第11話 人の感情の恐ろしさ
先輩が去っていった保健室の出入り口を見つめていたのだろうか。
「ご主人サマ、何をドキドキなさってるんですか?」
と、瑠璃さんから声をかけられるまで、僕はぼうっとしてしまっていた。咳払い一つ、保健室のベッド側に佇むであろう瑠璃さんに視線を向ける。何故かブルブルと身体を震わせる瑠璃さんがいらっしゃる。
あれ? 確か以前にもこんなシーンを体験したことがあるような気がする……。
「あ。いや、そんな事……」
あ、やっぱりデジャヴだ。
「あるんですよね?」
「そんな」
「あるんですね!」
「あ、あははははははー」
「あーホント、落ち込んでいると思ったらこれですか? そりゃあの人は何かエロいですよ。無意識エロです。最高です、眼鏡女子サイコー! ホントあの人すっげぇ美味しそうですよねぇ、ホント食べちゃいたいくらい大好き!」
ホント、自分の欲望をこんなに素直に口にできる彼女が羨ましい。……いやいや、それを羨ましいって思っちゃダメでしょ!
自分でも分かってしまうくらいにブスッと表情を歪め、足早に瑠璃さんの脇を抜けてベッドに飛び込む。
「いや、ついさっきまで真面目な顔してたのにそれかよ。ちょっと見直してたのに……」
なんでだろう。保健室に来る前までとはぜんぜん違う、すごく『普通』な感じがする。ただ瑠璃さんの変態発言を聞いただけだっていうのに……。
「でも私まで真剣な顔をしてしまったら、気が滅入ってしまうでしょ」
「……」
結局それに尽きるのだろう。
みんなが何かしら、僕のためにいつもと違うように振舞ってくれている。
でもきっと、瑠璃さんだけは……いやそれに僕の肩に居続ける二人の友人たちも態度を崩すことはない。
「私くらいは、ご主人サマがいつも通りになれるように頑張らせていただきます。それがおそば付きの私のお仕事でございますから」
ベッドに体を横たえながら、瑠璃さんの方に視線を向けることはしない。
ただここまで気を使われていると思うとあまりに気恥ずかしくて、彼女を正面から見ることが出来なかった。
ただ何か言葉を返したくて、それでも特に何か特別な言葉も思い浮かばなくて、一言だけ、僕もいつも通りを演じながら、こう答えることにした。
「……うん、ありがとう」
この一言を言うまでに、今日は随分疲れてしまった。疲労が一気に出てしまったのだろう、横たえた身体は鉛みたいに重い。それに睡魔だって僕を襲って仕方がないのだ。
「……寝てしまわれたのですね」
あぁ、大丈夫。まだ眠りにはついていないんだ。でもそう応えることは出来なくて。かけられた言葉があまりに心地よくて。
だから何も言わないままでいた。
応えられないままでいた。
「この休息が、貴方の心を少しばかりは癒さん事を……」
そう。次に目を覚ました時には、怯えることなど決してないようにしておかなくてはいけないのだから。
でも、そんなに上手くいかないのがこの世の常というのだろうか。
「さて、行きますか……」
目を覚まして結局、僕は教室に向かうことなく、学校を後にしていた。そして瑠璃さんと歩きながら、ふわりふわりと漂う魂たちを探していく。
十分に休んんだ。だから少しはリハビリをしないと……なんていう強迫観念が僕を支配していたのだ。
今日を乗り越えれば、ソラちゃんと普段通りに戻れる。上手くやる事が出来れば、トーマスやコウヘイとも仲直り出来ると思ったんだ。
でも心はそんなに丈夫に出来ていない。僕は自分で思った以上に、弱い人間だった……。
「———私がダメと言ったら、すぐにやめてくださいね?」
「分かってるよ。心配しないで……」
そして、帰りの道すがらに見つけた一つの魂を目の前に、僕はこう呟く。
「さぁ……お仕事の、時間だ」
眼鏡に姿を変えた瑠璃さんを片手に持ち、噛み締めるようにそう呟く。
ただ見るだけだ。
目にして、ただ文章にして伝えるだけだ。
「大丈夫……」
もう何度もやった事じゃないか。出来ないなんて言えない。やるしかない。
「大丈夫……だよ」
と、決意したはずなのだ。
「大丈夫、のはずなのに……」
指先が、手のひらが、腕が……身体全体が震えて止まらない。
「なんで、なんで震えるんだよ! なんで、出来ないんだよ……」
「ご主人サマ! どうなさったんですか?」
「……い……怖い!」
「ご主人サマ……」
「見たくない……見たくないんだ! 何にも出来ないのに、ただ見るなんて、あんな怖い物、もう見たくないんだ!」
それはあの日から自分の奥底にあった本当の願望だった。
でもめぐり様に格好つけてしまったから、ソラちゃんたちにも強がりをしてしまったからどうしても認めたくなかったことで。
「なんで、何で僕なんだよ……なんで見るだけしか出来ないんだよ」
そうだ。見ることしかできないのに、僕は何をしてあげられるというのだろう。
結局自己満足に浸って、自分は何かができると思い込みたかっただけだった。それを認めるのがどうしようもなく怖かったのだ。
いっそ、全てを救うヒーローのように、何もかもを助けることができればよかったのに。そんな力が僕に備わればよかったのに。
「こんなに悲しいのに……何で……!」
こんなに中途半端な僕な、結局何一つなすことができていないではないか。
「泣かないで。ご主人サマ……」
「僕、誰の役にも立ってないよ。みんなの事、傷付けただけじゃないか」
「今日はもう帰りましょう。お休みが必要なんです」
「出来ないよ……僕には、見ることすら出来ない」
僕は自分の不甲斐なさが許せなかった。
決意したはずだったのに、これだけはやり通そうと思っていたはずだったのに。
ふと、めぐり様が僕に言った言葉が脳裏を過ぎった。
人を気まぐれに殺したり救ったりするのは神様。
人を堕落させる事を至福の喜びとしているのは悪魔。
違うよ、めぐりさま……そうじゃないよ。
これらは神様や悪魔の専売特許じゃない。
人間は、その両方が出来るんだ。
僕は結局そんな醜い、ただの人間なんだ。
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