シーシュポスの神話
そして、いよいよ今日は出発の日—。
荷物は昨日までに何度となく確認した。
父は仕事で忙しくて見送りには来れなかった。
出発ロビーで一人で通関手続きなどしながら、僕は一人前の大人のような気分になった。
一人で通関手続きをすることがなぜかとても充実感のあることのように思えた。
飛行機に乗り込むと緊張感で胸は高鳴り、膝がガクガクした。
そんな僕に隣りに腰をかけていたおじいさんが話しかけてきた。
張り詰めていた緊張がにわかにほぐれる…。
おじいさんは長年の夢のヨーロッパ旅行を実行するんだととても嬉しそうだった。
飛行機が出発した後、9時間後にはロンドンに着いた。
「グッドラック!」
ちょっとカッコつけておじいさんに手をふった後、飛行場のロビーへと向かった。
その日は予約してあったロンドンのホテルで一泊した。
ロンドンは僕がまだ幼かった頃に家族で旅行したことがある場所だ。
久しぶりのロンドンは子どもの頃見たロンドンとは違って見えた。
ロンドンの街が変わったのか…、僕自身が成長したのか…。
それとも記憶が朧ろすぎるのか…。
そんなことを思いながら、ロンドンの街での遠い昔の懐かしい思い出が脳裏を駆け巡った。
父と母に手をひかれて歩いたロンドンの街並み。
ハイドパークでの楽しいハイキングの思い出。
ロンドンZOOの広大さに目を見張った幼い日の僕。
側にはいつでも父と母の姿があって優しく僕を見守ってくれていた。
でも、今日は一人…。
ふと寂しい気持ちに襲われた。
やっと実現した一人旅なのに…。
翌日、ギリシャのアテネ経由でサントリーニ島へと向かった。
アテネへと向かう飛行機では運良く窓際の席だった。
アテネが近付くにつれて紺碧のエーゲ海に浮かぶ無数の島々が目を覆った。
目下に広がる美しい島々に僕はまるで夢の世界へと引き込まれるようにギリシャ神話の神々や英雄達の伝説に思いを馳せた。
空の上から島々を眺めながら伝説の神々の心境を思い浮かべてみた。
古代ギリシャ人はこよなくギリシャの自然が生み出す景観を愛した故に美しい伝説を生み出したに違いない…。
アテネでは残念ながら観光する間もなく、サントリーニ行きの飛行機へと乗り継いだ。
言葉もよくわからない異国の地での飛行機の乗り継ぎがこの一人旅の一番の難関と僕は考えていた。
ガイドブックと看板の表示を便りになんとか乗り継ぎすることができたが、飛行機の中でたったひとりぼっちの寂しさに急に襲われた。
機内はいろいろな国の言葉でまるで異次元空間のよう…。
日本人らしき人は一人も見当たらない…。
異国の地で通り過ぎる人々の表情は優しくもあり、いぶかしげにも感じた。
僕はポケットの中の父からもらった世界地図を握り締め心を奮い立たせた。
飛行機に乗り込めば、黙っていてもサントリーニ島へ着く。
何も恐れることはない。
そう自分自身に言い聞かせた。
父に貰った地図をじっと見つめていたら、父が昔、話してくれた心温まる出会いの話が思い浮かんで気持ちが少しほぐれた。
—飛行機の中の人たちも旅の仲間さ……そういえば、よく見ると皆とても楽しそうに語り合っている—。
僕の気分は少しずつ楽しく浮き浮きしてきた。
—もうすぐ宝物を見つけることができるんだ!僕の夢が叶うんだ!
窓の外は夜空が広がっていた。
外の景色を眺めながら、僕はいつからかうつらうつらしていた。
辺りの気配にはっとするとサントリーニ島へと到着していた。
サントリーニ島に到着すると予約してあったホテルにすぐに向かった。
食事を済ませると緊張から解き放たれたのか、ホテルのベッドで僕はぐっすり眠り込んでしまった。
そのまま僕はなぜか夢の中でうなされていた。
宝物は探しても探しても見つからず、母の声が何度かこだました。
—宝物が見つからなくてもがっかりしないようにね…—。
僕はなんのためにここへ来たんだろう。
宝物も見つからず、異国の地で一人何を探しにきたんだろう。
そんな思いにうなされながら、はっと目覚めると爽やかな朝日が窓から差し込んでいた。
窓を開けると青く美しい海が見渡せ、さっきまでのうっとうしい気分を一新した。
例え宝物が見つからなくても、この美しいエーゲ海を見れただけでも僕にとっては貴重な経験なんだ。
僕は自分にそう言い聞かせると気持ちも新たに宝物探しの道しるべとなるイオという街へと向かった。
サントリーニ島での滞在期間は2日間、時間はあまりなかった。
父の話によると、フィラからイオに向かう丁度中間地点に大きな岩があり、そこを覗き込めば宝物が見つかるらしい…。
フィラからイオへの道のりは3時間程度かかるそうだ。
僕ははやる気持ちに掻きたてられつつ崖下の美しいエーゲ海を見渡しながら、のんびり歩き続けた。
車通りもほとんどなく、歩きながらギリシャ神話の勇者にでもなったような気分だった。
1時間ほど歩くと大きな岩が聳えたっているのが見えてきた。
あの岩を覗き込めば宝物があるのか…。
そよ吹く風の音だけが辺りを覆っていた。
神聖なものにでも近付くようにドキドキしながら、その岩へと僕は近付いていった。
大きな岩の周りには何も見当たらなかった。宝物はやはり見つからないのか…。
そういえば、父は隠してきたと言ってたし…。
僕は岩の付近を探し回り、ふと崖の方を覗きこんだ。
崖下には紺碧のエーゲ海の大海原が広がっている—。僕は思わず身震いした。
父は隠したって言ってたけど、このエーゲ海に何か落としたのかな?
もし、そうだとしたら、探しようもないことだ。
思わず僕はそう自分自身に言い聞かせた。
宝物を見つけるのを諦めた僕はそこから追い立てられたような気分になって少しムカムカしながらイアへと向かう道を急いだ。
イアにはそこから1時間ほどで着いた。
いささか興奮気味に小走りになっていたせいか、昼頃にはイアに着いていた。
イアの街はフィラに比べると幾分のどかな感じがした。
青いドーム型の屋根を頂いた白壁の家々が立ち並ぶ街並は異国情緒に溢れていて美しかった。
道沿いにはカフェやブティックが並んでいた。
カフェでくつろぎながら昼食をゆっくりととった後は街中を気持ちもそぞろにぶらぶらと歩きまわった。
街外れには岬があり、そこから夕陽を眺めることに決めた。
最終便のバスを確認した後、夕闇を待ちながら、美しい夕陽を想像し、街行く人たちをぼんやりと眺めた。
自分がこの地にいるのが不思議に思えた瞬間ふっと心の中で時間が止まる。
父はこの地に立って何を考えたのだろう…。
一瞬のタイムスリップ—若かりき日の父の姿はギリシャに再び訪れた感動に浸っている。懐かしそうに街行く人々を見つめている—。
そしてなぜか不意に浮かんだのは父のそばで夕陽が沈むのを見ている母の姿だった。
僕もこの地に来たよ……そんなことを一人呟いてみる。
ふと辺りを見渡すと白壁がにわかにピンク色に染まりはじめ、幻想的な雰囲気に街並は包まれ始めた。
僕はおもむろに岬に向かった。
人々が美しい夕陽を一目見ようと集まっている。
そんな中には毎日のように夕陽を見つめている人もいるかもしれない…。
人々の思いは夕陽へと集中し、しーんと静まりかえっている。
輝くばかりに赤い夕陽が紺碧のエーゲ海に沈もうとしている。
キールからワインレッドにうつろい行くエーゲ海の美しさはたとえようもなく、僕はただただ目を見張った。
歓声とため息の入り雑じった声の響きで辺りはにわかに騒然とする。
美しい光景に皆の心がひとつになっていく瞬間—。
異国の地で言葉も交わせない人々と目と目で感動を分かち合う。
人として地球に生まれた喜びを感じるひととき—。
昔この地で同じように夕陽を見つめた父と母と心が通じたような錯覚に包まれ涙が頬をつたった。
夕陽は人々の数々の思いを抱えて沈んでいく。
毎日毎日、繰り返す日常にはたくさんの物語が隠されている。
夕陽を見た者は誰もがその美しさに魅了され、陶酔した日があっただろう。
異国の地で見知らぬ人々とともに味わう感動は不思議な仲間意識を生み出す…。
美しさに浸る心の一体感は時間を超え、人種を超え、地球に生きることの喜びを感じさせてくれた。
父と母が僕の心の中に刻んだ素晴らしい宝物。
父と母により地球に生を受けたことの喜び。
しばらくじっとその場にたたずんで僕は感動に浸った。
しばらくするといっときも早くこの感動を伝えたい一心で胸がいっぱいになった。
ふと見渡すと辺りは夜に包まれ、美しい星空が僕を見下ろしていた。
しばらくその余韻に浸った後、僕はバスでフィラの宿泊先のホテルに戻った。
その日はあまりの感動に寝つかれないように思えたけれど、いつしか優しい眠りに包まれていた。
清々しい朝日を感じて目覚めると、昨日の感動が沸き上がってきて気分は爽快だった。
僕は念のため宿泊先のホテルのドアマンにフィラからイオに向かう道の途中の大きな岩の辺りに何か仕掛けはないか英語で聞いてみた。
するとドアマンは答えた。
「仕掛けは特にないと思いますが、シーシュポスの神話なら古くからギリシャ神話の中にあります」
「シーシュポスの神話?」
「はい。この物語です。ここにきた記念にどうぞ」
ドアマンは英語で書かれた物語のチラシをくれた。
—もしかしたら、父が隠した宝物ってシーシュポスの神話のことかな?
そう思ったら、僕はもう一度、あの大岩を見に行きたくなって、再びイアへと向かう道沿を歩いた。
今夜の便でサントリーニ島を発たなければならない。
その前にもう一度あの場所に立ってみよう—。
昨日の感動の余波が崖下のエーゲ海からの心地よい風を感じさせた。
気分が落ち着いてきたせいか歩む道は優しい光を浴びているように感じられた。
時折、海辺で子供達が遊ぶ姿が見受けられた。
やがて、昨日見たばかりの大岩が神々しいほどに太陽の光を受けて光って見えた。
父が訪れたその場所に母も訪れたような気がした—。
—家に帰ったら、お父さんに聞いてみよう—。
そう思いながら、紺碧のエーゲ海を見渡した。
優しい風に包まれながら、父と母がそばで見守ってくれているような錯覚に包まれ、僕の胸はいっぱいになった。
僕は急いでフィラの宿泊先のホテルに戻ると帰り支度をし、帰国の途についた。
帰国後はまっすぐ家に帰った。
家に帰った後、自分の部屋のベッドに寝転がっていると父が家に帰ってきたらしく、ドアを開け閉めする音が聞こえてきた。
僕がベッドから飛び起きて居間に行くと、父は僕を見て言った。
「おかえり。一人旅はどうだった?」
「スケジュール通り行ってこれたよ」
「宝物は見つかった?」
「このチラシを見つけてきた。ギリシャ神話の中にあるシーシュポスの神話。サントリーニ島で泊まったホテルのドアマンにもらったんだ」
「そうか。宝物が見つかってよかったな」
「ところでさ、サントリーニ島へはお母さんも行ったことあるんだよね?」
「もちろん。サントリーニ島でお父さんとお母さんは結婚式を挙げたんだ。だから、ほんとうはお母さんは三人でもう一度サントリーニ島へ行きたかったんだよ」
「そっか…。それなのに僕は一人旅に行きたいなんて言ったから、お母さんを悲しませたかもしれないね」
「三人での思い出はロンドンにあるからきっと大丈夫だよ」
「そうだね。サントリーニ島で一人で夕陽を見た時もお父さんとお母さんと一緒に見ている気分になった」
「…お父さんも今頃はきっとお前がサントリーニ島の夕陽を見ているだろうなって思ってたんだ」
僕の脳裏にエーゲ海に沈んでゆく夕陽がそっと浮かんだ。
「ところで、アルベール・カミュが記した『シーシュポスの神話』って本が本棚にあるから読んでみるといいよ」
「そうか。宝物は本棚にもあったんだね」
「そう。だけど、その真価をどこまで理解できるかはお前次第だ」
「『シーシュポスの神話』、探して読んでみるよ」
「まっ、あまり難しく考えなくてもいいけど、読んでみれば、お前なりにわかることがあると思う。頑張れよ」
—そして、僕は本棚にあったアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』をページを開いた。
その難しい本を読み終えた時、思ったのは母のことだった。
心臓が弱かった母はいつでも死の不安を抱えていたのだろうか—。
今頃になってそんな思いに囚われた—。
母が亡くなったばかりの頃は悲しすぎて考えなかったことを考えた。
母が残してくれた日記には記されていなかった母の気持ちについて思いを巡らせた。
母が死の瞬間に思ったのは父と僕のことに違いなく、そして母の魂は今なお僕の心の中で生きている—。
僕が生きる限り—。
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