第9話 驕りと恐れと
「なぁ、ばあさんはあっちにいるのかの?」
ベンチに腰掛けながら、そう呟くのは白装束に身を包んだ老人。
目の前には全ての花弁を散らしてしまった大きな桜の木が一つ。その青々とした様はあまりに力強く、そしてどこか花を散らしてしまった後の寂しさがありました。
そんな彼の声に反応できるのは僕だけ。誰一人として彼に見向きもせずに急いで街を歩いていきます。
僕は彼の隣に座りながら、ただ先を歩く人たちを眺めながら、少し考え込んでこう呟いていました。
「分かりません。すいません、こんなことしか言えなくて」
あぁ、いつも迷ってしまう。
自分は死んだ後どうなるかを知っているのですから。
でも、それでも僕はその後、死んでしまった人たちの魂がどんな風にあの世を歩いていくのかを知らないのですから。
「えぇんじゃよ。しかしの、たまげたもんじゃよ」
「何がです?」
予想もしていなかった言葉に、自分でもとぼけたような声を上げてしまう。
クスクスと両肩のメイとショウが笑っているような気がしたけれど、それよりも僕はこの後に続くであろう彼の言葉が気になって仕方がなかった。
「ワシはな、生きとる時は神様も仏様も信じちゃおらんかった。死んだ後にはただの肉の塊になるんじゃと思っていた」
「僕だってそうですよ。死んじゃったら何にもない、何も残らないって思ってました」
「それがこんな風に続きがあるとはの。長いこと生きて大抵のことには驚かんようになったはずじゃがなぁ。さすがに驚いた……あぁ、ワシ死んどるんじゃっけ」
僕と話しているとついついそんな事を忘れてしまうと、実に楽しい時を過ごす事が出来ているだなんて口にしながら、ニヤリと笑みを浮かべる老人の姿に僕は語るべき言葉を失くしてしまいました。
「……」
見えてしまったのです。瑠璃さんを通して、彼が心の底から涙を流した瞬間の姿を。
多くの人が見送ってくれた後の部屋に一人、彼の愛した人の納められた棺に縋りつきながら、静かに涙を流す瞬間を。
あぁ、見たくなかった。
きっと見てはいけない、大事な老人の大事な記憶の欠片を僕は見てしまった。
「ばあさんもこんな風に死んじまってから誰かと話せたのかの」
分からない。
それでもきっと、あの世を歩けば、『あの人たち』に会って、全てを見透かされてしまう。
「まぁワシが幸運だっただけじゃろうと思うが」
「最後が僕みたいなやつで……」
そうだよ。最期が僕みたいな奴で良いわけがないんだ。
「これこれ、若いもんがそんな事を言うでない」
なんでこんな笑顔なんだ。なんでこんなにもハツラツとしているんだよ。
そんな今にも消えてしまいそうになっているのに、なんで……。
「色々後悔もある。懺悔せにゃならんこともある。しかし、少しばかり胸の痞えが取れたように思うわい」
それはこれまでのどこか意地悪な笑顔ではなく、すごく優しい笑顔で。
「あぁ、出来ればまたばあさんみたいな良い女に……いや、ばあさんに会いたいわい」
これが彼の心の底から望む、唯一の願いでした。
なら僕も彼に返すことの出来る、一番大事にしている言葉を最後に彼に送ろうと思います。
「きっと、またこの世で巡り会えますよ」
あの人の名前と一緒で、きっと長い時間を『めぐりめぐって』全ての穢れを洗い流し……きっと出逢うことが出来る。
きっとそうゆう風に全てのモノは出来ているんだから。
そう口にした刹那、本当に老人の姿は空に掻き消えてしまった。
魂が消えゆく時の姿はいつもどこか悲しい。それは新しい旅立ちであるはずなのに、見送る僕にとってはいつも悲しい光なのでしょう。
「お疲れ様です、ご主人サマ」
ぼんやりと老人が去っていったであろう空を見つめていると、僕の後ろには瑠璃さんが佇んでいた。いつの間に眼鏡から人の姿になったのだろう。
それは僕を労ってくれる時の優しい笑顔。彼女が時たま見せる、ドキリとさせられる素の笑顔でした。
「うん、ありがとう、ございます」
「少し疲れましたか?」
「そうだね、ちょっとだけ休もうか」
そう口にして乱暴に袖口で目尻を拭いながら、これまでのことを少し思い返してみた。
あれから何人もの魂を見た。
子どもから老人まで、それぞれに自らの罪を抱えて、それぞれの人生を悔いていた。
だからこそ僕も真摯に彼らに向き合い、正直に文字に記し続けて来た。
最初は慣れていなかったのだが、メイやショウ……あと瑠璃さんも僕に協力してくれて、どうにか仕事をしているっていう体裁も整ってきたし、自信もついてきた。
だから少しは変わってみようと、言葉遣いくらい変えてみようと思ったのだ。
ただこんな亡者との出会いがこんなに綺麗な物でないという事を、僕は全く理解する事が出来てはいなかったのだ。
そう。僕は人の悪意、そして狂気という物がどれだけどす黒いものなのか、知ろうともしていなかった。
そして自分の心を覆っていく暗い感情に見て見ぬ振りをし始めていた。
「さて、まだまだ回れるか」
その日は曇天だった。
季節が夏に移り変わろうとしているからだろう、梅雨を前に僕を取り巻く空気はどこかじっとりと纏わり付き、不快感を覚えた。
「ご主人サマ、お仕事大分慣れてきたようですね」
「そりゃね。これだけ数をこなしていれば慣れもするし、それにメイやショウもいるしね」
「あぁん、そこで私を除外してくださるご主人サマ、最高です!」
もうこれが、僕の『いつも通り』のやり取りになっていた。
瑠璃さんの変態具合に辟易しながら、まるで散歩をするようにゆっくりと歩を進め続けた。
「あーもう少し自重してくれたら、感謝も出来るのに……」
「あれー何か素直になりませんでした? なりましたよね、素直に!」
「あー……いた」
家からどれくらい歩いてきただろう。
ほとんど見覚えのない、住宅街の裏路地に彼はいた。
「ーーなぁ、オレの事みえるか……」
静かに、まるで吐き出すように重々しくその声は僕の鼓膜を揺らす。
「え……あぁ、見えてます」
何かいつもと違う、お腹の底に響くような重い声だった。
いつもはもう少し朗らかとしているというか、明るさが見えているのに、今回は全くそれを感じられない。
「……瑠璃さん、あれ? どうしたんですか?」
そう。その魂を前にした時、瑠璃さんは黙ったまま。いつもの明るい声はどこからも聞き取る事が出来ない。
調子が悪いのだろうか、眼鏡に姿を変えたままの彼女を顔の前まで持っていき、心配そうに覗き込むと、
「……ご主人サマ、この人は止めておいた方が良いです」
口籠もったように、何か怯えるようにその声は届いてきた。
今までにそんな様子の瑠璃さんを、僕は見た事もない。
ただ僕はそんな事はお構いなしに僕はこう言う。
「どうしたの? 亡者の魂なんてみんな一緒でしょ? そこに貴賎なんてないんだから」
それは遊びに行くような気安さだった。
厳しい仕事だと、慎重にならなければと思っていたはずなのに、僕は完全に自らの行為を楽観視していたのだ。
「そうゆうことじゃなくて!」
瑠璃さんは僕のその変化に気付いていたのだ。
「もうやるよ。この人も待ってるんだしさ」
「……分かりました」
この悲し気な声の意味を、僕はもっと考えるべきだった。
瑠璃さんを顔に掛け、いつものように相対した魂を見据える。
「すいませんでした、お待たせし……」
声が、発せなくなった。
瑠璃さんを通してみる彼の過去に、僕は囚われてしまったのだ。
「なぁ、何でオレが死ななきゃならないの、何で死んでんの? オレより死ぬべき人間なんて沢山いんのに、なんでオレが死んじまってるんだよ。おかしいじゃねぇか、オレが何したってゆうだよ。ただちょっと人に嫉妬しただけだぞ? あいつに彼女がいるのが羨ましかったから、とってやっただけなのに……何でこんな風になってんだよ!」
肩をつかまれ、捲し立てるように言葉を吐きかけられる。
ブルリと身体が震えた。亡者に触れられたからという理由だけではない。
ただ恐怖してしまったのだ。悲壮感に濡れた表情から紡ぎ出されるその言葉全てが、悪意に満ち満ちていたから。
でもそれはおそらく誰もが持っている負の感情だとは思う。
しかし瑠璃さんを介して見る彼の半生は、そんな言葉では収まりのつかないほどに、憎悪と嫉妬で塗れていた。
「なぁ、よく言うよな? 欲しいもんは力づくで奪えってさ。それは間違いじゃねぇよな? 間違いだって言うんだったら、オレにそれを教えたヤツが悪いヤツなんだよな。教えられた訳じゃねぇけど、そんな台詞を平気で蔓延らせてる世間が悪いんだよな? そんなのを助長させているヤツらこそ死んじまうべきなんじゃないのか? オレを殺したヤツこそ死ぬべきなんだ。いや……いやいや! 違う、違う! 間抜けにオレに話しかけてきたお前がオレの代わりになってくれるべきなんだよ。なぁ代わってくれよ、すぐに……すぐにすぐにすぐにすぐにすぐに! すぐに代われって言ってんだろうが!」
特に躓くこともなく、何かに困る事もなく彼は人生を歩んでいた。それは親や友人に決められたり、勧められたりする道を何も不満を漏らさずに進んできただけだった。
それは人から見れば幸せな事だったのだろう。ただ流されるままに生活を続けていけば困る事はなかったのだから。望まなくとも、最低限のモノは手に入れる事が出来たのだから。
しかしそんな人生を送っていた彼にも、どうしても手に入れたいモノが生まれた。
好きになった人がいた。ただその人には別の大事な人がいた。
自分のモノにならないという実感があった。
しかしその思いは決して止められるモノではなかったのだ。
次第に、彼の心の中に暗い感情が芽生えていく。
隣にその男がいなければと。自分の気持ちに気付く事のない彼女はどれだけ無神経な人間なのかと。
周囲の人間が、取り巻く環境の全てが自分を貶めているのだと考えるようになっていった。
そう結論付けた瞬間、彼はすぐに行動に移した。
友人から彼女を奪った。傷付けた、嬲り尽くしたのだ。
そうして彼はようやく、自らの中に鬱積し続けた欲求を解消する事が出来たのだった。
おそらく彼の人生の中で、唯一その瞬間だけが幸福に満ちた瞬間だったのだろう。
何故ならその幸福を感じている最中、彼はその人生を閉じてしまった。友人から彼女を奪ったその場所で、彼は友人の手によって殺されてしまったのだから。
それが彼の人生の最後の瞬間。
彼より短い時間しか生きていない僕には……幸せな時間を生きてきた僕には決して信じる事の出来ないような出来事ばかりだった。
しかしそこで留まっていては何も始まらない。いつものように話を聞いて、自分の頭に過った言葉を口にすれば、何か対話の切欠になるはずだ。
必死に、必死に頭のグルグルと巡る考えを纏めようとする。
「……あ……僕は」
しかし何も、何の言葉も出て来なかった。
ただ掴まれた肩から徐々に体温が奪われていくような、そんな感覚があった。
「何だ、何を言うつもりなんだよ、お前なんかがオレに何を言っても、オレが死んじまった事実は変わらないだろうが! でもお前、オレが見えるんなら、何か出来るんだよな? 何か出来るからオレの言葉に反応したんだろう? 何も出来ないってのに何で話しかけてきたんだよ、人に期待させんなよ! 死んだ人間にどれだけ鞭打つつもりなんだよ!」
ビクリと、自分の身体が確かに震えた。
そう。彼の言葉は僕の心の中にモヤモヤと鬱積していたものをハッキリと言い当てていたのだ。
『何も出来ないなら話しかけるな』
まさにその言葉は今の僕の現状を言い表していた。
見る事しか出来ない。話を聞く事しか出来ない。しかし彼らに対して、僕は何もしてあげる事が出来ていない。
ただ今まで接してきた人たちが、それだけで満足してくれていた。
今までの人たちが僕にとって『優しい』人たちであっただけなのだ。
薄々気付いていた……これで良いはずはないんだって。
話を聞いた上で、その人たちを救うような一言を、きっと僕は言ってあげなくてはいけないはずなのだ。
見えるからこそ、話をする事が出来るからこそ、僕はそれをしなくてはいけないはずなのに、それからずっと目を逸らし続けていた。
「それは……」
一体僕が何を語る事が出来るんだ。
こんなガキの僕には何も出来ないじゃないか。
日が陰っていく。
自分の心に差した影の濃度を更に深いものにしていくように。 お前には何も出来ないんだと、確かな傷跡として僕の中に残すように。
そうか、これが負の感情なんだ。
人がひた隠しにし続けている、醜い部分なんだ。
じゃあさ……僕も、みんなもそれを隠し持っているのだとしたらさ。
「生きてる、そんな意味……ないじゃないか」
僕はこのままこの人と一緒に、楽になってしまえば良い。
そう思うと少しだけ気が楽になる。諦めてしまえば何て事ないじゃないか。
だから目を閉じる。嫌な事から目を背けたって別に良いはずなのだから。
僕は、何も出来ない……弱い人間なのだから。
「ダメです、諦めちゃダメ!」
全てを閉ざそうとした刹那、耳元でその声は響いた。
「……瑠璃さん?」
「でも……もう見ちゃダメです! 取り込まれちゃダメです!」
一体いつの間に人の姿に戻ったのだろう、僕は男性の魂から引き剥がされ、少し離れた場所で瑠璃さんに抱きかかえられていた。
しかし顔を上げて状況を確認する事だけは出来なかった。
視界の隅に映る男の、薄く透けてしまったその足からは、この状況に対する苛立ちが伝わってきたから。
しかしどうゆう訳か、男に肩を掴まれていた時ほど、恐怖を感じてはいなかった。
それはきっと、瑠璃さんが抱きかかえてくれたからだ。
冷たく震えていた身体に確かな熱が伝わって、それがどうしようもなく僕を安心させてくれた。
「ゴメン、瑠璃さん……」
包まれた安堵感から、そっと目を閉じようとした瞬間、
「何だよ、死んじまったのに! オレは死んじまったのに何で邪魔すんだよ! 死んじまった後くらい、オレの好きにやらせろよ!」
悲鳴のように男の声が路地に……いや僕の鼓膜に響いた。
ついさっきまで僕に罵声を浴びせていた時とは違う、何て悲しい響きなんだろう。
きっと彼は死んでしまってから今まで、ずっとこんな風に叫び続けていたんだ。
しかし誰にも気付かれる事はないし、聞いてくれる人はいない。そんな中に現れた僕に彼は少し希望を見出したんだろう。
ようやく自分の話を聞いてもらえる。
自分の後悔を理解してもらえる。
救ってくれる……特別な人間が現れたと。
でも僕はその期待に応える事が出来なかった。
だから僕は何も口にする事は出来ないし、気まずく顔を伏せる事しか出来ない。
しかしその言葉を受けても尚、瑠璃さんは変わらない。
「私はこの方に使われる為の、ただの道具です。なので貴方に何も申し上げる事はありません」
突き放すような、淡々とした口調でそう返した。
「なら放っとけ……放っとけよ!」
「しかし! この方を傷付けることは許しません。あの御方からの命令ですので、それだけは絶対にさせません!」
「あぁ、じゃぁやってみろや!」
尚も強い物言いで瑠璃さんを攻め立てる男。対する瑠璃さんは何も変わらない。決して自らの主張を変えるような事はしない。
しかし僕を抱きかかえる腕の力はどうだ?
発するその声の響きはどうだ?
瑠璃さん、本当はすごく怖がっているんだ。
彼女も間違いなくこの男の暗い感情の全てを目の当たりにしているのだから、怖くないわけないじゃないか。
それを頭で理解出来ても、身体は全く動こうとしない。本当は助けないといけない人のはずなのに、自分大事さに何も出来ないでいた。
ジリジリと睨み合いを続ける二人。
しかし瞬きの瞬間、
「メイさん、ショウさん! 逃げますよ!」
フワリと身体が浮いたかと思うと、僕は瑠璃さんに抱きかかえられ、路地裏の入り口まで連れ戻されていた。距離にすればこんなにも短い距離だ。それでも確信があった。自分ではこんな数歩の距離も逃げることは出来なかったろうと。
しかしどうしてだろうか。男の魂は僕たちを追ってくることはしない。
あんなにも激昂していたはずならば追ってくることは必定だったはずなのに、男は一歩たりともそこから動こうとしないのだ。
繋ぎ止められている。
そう思い至ったのは、男の呆然とした顔と聞こえてきた絞り出すようなその声が切っ掛けだった。
「おい待てよ……何でだよ! もっとオレの話聞いてくれよ、一人にすんなよ!」
「……あ」
怒りでもなく、ただ感じたのは悲しみ。瑠璃さんを介さなくても分かる、そのあまりに大きな感情に僕はまた声を出せなくなってしまった。
しかし彼女は、瑠璃さんは態度を崩さない。
僕を救い上げてくれた時のように、凛とした態度を崩すことなくただ男と僕の間に立ってこう口にした。
「……分かりました、最後の慈悲です。一言、ハッキリ言って差し上げます」
それはきっと彼女に任せてはいけない、僕が語るべき言葉であったはずだった。
「そうやって、貴方はこの世で最も不幸だと思っていらっしゃるのであれば、それは大きな考え違いです。えぇ、本当に……本当に大きな考え違いです」
「なん、て……何言ってんだよ! オレは!」
「確かに貴方は不幸な人生を、悲惨な最期を迎えてしまったのでしょう」
「そうだよ、オレはそうだったんだ……だから何したっていいじゃねぇか!」
「しかし数多の苦難に見舞われてもその生を謳歌する魂も確かに存在しているのです」
そうだ。僕はそんな魂をいくつも見てきたじゃないか。
泣いて笑って、怒って悔やんで、それでも最後には笑って去っていく彼らを僕は見てきたじゃないか。
それでもこの男のこんな様を見ていてはそんなこと思えないよ。
「でもオレは殺されて!」
「それでも! それでも死しても尚恨みを募らせ、赤の他人に被害を及ばすなどお門違いも良い所です」
それ以上の言葉を受け付けないと言わんばかりに、ぴしゃりと告げる瑠璃さん。
「その魂、あの世にて裁きを受けなさい!」
「だって、オレは……」
「ちなみにご主人サマは、貴方の言葉を最後まで聞こうとしていらっしゃいました。本当に……本当にお人好しの魂をお持ちの方なのです」
「オレは……オレは……」
「既に貴方には見えているはずです、かの地へと誘う階が。早く向かいなさい。そしてその魂の穢れを浄化し、再び貴方の魂がこの世に戻ってくる事を心より祈っております」
それは一瞬だった。
瑠璃さんが口にしたその言葉が切欠になったかのように、薄く透けていた男の身体が僕の視界から消え去った。
まるで、最初から何もなかったかのように。
「……」
言葉が詰まった。ダメだったと、何もできなかったと言えばどれだけ楽になれたろう。そんな強がりもできず、僕はただ身体を支えてくれる瑠璃さんへ視線を向けた。
「まだ、早かった……ごめんなさい、ご主人サマ」
「ゴメン、話を聞くしか出来なくて……何も出来なくてゴメン……僕なんかが話を聞いたって、何も出来ないのに……」
胸に後悔の念ばかりが残る。
自分には何も出来ないのだと、悔やむ事しか出来ないのだと思い知らされた。
こんな風になってしまうくらいなら、僕はあの世から戻って来ない方が良かったのかもしれない。
そればかりが、僕の頭の中を駆け巡っていた。
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