第3話 兄と俺とヒカルと

    三. 兄と俺とヒカルと


 本気か。俺は心底驚いて訊いた。


 ヒカルが社会復帰の一環としてバイトを始めるというのだ。それはそれは相当な衝撃が俺に走ったと思ってもらって差し支えない。


 何をするつもりなのか訊くと、まだ決めていないという。


 俺は重ねて、本気なのか、と問うた。


 本人は至って真面目に、本気だよ、と答えた。


 無料の求人誌をコンビニで手に取ってから、ヒカルは目付きが変わった。いつもならテレビを垂れ流しながら趣味の読書をしているはずの時間にも、求人の時給を見比べるようになっていた。


 これはもしかしたらもしかするかもしれない。俺はそう思った。


 三日後、アルバイトをするのはまだ早いと医師に言われ、しょんぼりするヒカルの姿があった。俺はもはや古すぎて伝わりにくいドリフのコントばりにずっこけた。


 就労意欲があるのは望ましいことだ、と医師の言葉はあくまで前向きだった。しかし、まだ時期が早い、と念を押して言われた。


 じゃあいつやるの、今でしょ、というのは健全な学生相手の話。


 俺たちのような充電期間中(この表現に到達するまでひどく時間がかかった)の人間には、ちょっと早すぎた。「頑張らないこと」を頑張るのが仕事の内は、他のことなんてとてもとてもできやしない。


 物事に対する限界を見極めるのは難しいが、少なくとも今は俺もヒカルも無理は禁物だと思っていた。だが、それで現状を改善しようとする姿勢を、ヒカルは完全には失っていなかったのだ。


 その日、一ヶ月振りに俺の双子の兄が部屋に来て、こう言った。


「まだこの生活を始めて一年未満だろ? せっかくなんだから、十二分に自分を甘やかしてやれよ」


 ヒカルは、でも、と反論しかけたが、そこはさすがの兄、全くそれを許さなかった。あれよあれよと言い包められ、ヒカルは口をつぐむしかなかった。


 俺はその様子を眺めながらカプチーノを淹れた。ミルクを温めて泡立てるところまで自分でやったヤツだ。正直、ファミレスのコーヒーメーカーで業務用の豆で淹れたやつより美味かった。


 俺と兄は砂糖をたっぷり入れた。ヒカルは、何故そんなに砂糖を使うのか分からない、と言い、自分のマグを傾けた。


 兄は割と名高い企業に勤めている。いわゆる新卒枠の頃にしっかりと就活をし、持ち前のコミュニケーション能力で職を勝ち取った。


 学生時代に力を入れたと話したことは本当に力を入れたことだったし、友達も多く、色々なイベント事を主催しては楽しんでいた。ヒッチハイクやバックパッカーも経験済みだ。行動派、アウトドア人間、リア充、そんなところだ。


 かくいう俺は、と比較しそうになったが、そこは踏みとどまった。つまらない話はしないに限る。


 兄は時々こうして俺たちの生活ぶりを見に来てくれていた。俺が両親への近況報告を滞らせて、二人が出張ってきそうなところを、まあ待て、と押しとどめてくれたのは兄だ。


 おかげで、精神状況が荒れて見るに堪えないところを親に知られることもなかったし、逆に「こいつ甘え過ぎてるだけじゃないか」なんて思われることもなかった。それにいくら助けられていたことか。


 嘆息した。


 土産のリアルブラウニーが美味い。カプチーノも美味い。そうやって食い物が美味いと感じられるのは、兄の活躍あってこそだった。


 ヒカルの方には、そういった真の支援者はいなかった。ヒカルは、俺と同じくポッキリと人生が折られた時、親にほぼ見限られたのだと結論付けていた。


 最低限の資金援助はあった。しかし、よくできた姉たちに与えられたものはヒカルには一切なかった。


 有体に言えば、愛情だ。


 世間体とは別次元に存在するそれは、はなから彼女には全く注がれていなかったのかもしれない。


 特別、親から虐待や何かをされてきたわけではない、とヒカルは言った。ただ、変な子である自分は受け入れられなかったのだ、と自身とは無関係であるかのように続けた。そして、姉たちも自分を空気のように扱ってきたとも言った。


   ***


 人生がお先真っ暗になった。俺がそう思ったことがあった。

 経緯は面白くないので割愛だ。思い出したくもなかった。


 飛び降りるんですか。

 後ろから女の声がした。


 ただ、あのビルの屋上の寒さだけは嫌でも時々思い出す。


 振り向くと、若い女が顔面蒼白で立っていた。

 俺は何も言えず、何もできなかった。


 オウム返しに俺は尋ねていた。

 飛び降りるんですか。


 二人ともこの世の人間とは思えないくらい絶望した顔をしていたと思う。いや、間違いなくしていた。


 屋上に上がれる雑居ビルを探しに探して、ようやく見つけた場所だった。下には人通りもないことが分かっていた。


 それはもう運命的と言える、自殺スポットとの巡り会いだ、と俺は思った。


 ひとつ計算外だったのが、同じことを考えている人間の存在だった。


 冷たい風が吹いた。

 無言のまま、俺は脱いで揃えていた靴を履き直した。


 そして、屋上のヘリから降りると、急に腰が抜けた。

 なんて高い場所なんだろう、と馬鹿みたいに思ったものだ。


 女はもう一度同じことを訊き、俺は首を振って、あろうことか何かが悔しくなって泣いた。


 どうして俺はこんな━━おっと、つまらないからここも割愛だ。とにかく悔しくて泣いた。


 そしてあれがこうしてなにがああなって、屋上から地上へ降りた。もちろん、階段を使ってだ。


「とりあえず今日は止めましょう」


 そしてそれがなにしてあれがこうなって、俺はその女、ヒカルと友達になった。



「テメエこの野郎! 何考えてやがる!」


 そして、家に帰って自分のしようとしたことを告白したら、兄に殴られた。母よりも先に兄が手を出したのは意外だった。


 それが心底痛くて痛くて、また泣いた。本当に痛かったんだ。痛みが全く引かなかったから病院に行ったら鼻を骨折していた。


 兄も指を骨折していた。どうりでいつまでもお互いに痛かったわけだ。


 兄は指が紫色に腫れ上がっていたし、俺の鼻血も止まらなかったからな。


   ***


 夕暮れが訪れた。


 簡単でいいよ、と兄が言ったので、本当に簡単にパスタを作った。愛知県民ならご存知の、あんかけスパだ。


 スプーンをパスタ食べる時に使うのってアメリカ人の勘違いが元らしいよ、と兄が言った。


 勘違いでも食べやすいから私は使います、とヒカルが言った。


 俺はそれを聞いた後にスプーンを使うのは、なんだか負けたような気がするので、フォークだけで食べた。でも、あとで「あん」が残ってもったいなかったので結局使った。


「はー、美味かった美味かった」


 兄が言う通り、なかなか美味に仕上がったパスタのおかげで、穏やかな空気が部屋に満ちる。満腹感と暖かな大気もそれを助けたのだろう。


 無理に喋らなくてもいいこの空間に、俺は体が溶けるような思いがした。このまま時間が止まってしまえばいい、と。


 しかし、そうもいかないということは分かっていた。永遠にこの生活が成立するわけではないことくらい、俺にも分かっていた。いつかは障害年金以外の収入源を確保しなければならない。


 だからこそ、ヒカルがバイトの件を蒸し返すかどうか迷っているのが見て取れた。しばらく、ヒカルの目線が求人誌の在り処を探っていたが、結局口を閉ざしたままだった。心地よい沈黙をぶち壊さないレベルには空気が読めて、俺は安堵した。


 兄が寝転ぶと、ヒカルもそれにならった。


 俺は食器を洗ってから混じろうと思っていたが、ドアチャイムが鳴ってそのまま玄関へ。


「田舎から大量に送られてきたんで」


 りんごがやってきた。いや、りんごをいただいた。


「うさぎ型で」


 いつの間にか後ろにいたヒカルのリクエストに、はいはい、と俺は応えた。


 兄は凄まじい早さで寝ていた。


 あ、お兄さん来てるんですね、とリョウスケ君。


 定期的な視察でね、と俺。


 上がってく? とヒカル。


 あ、はい、とリョウスケ君。


 俺はりんごの皮をむきむき、話をした。その前に、ヒカルが皮むきをしたがったが完全拒否。手を滑らせて流血沙汰になるのが関の山だ。


 一般人からしたら分からないレベルのふくれっ面をして、ヒカルは煙草に火を点けようとする。


 そこでヒカルが何かに気付いて、マッチを擦る手を止めて視線をやると、リョウスケ君は「俺も吸いますから」と尻ポケットから煙草を取り出した。


 オレンジ色のソフトパッケージ、エコーだった。渋めのチョイスに俺はやや驚いた。


   ***


 とっぷりと夜に染まった空に対抗して、電灯を点けると、反射的に目覚めた兄は、りんごを食べ損ねたことに気付き、大げさに嘆いた。


 まだあるから丸かじりしろよ、と丸々一個渡すと、大げさに喜んだ。


 感情表現が豊かで、兄は色々と分かりやすかった。だから信用されやすいし、交友関係も広がるのだろう。嘘が上手くつけない性質で、たとえ嘘だとバレてもそれが許される愛嬌があった。俺はそれが……羨ましかった。


 いつものパン屋でフランスパンを買おうと思って、俺は帰宅する兄を駅まで送ることにした。ヒカルは、観たい番組があるから、と部屋に残った。


 薄情なヤツめ、とは思わなかった。玄関口で手を振り見送ってくれたぐらいで、ちょうどいい。


 兄は、俺と二人になると、よく思い出話をした。


 それが、未来の話をして俺に不安感を与えないようにしているのだと気付くことができたのは、最近のことだった。その気遣いがなんだかもどかしくて、俺は口をもごもごさせた。


 嘘はつけないくせに、どうしてこうして自然に喋れるのだろう。これこそが兄の人徳を表しているようだった。


 駅に行く前にパン屋でカレーパンを二個とフランスパンを買った。カレーパンは俺たちの好物だった。外で待っていた兄に一個渡して、二人で頬張る。非常に、美味かった。


 改札前で俺たちは完璧に同時に片手を上げて、視線を切ってから別れた。兄はにっこりと笑っていた。俺も笑ったつもりだが、少しはにかんだ、妙な表情をしていた気がした。


 なんてことだ、気持ち悪い。もっと快活に笑えたらよかったのに。


「ゆっくり話せた?」


 帰宅するとヒカルがそれとはなしに訊いてくる。


 俺はここでようやく、ヒカルが気を遣ってくれたのだと気付いた。こちらに振り向くことなく、どうだった、と続けるヒカルに俺は、おう、とだけ応えた。


 するとヒカルはこちらを振り仰ぎ、少しだけ口の端を上げた。それがヒカルにとっての笑顔だと受け取って、俺はもう一つ、おう、と言った。


 少しして、ヒカルの分のカレーパンを買い忘れたことに気付いて、謝った。


 肩口を小さな拳で殴られた。


 まるで破壊力は違ったが、兄の痛烈なパンチを思い出して、思わず笑ってしまった。

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