宵の桜のささやく時

夏野梢

宵の桜のささやく時


     序



     *   *   *


 覚えているのは、ひとつの声。

「おやめなさい」

 水底みなぞこの泥を震わせるような、やわらかくて深い声。忙しない山鳥や、四つ足の獣たちの鳴き声とは似ていない。

 ただ、その声を聞くと、枝葉の合間から差し込む日の光を思い出した。

 そんな──人間の、男の、声。


     *   *   *



 庭の片隅で、老爺ろうやが振り返った。

 腕を振り上げた格好で制止している。手の中では大ぶりの鉈が鈍く光っていた。

「おやめなさいよ。良い桜ではないですか。ってはもったいない」

 もう一度そう言って夕闇の中に現れたのは、隣家の主人だった。着流した浴衣の、懐に入れていた手を出し、庭境の木戸を押し開けて入ってくる。穏やかな目が、老爺の前に仮植えされた一本の桜へと向いていた。

「処分せよとのお達しだ」

 向き直った老爺が吐息して、なたの背で樹木の幹を軽く叩いた。振動で揺れた葉が、抗議をするような耳障りな音をたてた。それを黙らせるように、「この木のせいでせがれは死んだ」と低く唸る。

 その傍らまで来た隣家の主人が、ゆるく首を振った。

「ご子息は、禁足地きんそくちに踏み入ってしまったんだ。あの山のものをると、不吉なことが起こる。古い言い伝えだが、莫迦ばかにできない。厄をもらってしまったんですよ」

「だから災厄のもとを伐ってやるのさ」

 再び鉈を握り直した老爺に、隣家の主人がまたしても首を振った。

「厄のもとは、我ら人だ。山のせいじゃあない」

「そんなこと言ったってね」

「置いておけないですか。うまく育てば春が楽しみになりますよ」

「冗談じゃねえ。ご命令に背いたらわしらも生きてはいけねえよ」

「ならば処分したことにして、こっそりうちが引き取りましょうか」

 事もなく言う隣家の主人を、老爺は無言で睨んだ。もはや夜の闇が辺りに溶けて、表情はおろか、顔の造作もよくわからなくなってきている。

「処分なんて可愛そうだ」

 良い声音でなさけを口にするのに、老爺の鼻が鳴った。

「……勝手にせえ」

 ぶっきらぼうに答えると、闇の向こうから、男──森野もりの清左ヱ門せいざえもんが笑う気配だけが伝わってきた。



     一、



 森野清二せいじは駆けていた。

 時は三月の晦日みそか。春の宵。所は宮上新町みやかみしんまち、境川へと続く路地の一角である。

 背後では追っ手の怒号が遠く聞こえていた。一つではない。清二は怒号をかき消すように、居酒屋の裏口に置かれていた芥箱ごみばこをわざと蹴った。派手な音をたてて生ゴミが裏路地に散乱する。ついでに、そこらへんに立て掛けてあった用途のわからない竿さお梯子はしごを倒して背後の道を塞ぐ。

 気休めにしかならないことはわかっていた。

 けれど、何としてでも境川に辿り着かなければならない。そこまで行けば、助かるかもしれない。そう信じていた。

 脳裏には、よいの薄闇に広がる淡紅色たんこうしょくの並木道が浮かんでいる。

 もうじき、行く手に同じ光景が現れるであろうことを、清二は予感していた。



 森野清二と綿部郁子わたべいくこが出会ったのは、昨年のやはり三月の下旬の頃だった。

 例年よりも陽気が良く、月の半ばを過ぎて早々に満開となった桜の、花見に訪れた時のことである。

 清二が行くのは、決まって境川の土手の桜並木だった。住まいから一番近いこともあって、幼い頃から家族や友だちとやって来ては、小さな宴会をするのが春の恒例になっていた。その年も、両親と兄夫婦と共に河原へござを敷いて楽しんでいた清二だったが、酔いの回った父が、またぞろ古い話の弁舌を振るう気配を察して、一人抜け出した。

 甘酒を手にそっと腰を上げた際、清二は兄と目が合った。五つ年上の清司郎せいしろうは一昨年に結婚をして家を継いでいる。しがない農家ではあるが、家長が父から兄に変わると清二は何となく肩身が狭くなった気がした。兄嫁は現在身重で、秋にはもう一人家族が増える。男子ならば次代の跡取りになるだろう。そう考えると、さらに肩身が狭くなる感じがして、最近あまり顔を合わせないようにしている。

 その時も、清司郎が何か言いたそうな表情をしたのを、気がつかなかったふりをして清二は場を後にした。

 休日ということもあって、桜並木は人で溢れていた。

 普段は、つがいの軽鴨カルガモが散歩をしているぐらいしか見所のない寂しい境川は、この季節ばかりは目一杯に華やぐ。折りに触れてこの場所を訪れることの多い清二は、いつもの静かな雰囲気を好んでいたが、これはこれで良いものだと思った。

 何より、一斉に咲き誇った桜が美しい。

 この、振り仰ぐ者に向かって枝ごと迫ってくる見事な桜花を前にすると、ささやかな悩みなど忘れてしまう。ただ目を開いて、息を吸い、体の中に入る花の香りに陶然として、意識のすべてを花に向けて吐息する。頭の中が花で満たされていくのを感じる。この感覚の何と幸せなことか。

 清二の足は、川に沿って蛇行する道の北側、橋から一番遠い位置に向かった。

 奥に、ひときわ人々が集まっている箇所がある。皆に囲まれているのは、この並木の母でありぬしである江戸彼岸桜エドヒガンザクラの大樹だった。

 うねうねと、まるで人間の腕や節くれ立った指のように伸びる枝ぶりと、重厚感のある黒い幹。その上にこぼれかかる無数の白い花は、毎年のことながら圧巻の数である。

 人が多いのでやや遠巻きに足を止めて、清二は大樹を眺めた。右手にした甘酒を口に運ぶ。ぬるくなった重い液体が、今頃は母や兄嫁を相手に繰り広げられているであろう、父の話を清二に思い出させた。

 父の自慢話の一つには、この桜の大樹にまつわるものがある。

 百数十年前、株が大きくなったことを理由に境川に移されてきたこの桜は、以前は何と、清二たちの先祖が住んでいた森野家の庭に根を下ろしていたというのだ。

 真偽のほどは定かではない。その話を書き記した物は何も残されていない。

 ただ、森野の家族間では次のような話が口伝されていた。

 曰く、境川の江戸彼岸桜は森野家の屋敷神やしきがみである。よって粗末に扱うことを禁ずる。とくに桜が満開の時にその下で凶事まがごとを起こしてはならない。禁を破れば、桜の神性しんせいけがれて厄が出る。禁を守れば、たとえ森野の土地を離れても桜は当家守護の吉兆のしるしであり続けるだろう──と。

 清二もまた幼い頃に話を聞かされ、以来この並木道は誇らしさと慕わしさを覚える遊び場になった。なぜかここに来ると、悩み事を忘れられたり、いじめっ子から逃れられたりすることがあり、清二は無垢にそれが桜の大樹のおかげだと信じていた。その気持ちは今でも変わっていない。

 だからこそ父には、この話を軽々しく喋ってほしくはなかった。だが脛齧すねかじりの身で父に意見することなどできず、酒を飲むと多弁になる癖を察して、話が始まる前に逃げているのが現状である。

 青い空に薄雲がたなびいていた。清二は鬱屈した想いを抑え、甘酒の杯を桜に掲げた。満開を祝うように。

 ざあ、と風が吹いた。

 花弁が舞い上がった。大樹が笑い返してくれたと清二は思った。その時だった。

 不意の風に短い悲鳴がして振り向くと、乱れた髪を押さえた女性がすぐ目の前にいた。髪で視界が塞がれていたのだろう、彼女は清二には気づかず、そのままたたらを踏むように前によろめいた。片手に清二と同じく甘酒の杯を持っていた。まだ中身がたっぷり残っている。倒れかかってくる彼女を、咄嗟に清二は受け止めた。勢いがついていたおかげで、彼女の甘酒が清二の白いシャツに跳ねた。同時に、清二の持っていた杯が滑り落ち、彼女の紺地のスカートを濡らしながら地面で割れた。

「ごめんなさい!」

「申し訳ない!」

 二人一緒に口にしたのは謝罪の言葉だった。

 それからお互いの顔を見て、少し慌てる。瑞々みずみずしい頬を真っ赤にしてうつむいた彼女を前に、清二は動悸が上がるのを自覚した。若い女性と言葉を交わすなど、ついぞないことだった。

「ケガはありませんでしたか?」

 ええ──。

 清二の問いかけに、彼女はスカートを押さえながら恥ずかしそうに頷いた。

 それが綿部郁子だった。

 まるで、桜が紹介してくれたかのような郁子との出会いに、清二は感銘を受けた。気がつけば、坂を転げ落ちる小石のように、彼女にのめり込んでいった。



     二、



 綿部郁子は、旧家の一人娘だった。

 世間に疎い清二でも、古くは城持ちであったという大地主の名前は知っていた。最近では紡績ぼうせき工場なども営んでおり、羽振りがすこぶる良いと有名な綿部家である。ただ、当主の社長はまだ独身ひとりみだと聞いていたので、郁子の話には驚いた。

 聞けば、郁子は綿部氏が使用人に手を付けて生まれた子供だという。身ごもってから勤めをやめた母親は、実家で郁子を出産した。その後、しばらく父親のことは伏せて二人で生活していたが、次第に金銭的に苦しくなり、母親は綿部氏に養育費を打診した。そこで娘の存在を初めて知った氏は、郁子を引き取って綿部家で育てることにしたのだそうだ。郁子が七歳の時である。それから今に至るまで十二年間、名目は氏の姪として過ごしている──そう彼女は打ち明けた。三度目の逢瀬の時であった。

 話し終えると、郁子はふっと力が抜けたように笑った。

「よかった」

 肩口で切りそろえられた黒髪が、動かした小首にかかる。明かりを落とした室内には、カーテン越しに街灯の光が青白く差し込んでいる。少しカビ臭い布団の上で、郁子のむき出しの丸い肩が粟立っていた。清二は彼女を巻いた毛布ごと抱き寄せて「何がだい?」と尋ねながら、寂れた宿にしか泊まる金のない自分を情けなく思った。

 ここで聞く郁子の身の上話は、立場の差が大きくて、いっそおとぎ話のようだった。

「早く言ってしまいたかったの。清二さんには私のことを全部知って欲しかった。隠し事は嫌だったから」

 微笑む郁子は、不思議と安っぽい部屋の風景に溶け込んだ。生まれのせいと言っては怒られるかもしれないが、旧家の者に特有の鼻の高さを感じさせない、親しみやすい仕草が魅力だった。

「私と、また会ってくれますか……?」

 やや窺うような調子で言った郁子に、清二は彼女がまだ女子高等師範学校生じょしこうとうしはんがっこうせいであったことに思い至る。罪悪感に胸が痛んだ。自分が女学生と深い間柄になるとは、以前なら想像もしなかったことだった。

 綿部氏に知れたら、ただでは済まないだろう。

 けれど清二は「もちろんだよ」と即答する以外の術を持たなかった。

 軽い気持ちで恋人になったのではない。今さら止められるものではない。きっと──大丈夫だ。自分たちには桜の加護がついているのだから。

 その願いを抱いて、この日も清二と郁子は別れ際にいつもの約束を口にした。

「じゃあまた、あの桜のところに」



 清二と郁子の連絡方法は、とても古典的だった。

 清二は兄に、郁子は父親にお互いの存在を隠していたので、人目につくところで会うのは避けたかった。そのため、二人は待ち合わせの日時と場所を毎回変えた。そこで頻繁に交わす連絡を、結びふみにして境川のあの桜の大樹に託したのである。

 一筆箋いっぴつせんに次の日時と場所を書き、細長く畳んでから大樹の枝に結ぶ。無数にある枝の中で清二が指定したのは、幹の裏側に伸びている節くれ立った枝の先だった。ここならば何か作業していても、桜の太い幹に隠れて土手の表からは見えにくいし、枝が極めて長いので女性の郁子でも手が届く。ちょうど、枝の形が人間の腕のように見える角度でもあることから、清二は桜に仲介してもらっている気分でいた。

「今回も頼むよ」

 いつもの枝に文を結んで囁くと、そよ風に揺れて青い葉がさざめいた。

 すでに花の季節は終わり、初夏の日差しが川端に降り注いでいる。春は花見客で盛況だった桜並木も、花弁が散って若葉が芽吹くにつれて静けさを取り戻した。今日も並木道に訪れる散策客は清二だけである。

 用が済み、桜の幹の裏から出てきた清二は、そこで何気なく振り返って、はたと体の動きを止めた。視界の端で、桜の枝が揺れている。その下に人影があった。

 ああ……

 顔をわずかに動かして視界を変えると、常磐色ときわいろの振袖が見えた。

 太く曲がった大樹の幹の向こう側に、女が一人立っている。

 そこは清二が文を結んでいた位置で、今の今まで誰もいなかった場所だったが、いつの間にかその女は現れ出でて、佇んでいた。

 首をかすかに傾げている。横向きに、袖の袂にある桜吹雪の柄をこちら側に披露しているようでもあった。

 その女を、正面から見ようとしても無駄なことは、清二はよく知っている。

 子供の頃から姿を見かけるたびに、何度も挑戦しては失敗していた。だから顔は見たことがない。いつも、チラリとしか人型を捉えられない。でも、折りに触れてその振袖の女は桜の下に現れた。清二は度々その姿を目撃していた。

 女が何者かはわからない。ただ、人間ではあるまいと思う。

 この桜の女については、森野家でも見解が分かれる代物だった。兄の清司郎の反応は鈍く、一度も見たことがないという。父や、五年前に亡くなった祖父も見ていない。けれども、気配は感じたことがあるらしい。白粉おしろいに似た匂いを嗅いだことがあると言ったのは父だったろうか。

 清二は、じっと佇んだまま動かない女の影から目を外して、天を仰いだ。午後の木漏れ日の中、緑に覆われた桜の枝が、黒々として見えた。四方に伸びている様子は、人間の腕に酷似している。先ほど文を結んだ時よりも生々しく、風の一吹きごとにうごめいて形を変えている。腕の先には手があり、今はもう花が終わってしまったが、春だったら、きっと花弁が人間の爪のように見えたことだろう。

 女が現れる時、大樹そのものも人間に似た形を幻視させる。

 この二つの出来事はいつも同時に起こった。そしてそれをつぶさに目撃できる森野家の者は、今のところ清二だけだった。子供の頃はその現象を怖ろしく思ったが、何度も繰り返しているうちに慣れてしまった。境川にある桜の大樹を清二が特別視し、父の話を信じている根拠が、この現象であることは言うまでもない。

 女は何もしない。

 ただ立っている。

 清二は視線は向けないまま、格好だけで会釈をして、その場を後にした。



 その日から、郁子への結び文の際に、しばしば振袖の女を見かけることがあった。

 夏が過ぎ、葉の色づく秋を向かえ、やがてそれが落ちて寒い冬が来て、再び春の息吹が漂い始めた頃、不意に変化は訪れた。

 最近、結び文の返事が遅れがちになっていた郁子が、待ち合わせの場所に最後までやって来なかったのである。



     三、



 待ちぼうけをくった翌日、清二は再び結びふみをした。

 さらにその次の日も桜の大樹に行くと、昨日の結び文はなくなっていた。郁子が持っていったのだろう。それはいいのだが、少し前までは中身を読んだその時に返事の文を書いて結んでくれていたものが、今はなかった。

 また遅れているのだ。

 前回会った時に、理由を郁子に問いただしたところ、あの場所で返事を書くと何だか桜に見られているようで恥ずかしいとか、学校が忙しいので予定を確認してから返事をするためだとか、とりとめのないことを言っていた。その時は、何となく納得していたが、一昨日のすっぽかしが、清二の心に不安を湧かせていた。

 帰りしなに桜を振り返ると、太い幹の影に振袖の女が居た。

 緋色の袖に桜吹雪の模様が散っている。女がじっと見上げる桜の枝は人間の腕のような節を作って空を覆い、三月の川風に無数の蕾を揺らしていた。蕾はまるで、軽く握った嬰児えいじの拳のようだ。もうすぐ開きそうであった。



 郁子からの返事がないまま、とうとう次の待ち合わせの日時になった。

 指定した森林公園のベンチに座っていた清二は、今日も約束の時間になっても姿を現さない恋人を思い、溜め息をついた。もしかしたら、体を壊して伏せっているのかもしれない。そう考えてはみるものの、ならば結び文を持っていった時は大丈夫だったのかと次の疑問が浮かび、悶々と頭を抱えた。

 その男が公園に現れた時、清二はうつむいて考えにふけっていた。足下の木漏れ日が何者かの影に遮られ、顔を上げて初めて彼に気がつく。目の前に立っていたのは、黒いシャツに黒いズボンの、小柄な壮年の男であった。

「森野清二さんですね」

 男はハザマと名乗った。清二が頷くのを待って、痩けた頬に愛想笑いを貼り付けた。そうして、懐から茶色い封筒を出して清二の前に差し出した。曰く、「綿部社長からです」中身は一円札だという。

 驚いて動けずにいる清二に、ハザマは細い目をさらに糸のように細めて、封筒を清二の隣の空いたベンチの上に置いた。

「理由はおわかりですね?」

「……郁子は」

「お嬢様はここには来られません。お遊びが過ぎたのが旦那様に知れて、学校も先日退学いたしました」

「そんな」

「今は信濃のご親戚の家に預けられておいでです。一週間ほど前のことです」

 では、前回の待ち合わせの時にはもう、彼女はこの地を離れていたのだ。会えるはずがなかった。ということは──。

「あの結び文は誰が」

 虚ろに尋ねる清二に、答えは明確にハザマが用意した。先ほど、封筒を取り出した時と同じ動きで、懐から見覚えのある一筆箋を出して見せる。

「結ぶ木と枝の場所は、お嬢様に教えていただきました」

「……無理に聞き出したんだろう」

「存外すんなり話してくれましたよ。お嬢様はあそこの桜があまり好きではないようで、一人で文を読んでいると怖いとおっしゃってましたが」

「嘘をつけ!」

 桜の大樹は二人の仲人のようなもの。郁子が嫌がるはずがない。そう信じる清二はハザマの言葉を切り捨て、猛然とベンチを立った。ハザマの手から一筆箋を引ったくる。他人に自分たちの艶書えんしょを読まれたことで、羞恥と暗転の感情がない交ぜになっていた。ぐしゃりと手の内で紙を握りつぶすのと同時に、己の心もつぶれる気がした。

「お嬢様のことはお忘れください。あなたは放っておいても良かったのですが、いない相手を捜し回られても迷惑なので、伝えに来た次第です。無論、綿部家との関係は口外無用に願います。そのための旦那様の寛大な取り計らいです」

「寛大な? 自分だって、使用人との間に郁子をもうけたじゃないか」

 清二は頭に血を上らせたまま、せせら笑った。口元が引きつってうまくいかない。対するハザマの愛想笑いは崩れなかった。

「その点も含めての口外無用です。当家にもいろいろあるので。よろしいですかな?」

 有無を言わせぬ口調だった。そのため、清二が絞り出すような声で「……いやだ」と応えるのには、相当な力がった。

「ぼくたちは本気だ。こんな一方的な別れ方があるか。綿部さんと郁子に話をさせてくれ」

 短い沈黙があった。

 砂利を噛む靴音がして、清二が目を向けると、いつの間にかベンチの周囲に三人の男が現れていた。いずれも黒いシャツと黒いズボン姿だった。

「わかってないようだね」

 思わず身を固くした清二の前で、ハザマが慇懃さを減らした声を出した。張り付いていた愛想笑いが、波が引くように消えていく。

「我々は、君を捕まえて然るべきところに差し出すこともできるんだよ。それを見逃して金まで渡して手打ちを頼んでいるのを、君は無下にするのかね?」

「脅しているの間違いだろうが」

 精一杯、虚勢を張って清二は言い返した。日頃、争いごととは無縁の生活を送っているせいか、近づいてくる男たちの気配を感じるだけで膝が震えた。右側から寄せてきている中肉中背の男の手に、鈍く光るものがある。刃物だろうか。

 ハザマがふうと息をついた。ベンチの空きに置いた茶色の封筒を取り上げ、もう一度、清二の眼前へ差し出す。

「受け取りなさい。今ならまだ帰れる」

 清二の答えは変わらなかった。ハザマの手を払いのけて封筒を落とすと、踵を返してその場を後にしようとした。が、案の定、すぐそこまで迫っていた三人のうちの一人、二メートルはありそうな大男に阻まれ、腕を掴まれる。咄嗟に足で男のももを蹴った清二は、大きく腕を振るって拘束から逃れた。喧嘩慣れはしていないが、日頃、兄の手伝いで農作業をしている体は、軟弱ではない。ほとんど体当たりのようにして、二人目の小太りの男を押し退け、そのまま走りだそうとする。そこをまた、後ろから来た中背の男によって引き留められた。二の腕に焼けるような痛みが走る。見れば、上着が裂けて覗いた皮膚が真っ赤に染まっていた。やはり刃物だ。斬りつけられたのだ。

 刃渡り十センチほどの小型ナイフ。

 それを手に口元を笑ませる男を振り向いた瞬間、清二の乱れていた感情が一気に沸騰した。無我夢中で男に躍りかかった。思い切り手首に噛みつき、相手が堪らず悲鳴を上げて怯むのに乗じてナイフを奪い取る。そして、そのまま得物を反転させて、前に強く突き出した。

 何も考えてはいなかった。

 頭の中は真っ赤に染まり、心臓に合わせて全身がどくどくと脈打っていた。

 手応えはなかった。いや、異様にやわらかい衝撃だった。豆腐を箸で刺すような感触だと思ったのは、しばらく経ってからだ。その時はただ熱く、息が苦しく、一匹の獣にでもなった気分で刃を突き立てていた。

 ややあって、清二は脇腹を押さえて倒れ込む中背の男を呆然と見た。

 しかし忘我に陥ったのは一瞬のこと、反射的に身を翻す。今度は引き留める者はいなかった。公園を出る段になって、弾けるように怒号が吹き上がる様が、背後からの気配でわかった。



     四、



 手が血で濡れて生乾きになっている。

 おかげで、掴んだナイフがのりで貼ったように離れなかった。

 もうどれだけ駆けただろうか。足がそろそろ限界を訴える中、清二は走り続けた。真っ赤になった頭の中で、最初に浮かんだのは綿部郁子でも兄の清司郎でもなかった。

 ──緋色の袖に散った桜吹雪。

 ひいては、もうじき花開く寸前だった桜の大樹が、清二の脳裏を占めた。

 いつしか日が暮れる頃、前方に見えてきたのは、群青色に暮れる空を背景にして、薄く紅を伸ばした靄のような桜の並木道だった。

 咲いている。

 その事実だけを頼りに、清二は最後の力を振り絞った。



     *   *   *


 連綿と繰り返されてきた開花の時を、今年も迎える。

 茫漠とした心のうちで、なぜか昔を思った。


 生まれの山が何という名前だったのかは知らない。まだかくとした意識もないまま時を重ね、身の丈を伸ばした。暖かな空気の頃を「春」と呼ぶのだと教えてくれたのは、何度目かに咲かせた花を見に来た人間だった。

 その人は、山に多くの仲間を連れてきた。彼らと共に花を眺めていたが、春が終わると山を刈り始めた。

 無数の木がり倒された。

 この身も倒された。

 ようやっと、大きく腕を広げられるところだったのに。

 斧で胴を真っ二つにされ、年月をかけてまとまりかけていた意識もちぎれた。完全に途絶える寸前、という想いがふと湧いた。湧いてすぐに消えた。


 次に意識が芽生えた時、視点はずいぶん低かった。己の屍を苗床に、その子供として再び生まれたことを自覚したのは、数年過ぎた後だった。

 山には、いつの間にか石の垣と木の建物が出来ていた。後にこれを「城」と呼ぶのだと、そこに出入りする人間の話から学んだ。

 城には多くの人が住んでいた。山は彼らのものだった。そして時折、その城に余所よその人々がやって来て、いさかいが起こった。人間たちは人間たちを切って殺した。山で木を伐ったように。

 人の体からは赤いものが流れ、山の地面に染みこんだ。その赤い湿り気を、この身も吸った。そうして育った。

 城は次第に住む人を少なくしていき、じきに気配もなくなった。

 再び、山は山の時間を取り戻した。

 残された人間のむくろはゆっくり山に溶け、たまに迷い込んだ人がその様を見てひどく怖がった。同じ人間がしたことなのにおかしなものだった。そう思えるぐらいに、気づけば己が身は、また大きく丈を伸ばしていた。人に対して、以前よりも関心を持つようになったのは、人の体から流れた赤いものを吸い上げて己が作られたせいかもしれなかった。


 たくさんの春が過ぎた。

 ある時、ふらりと一人の人間がやって来た。

 山の木を吟味していたその人は、こちらを見て頷いた。また伐られるのかと思ったが、しばらくして、その人が連れてきた仲間が地面を掘り起こし、この身を山から引き剥がした。それきり山に帰ることはなかった。


 ──ご嫡男ちゃくなん誕生のお祝いにと。

 ──愚か者。あの落城の山は禁足地きんそくちだ。先々代からのいましめを知らぬのか。

 ──ですが、綺麗な桜なので。

 ──不吉極まりない。追って沙汰を下す。その桜も処分せよ。


 山からこの身を引き剥がした人は、やはり人に切られて死んだ。

 今度こそ、己も過去と同じように伐られるのだと思った。

 けれどそれを、あの──声が止めた。



 これまでどろりとした塊だった意識が、目が醒めたように確固な塊に変わったのは、その声を聞いた時からだと思う。

 この身を救った男の庭で過ごした時間は、日の光のようだった。つまらないとは一度も思わなかった。男は寿命で死んだが、その子供が男に似た声をしていた。それだけで十分満足した。でもその次の子供はあまり似ていなかった。でもさらにその次の子供はまた少し似ているような気がした。

 細く続いていく男の血筋は、いつどこにいても判別できた。この身が男の庭から川の縁に移された後も、花見に訪れる人々の中から一族を見分けられた。

 そういえば最近、ひどくあの男に似た声の血筋の者がいた。

 あの男が蘇ったのかと思ったほどに……。


!」


 あるいは予感があったのかもしれない。

 過去の想念そうねんを引き裂いて、「彼」の声が響き渡った瞬間、暮れなずむ空の下に幾本も伸ばした腕が思わず震えた。

 ざわりと並木道に葉がさざめく。


     *   *   *



 ようやく桜並木に駆け込んだ清二は、一度足を止めて荒い息をついた。

 すでに宵の口。群青だった空は夜のとばりに覆われ、辺りは本格的に暗くなってきている。道なりに二、三本佇む外灯の、丸くにじむ頼りない光だけが、かろうじて道と桜とを区別する手助けになっていた。

 清二は星のない夜空を仰いで、「ああ」と声を漏らした。

 今にも開きそうだった蕾が、ほぐれている。

 もう咲いているものも多く見受けられて、不意に泣きそうになった。

「助けて、くれ」

 こんなことになるとは思いもしなかったのだ。

 もう一度つぶやいて、誰もいない夜道を歩き出す。行く先は決まっていた。

 川の音と蛙の声と自分の息づかいと、そしてわずかに遠く、複数の野卑な怒号が耳に触れている。追われる者だけが感じ取れる、肌を刺すような圧迫感が背後にあった。森林公園を出て、ただ愚直に境川を目指した逃亡に、追っ手が巻かれるはずもない。もうじき黒ずくめの男たちもここへやって来るのだろう。

 その前に。

 もはや走る気力もない清二は、ほどなく辿り着いた桜大樹の偉容を見て、唇をいびつに動かした。笑ったつもりだった。

 いつも見慣れた大樹は粛々と、黒い空を背にして花を咲かせていた。この日もその姿は息を飲むほどに美しかった。夜の深い陰影が、凄惨なつやさえ感じさせた。

 清二はすがりつくように桜に歩み寄り、太い幹の裏側へ身を隠した。この場所は昼間でも暗い。きっとやり過ごせる。今までだって同じようにしてきたのだ。子供の頃、これで何度いじめっ子から逃れたか知れない。大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ……。

 遠かった怒号が近づき、いくつもの足音が乱れて迫ってきた。大きな息づかいの男たちが一人、二人──三人いる。うちの一人はハザマだ。痩せぎすの細い目が、辺りを睥睨へいげいしながら並木道を奥へと進んでくる。彼は桜の開花になど関心がないらしい。むしろ、花を見て清二たちが交わした結び文を思い出したのか、真っ直ぐ大樹に向かうと、おもむろに幹の裏を覗き込んだ。

 二つの視線がぶつかり、互いに息を詰める。

 ひと呼吸置いて、ハザマの鋭い声が飛んだ。

 命じられた残りの男たちが、大樹の裏へと殺到する。たちまち隠れていた場所から引きずり出された清二は、それでも必死で桜の木肌にしがみついた。その腕を殴られる。公園で負った二の腕の切り傷を強く掴まれて、思わず悲鳴を上げた。痛みの衝撃で、長く握りしめていたナイフが掌を離れて落ちる。ハザマがそれを拾った。

 二人がかりで桜の幹から剥がされるや否や、清二の体は有無を言わせぬ力で羽交い締めにされた。両肩を押さえ込まれ、胸が無防備に開く。そこへ──。

「野郎が!」

 甲高い叫びと共に、ハザマが体をぶつけるように突進した。

 ハザマが離れた時、ナイフは再び清二のもとに戻されていた。

 そう、胸の中心に刃を突き立てる形で。

 熱いのか冷たいのか。よくわからない悪寒が清二の全身を駆け抜けた。聴覚が急激に遠ざかり、視界が狭くなった。背後に組み付いていた男が、凶刃を確認して身を引く。軽く突き飛ばされ、支えを失って足がもつれる。踏ん張れない。

 そのまま、どう、と倒れた。

 仰臥ぎょうがした清二の視界が夜桜でいっぱいになる。川面近くまで伸びた枝葉が、大きく揺れていた。風は感じられない。にもかかわらず、揺れは大きく激しくなるばかりだった。



     五、



 佇んでいた外灯が、一瞬、明滅して消えた。

 薄暗がりの中で、倒れた森野清二の顔色が青ざめて目立っていた。

 青年の正面に回ったハザマが、止めを刺すべく身を屈めた。鯉のように口を開け閉めして、懸命に呼吸をする清二の喉に手を伸ばす。その腕が、途中で不自然に止まった。いや止められた。ハザマの感覚ではそんな見計らいの良さだった。

 違和感に顔を向けて、ハザマは自分の黒い上着の右肘に、桜の枝が引っかかっているのを見た。つい今し方まで、こんな長い枝はなかったように思う。外す手間を惜しんで腕を強く振るうと、嫌な音がして枝が折れた。

 気を取り直して顔を戻したハザマだったが、再びの違和感に眉をひそめる。見れば、次は左肘に同じような長い枝が引っかかっていた。

「何なんだ」

 こちらも再び腕を振るって枝を引きちぎろうとしたが、今度はうまくいかない。ただの木の枝のはずが、驚くほどしなって、左腕を拘束した。まるで女の細い腕のようだとハザマが思った途端、枝は本当に女の白い腕に変じた。少なくとも彼にはそう見えた。

「ひっ」

 ざあっと。

 桜の大樹が揺動ようどうした。それに呼応して、並木道の他の桜も揺動した。

 まだ三分咲きだった蕾たちが、活動写真を早回しにでもしたように次々と開いて行く。

 程なくして、夜の闇に白々とした桜花が満開になった。

 もう一度、大きな揺動が起こり、つむじ風が吹いた。強い風だった。

 満開の花弁が容赦なく煽られた。一片ひとひら、花弁が舞い上がったのを合図にして、たった今開いたばかりの花がたちまち散り始めた。

 次から次へと。目の前が霞むほど。

 無数に散りゆく花弁は、やがて嵐のような吹雪となって、ハザマやその場に居た男たちに降り注いだ。

 落ちてきた花弁が、彼らの頬や手の甲の皮膚に触れ、わずかな痛みを伴って赤い傷を作った。ぱらぱらぱらぱらぱら。地面に落ちて、花弁がはねる。見れば、それは人間の爪の形をしていた。

 息を飲んだハザマの首筋にも一条、女の爪に引っかかれたようなミミズ腫れが走る。落ちた花弁を踏んだ靴がざくりと鳴った。すでに地面は無数の花弁に覆われている。それらすべてが人間の──それも妙齢の女の鋭く伸ばした爪に見え、ハザマたちはたまらず逃げ出した。その間も、絶え間なく桜は散っている。

 硬い桜吹雪が、逃げる男たちを責め苛んだ。

 並木道の根がぶくりと盛り上がり、ズボンを引っ張って蹴躓つまづかせる。見れば、それは人間の足に似ていた。いや、足だった。女の白い太股だ。それが男たちの足にズボンごと絡みついて引き留めているのだ。

 三人分の悲鳴が上がった。

 身を起こすために掴んだ地面は、爪の花弁で満たされている。掻いても掻いても上滑りして、傷と痛みを増やすだけで立ち上がれない。花弁の海を泳ぐように移動するハザマと手下たちの体は、いつの間にか土手の端まで運ばれていた。気がついた時にはもう遅い。

 つい、と。

 節くれ立った枝のような女の手に押され、彼らは小石のように斜面を転がり落ちて行った。落ちた先は、春先のまだ冷たい夜の川であった。



 溺れゆく男たちの悲鳴が、いやに遠く聞こえた。

 すべての感覚が緩慢になってきている。

 桜の下に寝そべりながら、清二はもはや指一本さえ動かすのが億劫おっくうになっていた。ナイフの生えた胸はすでに血にまみれ、そこへ絶え間なく花弁が降り注いでいる。白い花弁が血を吸い、深紅に染まって地面に落ちていく。その花弁は先ほどまでの鋭い爪とは打って変わって、ただとろけるようにやわらかかった。

 やがて、川のほうから聞こえていた悲鳴が切れ切れになり、やんだ。

 代わりに、着物が引きずれる音がして、清二はわずかに眼球を動かした。桜吹雪の中、たおやかな手が伸びてくるのが見えた。顎先を掴まれて、そっと顔の角度を変えられる。額に絹のような髪が触れた。目を上向けると、桜色の暗がりから女の顔が現れた。

 これまで着物や体の一部しか見せなかった女の、初めて見るその顔は、なぜか懐かしい感慨を清二に抱かせた。

 誰か、何かに似ていると思った。

 幼い頃に亡くなった祖母か、近所に住んでいた初恋の婦人か、憧れの舞台女優か、それとも……もう会えなくなってしまった綿部郁子だろうか。

 何か呼びかけようと開いた清二の口に、桜の花弁が入り込んだ。

 思わず飲み込む。甘い香りと味がする。軽くむせた口に、またしても桜の花弁が入り込む。どんどん、どんどんと。歯列を割り、舌に張り付き、唇から溢れてもなお……。

 言葉も声も呼吸も、すべて桜に覆い尽くされ、清二の体は並木道に埋没していった。

 脆弱だった彼の息が、花弁に塞がれて絶える間際。

「──ようやくあなたを刈りれる」

 女の声にも似た風のささやきがひとつ、桜の大樹から笑うようにこぼれ落ちた。


 翌日。宮上新町の桜並木では、胸を刺されて絶命した森野清二と、その下の境川で溺死した男性三名の死体が発見されたという。



     終



 境川の桜並木には古い言い伝えがある。

 曰く、並木の中で凶事まがごとを起こしてはいけない。もしこの禁を破れば、流れた血が鬼をび、居合わせた人の命を奪うとされる。

 鬼は、並木道の最奥に位置する江戸彼岸桜の大樹に出没する。

 この桜は、かつては某家の守り神であったが、ある時、その家の息子がこの場所で殺されてからは、鬼が出ると恐れられるようになった。鬼は美しい羅刹女らせつにょだという。大抵は一人で現れ、大樹の下に佇んでいる。が、まれに若い羅刹が寄り添うこともある。この羅刹の顔は死んだ某家の息子に似ているとかいないとか……。

 また、彼ら夫婦鬼めおとおにの睦まじい姿が見られた年の桜は、春の宵に狂い咲きし、あっという間に散ってしまうそうである。



                       了 

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宵の桜のささやく時 夏野梢 @kozue_kaze

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