「そんなことって何言ってんだ!」


 兄は俺の腕を強く掴むと、そう叫んだ。


 しかし、俺はその後、ヒカルについてしつこく訊いた。


 俺は生きている。万歳。はい、それは終わりだ。ヒカルの安否を教えてくれ。


「……お前はよくやった」


 兄はそれだけしか言わなかった。


 俺はしばし使っていなかったらしい喉と肺に渇きを感じながら、絶え絶えにだが、訊いた。


「俺は、生きている。分かった。いい、んだよ。だから、あいつは、どこにいる、って言うんだ」


「お前はよくやったんだ」


 俺は、その言葉の意味を上手く汲み取れなかった。


 とにかく居場所だけでも教えて欲しかった。しかし、兄は同じ言葉を繰り返すだけだった。


 俺は頭に鈍いかゆみと違和感を覚えたが、固定具によって体を動かせないらしく、我慢するしかなかった。


 どうやら、倒れた拍子に、頭皮がぱっくりといっていたらしい。打ち所が悪ければ即死だったとも言われた。


 本当に、悪運が強いヤツだよ、と母が涙ながらに言った。


 俺は、再三、ヒカルのことを訊いた。


 母は言葉に詰まって、そのまま、また沈黙した。


 どうやら俺は、肋骨三本、左腕の大部分と、歩行で重要な役割をする骨や神経に大怪我をしたらしかった。奇跡的に、内臓は左の腎臓破裂だけで済んだと聞いた。どうも他人事のようなのは、麻酔が効いて痛みはおろか感覚が麻痺しているからだった。


 もしかしたら、リハビリ次第である程度人並みの生活に戻れる可能性があると言われた。しかし、もしかしたら、という接頭語はどの説明にもついて回った。


 その極限の状況でも、そこに脚があって、切断されていないことを知ると、他のことで頭がいっぱいになっている俺も、小さく安堵することができた。


 俺は、力を込めて、ヒカルのことを訊いた。


 答えは得られなかった。俺は、ついに激憤した。


「居場所を教えろ! いますぐそこに行く! 俺は生きてる! 納得したろ! 腕が動けばそれで這っていく! 邪魔するやつは許さねえ! これを外せ! 外せよ!」

 そう叫ぶと、無理をした反動で咳が止まらなくなり、ナースが何事かと顔を覗かせた上に、鎮静剤すら用意しかけたものだから、大騒ぎになった。結果的に俺は縫合された左腰部の手術痕を開いてしまい、後日厳重に注意を受けた。



 何度か同じ薬で眠らされたため、不明瞭だが、数日が経った。俺の意識が正常に覚醒したこと、また冷静であることが認められてから、兄がかなりの無理を通してくれた。俺はストレッチャーに乗せられ、点滴のスタンドごと運ばれることになった。エレベーターに乗り、何階かを移動したあと、そこに着いた。



「生きてる、んだよな」


 首を固定されている俺の前に掲げられた鏡には、ヒカルが映し出されてた。


 彼女はコルセットを首に、チューブを鼻元に付けられ、安らかに眠っていた。


 頸椎にひびが入っているらしかった。他に目立つところと言えば、左腕をギプスで留められていたことか。


「意識がまだ戻ってない」


 その時、既に事故から十日も経っていた。


「……こんなのって、ねえだろ」


「お前はよくやったよ」


 何をよくやれたのだろう。


 自分はまるで動けない。


 ヒカルは意識がない。


 これで、何を。


「生きてるじゃないか」


 その言葉が耳から入って、胃の下に落ち、じんわりと暖かくなっていくのを感じた。


「目覚めてくれたじゃないか」


 肩に置かれた手が、ひどく汗ばんで、震えていることに気付いた。


 それから、俺は病室に戻された。


 俺は布団をかけられ、茫然と窓に切り取られた晴天のみを見た。皮肉なくらい、いい天気だった。


 やがて、両親と姉は帰宅し、兄だけが残った。


 兄は俺の横に、ただ、いてくれた。それは、夢ではなかった。


   ***


 いくつものインプラントやらで整形された俺の脚や骨盤が、ある程度くっつき出した頃、俺の脚の神経の検査が行われた。経過は良好だと聞かされた。あとは、骨が完全に治ってから歩行訓練をすれば歩ける可能性はあるとも伝えられたが、内心、焦れて仕方なかった。病院の中で過ぎるゆっくりとした時間は何かの科学技術で引き伸ばされているように思えた。


 左腕の方も検査を受けた。こちらは、どうも芳しくないようだった。俺は見られる形に整えてもらえた腕を動かすことはできたが、指先の感覚がなくなっていた。右利きだから困らないと思っていたが、日常生活を片手で送ることは非常に難しかった。


 そして、二ヶ月が経ち、骨盤の骨折からも回復してきているとの診断が出たところから、リハビリは始まった。


 ようやく膝の曲げ伸ばしから始まったリハビリは、凄まじい苦痛を伴った。ここまで自分の体が言うことをきかないなんて、思ってもみなかった。ベッドの上で、脚全体を使って、膝や腰の可動域を広げる期間ですら、理学療法士の補助なしではなにもできなかった。


 重たい鉛の入った袋を、無理やり動かそうとしているみたいだった。あるいは、ただの肉の塊が腰から下にぶら下がっているだけのようだった。そのくせ、何かの負荷を感じると、股関節の内側に激痛が走った。


 俺は、歯を食いしばった。しかし、二ヶ月間、筋肉の維持のために使われた医療用電気治療機もそれほど効果を感じられなかった。とにかく、動け、と脳から信号を送り続けた。


 左腕が利かないので、自分だけでは普通の車イスも使えず、どこに行くにも誰かの助けが必要だった。ナースの手をわずらわせることに引け目を感じていると、兄がやってきてこう言った。


「あちらさんも仕事だから気にするな。ただ、感謝は忘れないように、だな」


 おかげで、割り切って日々を過ごすことができた。


 さらに二ヶ月強かかって、さらに負荷をかけてリハビリする段階に到達した。

もう一度歩くために、俺は何度も反復して、動かない脚に力を込めた。ぼたぼたと汗を滴らせながら、俺は歩行補助器具を使って立ち上がろうとした。しかし、つかまり立ちさえ俺にはまだできなかった。


 そんな思い通りにいかない日々の中で、俺がリハビリを止めなかったのは、ひとえにヒカルの存在があったからだった。


 ヒカルは、事故││いや、事件から五ヶ月経った今も目覚めはしなかった。


 ただ、生きていた。


 少しずつヒカルは痩せ細っていくようだった。栄養は点滴からだけ。当然、排泄の世話もしてもらっていた。


 ただ、生きてくれていた。俺はそれだけで、正気を保っていられた。


 交通事故の件で、俺は警察官から「殺人未遂事件の被害者」という扱いで聴取を受けた。



 事件はあの時、こうして起きた。


 犯人は俺たちの部屋に盗聴器を仕掛けて、外出する機会を探っていた。ある日、犯人が偶然近くを車で通りかかった時、ちょうど俺たちが散歩に出かけようという旨の会話をしていた。そして、そのルートを追跡し、人気の少ないところで車のアクセルを踏み、俺たち二人を轢殺しようとしたのだ。


 その犯人というのが、時折部屋を無理に訪ねてきていたヒカルの姉、その人だった。


 精神鑑定を受け、彼女は精神疾患により正常な判断ができない状況にあった、と犯人の弁護側が主張している事実も聞かされたが、検察側が盗聴器まで仕込んだ犯罪をするだけの計画性がある時点で冷静さは確かなものだ、との指摘もあったという。有罪は確定だろう。


 今は自ら事件の概要を話し、心情を吐露しているという。


 盗聴器は、ヒカルが落ちていた時に置いて行かれたぬいぐるみに仕掛けられていた。そこまでなら、俺は冷静でいられた。


 実際には、ぬいぐるみ「にも」だった。警察が俺たちの部屋を探った際、コンセントの蓋、テレビの内部、その他を含めて、都合五個もの盗聴器が発見されたという。だから、最も弱っていた日を選んで部屋を訪れることも可能だったのだ。ちょうど俺も体調が悪い日を選べたのはそういうことだった。


 背筋が凍った。ヒカルの姉は、やはり異常だったのだ。


 彼女の生活を、刑事は少しだけ教えてくれた。マスコミによる憶測や脚色なしの情報だ。大企業の勤めたものの、事件の半年前にリストラされたが、親しい人間にもそれを伝えず、それまでと変わらないようなハリボテの生活を送っていた。


 そして、彼女はとある男に入れ込んだ。自身を華美に飾ること、男を満足に養うこと、また、その他を賄うことには金がいる。転がり落ちる人生には平凡な人生を送る以上に金がいる。そして、ついに資金の焦げつき始めたことが男に知られ、破局へと至った。


 曰く、幸せそうな被害者たちが許せなかった、と。


 理解に苦しむ、という表情で、刑事が法廷での彼女の証言を呟いた。


 俺は、それを聞いて困惑した。不思議と憤りは湧かなかった。まるで事件と彼女を切り離したように、受け止めていた。思わず俺は呟いた。


「幸せそうな」


 隣の芝は実際にはそれほど青いわけではない。これに気付いた瞬間から俺は低空飛行の闘病生活に立ち向かうことができた。俺にはヒカルがいて、ヒカルには俺がいた。アパートのメンツがいた。それは、幸せなことだったのだと認められた。


 ヒカルは姉にコンプレックスを抱いていたようで、その実、逆の立場にも似たコンプレックスがあった。このような複雑な感情の行き違いは、おそらく俺の知らない幼少期から始まったのだろう。

もはや想像でしか語ることはできないが、ヒカルは姉にない何かを持っていたのかもしれなかった。


 それを嗅ぎつけて、彼女は実の妹を潰しにかかったのではないだろうか。自分の優位性を保つために、だ。


 ヒカルが少しズレて育ったのは、常に彼女の監視の目があったからだろう。あえて、彼女はヒカルを「出る杭」に仕立て上げ、自分は優秀な他の姉と並ぼうとしたのだ。


 そうやって人を蹴落とす「嗜虐性」に目覚めた彼女は、少しでも自分より価値のないはずのヒカルを汚した。貶めた。追い詰めた。


 その結果、俺たちは巡り合い、彼女の最も遠ざけておきたかった「ヒカルの幸せ」を作り出してしまったのだ。


 皮肉だと言うほかなかった。


「実の姉妹間でこんな怨恨が生まれるなんてねえ……」


 刑事が去り際にそうこぼした。


「血の繋がりがあったからこそ、かもな」


 俺は一人になってから、そう呟いた。


 衰えた筋肉を鍛える際に、素人が一人でやると負荷をかけすぎる、という理由から俺はリハビリの休憩時間をしょっちゅう取らされた。


 がむしゃらにやればいいというものでもない、と理学療法士が言って、水分補給をすすめてきた。差し出されたボトルを左手で掴もうとして、失敗した。二度挑戦したが、まだダメらしい。


「はい、じっくりいきましょう。じっくり」


 右手に渡されたスポーツドリンクを飲みながら、俺は時計を見た。


「今日はここまで、ですかね」


 そう言って、俺は汗だくのTシャツを着替えに病室に戻った。


 洗いたてのTシャツを着ると、ヒカルのいる個室へと車イスを押してもらった。ちょうどその時は床ずれを防ぐために寝返りをうたせたり、さすったり、関節の曲げ伸ばしをしてやったりしているところだった。目覚めた時に体が固まってしまってはいけない。


 折れた左腕、肋骨、ひびの入った頸椎は、治ったらしい。


 よかったじゃないか、と小さく言った。


 脊髄の損傷はないようだ、と医師は言った。本来血縁関係にない俺などに対しては、職業柄、守秘義務が発生するはずだったが、話の分かる医師だった。俺は心から感謝した。


 つまり、目覚めさえすれば、ヒカルは帰って来られるのだ。


 こちらに。


 俺と住んでいた、あのアパートに。


 待ってるぞ、と言って、俺は個室から退出した。



 リョウスケ君が何度も見舞いに来てくれた。リョウスケ君は、退屈でしょうから、とゲームボーイアドバンスを持参してきてくれた。


 そのチョイスが俺のツボを心得ていて、とても嬉しかった。ソフトもまた、絶妙なセレクトだったので、喜びもひとしおだった。左手のリハビリにも、とゆったりプレイできる内容だったのが素晴らしかった。


 ソウタ君、ユッコちゃん、カンジ君はリョウスケ君ほど頻繁ではなかったが、同じく見舞いに来てくれた。果物や花を持ってきて、俺と時間を共有してくれた。


 それぞれにそれぞれの生活があることは分かっていた。それだけに、来てくれることに、本心からの感謝を伝えた。


 リョウスケ君は必ず、ヒカルの病室で一時間は過ごした。


 俺はその時間を邪魔することはなかった。


 リョウスケ君の、ヒカルに対する感情は既に分かっていたからだ。きっと、いつぞやのように性欲に傾いた行為をすることはないだろう。


 できることなど、少なかったはずだ。


 ただ、祈り、そして、祈り……。



 ヒカルは何が原因で目覚めないのか、医師も分からないと言った。


 俺は医師を恨んだりはしなかった。誰も恨むことはなかった。犯人でさえもだ。俺は、モノの見方が少し変わったことに気がついていた。


 車椅子でよく外に出た。同室の病人と会話をした。ナースと他愛のないことを話して笑った。二年ぶりぐらいに、他人と関わり合いを積極的に持とうとした。


 外の世界を知ろうとした。少ししか動けない体なのに、視野が広がったようだった。広い世界で、ただ、俺は待った。出来得る限りのことをして、俺はヒカルとまた過ごせるのを待った。


「最近かなり顔色がいいですね」


 リョウスケ君が俺の車椅子を押しながら、そう言った。俺は自覚がなかったので少し驚いた。


 リハビリで額に汗をかき、病院食を腹に詰め込み、人と話し……、なるほど健康的だ。


 今も病院の敷地内をぐるりと回りながら、陽光に当たっていた。心に負った傷が消え去ったようだった。まるで健康な一人の人間みたいに、俺は生活していた。


 日差しが強くなってきた。


 もう夏だった。


 セミの鳴き声が聞こえてきた。


 半袖のTシャツの背中が、汗で肌に貼り付いた。


 手でひさしを作って空を見上げた。


 とんびが長く鳴いて、ゆっくり旋回していった。

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