第10話 軋轢
陽の光が五月蠅いほどに照りつけ、立ち尽くすだけで体力を根こそぎ奪っていく。それにこのじっとりと空気もそれに拍車をかけている。気持ちが下降していくというのは、まさにこうゆう事の事をいうのだろう。
もっとも、僕がこんな風になっているのは他に理由があるんだけど。
あれから、自分の無力さをありありと見せつけられてから数日が経過した。
誰しもが持つであろう悪意を薄める事なく、それこそ凝縮し切ったものを思い切りぶつけられたのだ。そして僕には結局何も出来なかった。
それ以降、僕は瑠璃さんを通して魂を見ていない。
彼女は『少し無茶をし過ぎたんですね』とそう優しく言い、仕事は少しの間休んでいいと言ってくれてはいる。それを言われてから、どうしたらいいのかも分からずに悶々と1日を過ごす事しかしていなかったのだ。
いや、本当のところ……新しく何かをするのが怖くて、億劫になってしまっていたのだ。
「錬ちゃん、調子悪いの? 何かあった?」
だから心配そうにこちらに声をかけてくれるソラちゃんの事すら、僕は煩わしく感じてしまったのだ。
「あ、いや……何もないよ」
「……でも、そんな落ち込んだ顔の錬ちゃん、今まで見た事ないよ」
「大丈夫だって、気にしなくても良いよ」
一瞬、血の気が引いてしまった。
僕は何て事を考えたんだろう。大事な子に対して煩いだなんて、そんな事思ってはいけないはずなのに、これも弱気になってしまっているせいだろうか。
これ以上は心配をさせていはいけないと、必死に大丈夫だとという言葉を紡いだが、彼女の表情は変わらない。
「でも……」
「早く行かないと学校遅れちゃうよ」
通学路に向かい、彼女から目を逸らしながら、足を進める。いや、違う。逃げてるんだ。ソラちゃんが優しすぎて、真っ直ぐ過ぎるから。甘えたくなってしまうから。
それでもダメだ。ソラちゃんに僕の弱さを、僕が抱えてしまった悩みを打ち明けていいわけがないんだ。巻き込んでいいわけがないんだ。
これは僕の、男の子としての意地なんだから。
「錬ちゃん……」
「……」
背後から悲しそうな声が耳に届く。それでも振り向く勇気がない。ただ自分を守るための言い訳ばかりが頭を埋め尽くしていた。
「ねぇ、私にも言えないの?」
「だから何にも……」
「何で、言えないの?」
「言えないんじゃなくって……」
「ずっと一人で抱え込んで、一人だけで解決しようとして……」
「ただ心配させたくないんだよ……僕は」
「私じゃ頼りにならないの? 私じゃ、錬ちゃんの支えにはなれないの?」
「……」
「私は、錬ちゃんの何なの?」
ズシリと、その言葉が胸に響く。
決まってる。ソラちゃんは、この子は大事な人だ。
それこそ僕が死ぬ事になったって守り通したいと思った人なんだ。
でも素直にそう告げる事が出来ないのは、彼女を大事だと思う感情の底に、黒い感情があるのではないか頭をチラつくから。僕もあの魂のように、本能の赴くままに彼女を求めてしまうのではないかと思えてしまうから。
だから僕は何も言葉に出来なかった。
大事なものだから、それを言葉にせずにそのままにしておきたかったから。
通学路を沢山の人が歩いていく中、まるで僕たち二人だけの時間が止まってしまったようだった。暑さが肌に纏わりつき、汗が溢れ出してくる。不快感が身体中を支配している。それが気持ち悪い、気まずいと感じながらも、このまま時間が止まってほしいと願っている自分がいた。
でも背後の彼女の、ソラちゃんはどうだ。
きっと僕が何か告げるのを待っているんじゃないのか。
速く、言え! 速く……速く!
でも、なんて言えばいいんだよ……なんて言ってあげればいいんですか。
「……もういい! 錬ちゃんなんてもう知らない!」
その響きが背後から聞こえた瞬間、見慣れた姿が僕の脇をすり抜けていった。
俯いた顔から、表情は読み取る事は出来ない。しかしそれでも彼女から発せられた響きから感じられたのは怒りや苛立ちではなく、哀しみという感情。
待ってよ、まだ何も言えてないんだ。何にも僕は、彼女に対して本当に言いたい事も何も言えてないんだ。
「ソラ……ちゃん」
彼女の背を見送りながら、終ぞ口を吐いたのは彼女の名前だけ。
先を行く彼女に手を掴もうと手を伸ばすもそれを掴む事は結局叶わず、僕は結局一歩も動く事の出来ないまま、そこに立ちすくんでしまった。背を見続ける事が出来なくて、顔をそらしてしまったのだ。
立ち止まったままの僕の横をたくさんの人たちが足早し過ぎ去って行く。喧騒が耳元に押し寄せては一気に去っていく。その騒がしさが今の僕にとってはすごく有り難かった。
だって、この中に身を置いていればそれにかまけて自分が何も出来なくて苦悩する事も、ソラちゃんを傷つけてしまった事を悔いる事だって忘れてしまえるのだから。
ただこのじっとりと張り付く暑さの不快さに耐えていればいいだけなのだから。
「ご主人サマ、少し酷いと思いますが」
僕の逃避の時間は、耳に届いたソラちゃんとは違うの女性の声によって破られてしまった。声に引かれて思わず顔を上げた先にあったのは、何か言いたげにこちらを見つめる瑠璃さんの姿だった。
それは先日、あの魂を見送った後に僕を見つめていた表情のそれとは違う。同情や哀れみだけでは言い表せない表情だった。
「だって、彼女は貴方様の……」
「うん。僕もそう思うよ……」
自分でも分かってる。分かってるんですよ。彼女が僕にとってどんな存在なのかとか瑠璃さんが何を言いたいのかとか……そして僕が本当はソラちゃんに何を言わないといけなかったかくらい分かってるんだ。ただずっと喉をつかえて、口に出来ないままなのだ。
そんな無理やりにこじつけた言い訳を頭で巡らせながら、僕はまた逃げ続けている。
「でもさ……そう思うけど、どうしようもないじゃないか。全部、僕が弱いせいなんだから……」
そんな僕を見逃すまいと、お頭上の太陽はこちらを睨みつけていた。
通学路の人通りが少なくなってきた頃、僕はようやくソラちゃんの後を追い始める事ができた。気持ちの整理が付いたからとかそんな爽やかな気持ちとは程遠く、ただ遅刻してしまうという焦りと義務感が僕の足を動かしていたのだ。
そうして、僕が教室に着いた頃には始業のチャイムがあと十数分で鳴り響く時間まで差し迫っていた。
「……おはよう」
教室のドアをくぐり抜けつつそう口にすると、僕を沢山の声が包み込んだ。まるで洪水を思わせる声の波が僕を包む。
それらに応えながらぐるりと教室を見渡してみると、女友達と楽しそうに会話をするソラちゃんの姿を見つける事が出来た。あんな喧嘩のあとだから仕方がないのか、僕の方に視線を向ける事はない。それに落胆しながら急ぎ足になりながら自分の机を目指した。
しかし自分の机まであと数歩のところで、僕の足は止まってしまう。いや、怯えて足がすくんでしまったのだ。
賑やかな教室の中にあって、ある一点だけがまるで凪の日のように静まり返っていた。
そこにはいつもの二人、コウヘイとトーマスの姿。トーマスは僕の机の上に腰掛け、コウヘイは腕を組みながら彼の前で静かに佇んでいた。
端から見れば普段の気難しそうな二人だが、二人の纏う雰囲気はいつものそれとは全く違う、冷たいと感じられるものだった。
何故だろう、いつものように声をかける事が出来ない。
だってほら、今ようやく僕の事を認めた二人の表情には明確な意思が示されていたのです。
「やぁ。すまないけど少し君に話がある。顔を貸してくれるかな」
そう言いながら、僕を教室の外へと促すコウヘイ。その声を合図にトーマスも僕の机を離れ、教室の入口へと歩みを進めていた。
「ん、あぁ……行くよ」
そう応えながら机に鞄を置き、彼らの後を追いかける。彼らが僕に向ける感情は間違いなく『怒り』で、それに気付かない振りをしたまま、ただ僕は彼らを追いかけるしか出来なかった。
僕たちの学校は少し風変わりで、一眼ではそれとわからない八階建てモダン調の建物? だの何だの友達が言っていた気がする。そんな建物の五階に僕たちの教室はあるんだが、そこから二つ上の階へと行くと、一つの階が丸ごと講義室になっている。
正直そんなとんでもない構造になっているのも面白いんだが、一番心を擽られるのはエレベーターホールの脇の一画がガラス張りになっていることだ。
そこからはグラウンドとその先に広がる町の景色を一望する事が出来る。一言で言えば学校の隠れた絶景ポイントというやつだろう。
悩んだ時やいろいろと面倒くさい事が起こった時なんかは、ここに来て飽きるまでこの風景を目に焼き付けるのだが、今日はそんな心持ちにはなれなかった。
「……」
そう。僕をここまで連れてきた二人の沈黙が、そんな安易な気持ちにさせないのだ。
「どうしたのさ、もう授業始まるよ?」
その沈黙に耐えかねて吐き出した台詞も、
「あーそうだな」
と、感情の篭らないトーマスの言葉が一蹴した。
一体何に対してこんなにも怒っているのか。トーマスの気持ちが全くと言っていいほどに理解することが出来なかった。
「何か怒ってんの? 僕で良かったら話し聞くけど?」
「あーそうだな……」
「じゃぁ話してくれよ。何か言ってくれないと分かんないよ」
何を言っているんだ。自分はどうなんだよ。ソラちゃんに対して、二人に対して僕はどうなんだと、心の中でそう自分が叫んでいた。
しかしそれは僕だけでなく二人も、そしてきっとソラちゃんも気付いていたことだった。
「あーそれ、そっくりそのままお前に返すわ」
言葉ととも鋭い視線が僕に投げかけられる。ここだけはいつもと何も変わらない。言いにくいことでもストレートに告げてくれる。
本当に優しい奴だよ。こんな僕のことなんて無視すればいいのに。でもさ、今は辛いよ。素直に受け取ることなんてできないよ。
だからまた逃げる。とぼけたふりをして、傷付かないようにこんな言葉を口にするんだ。
「トーマス、何言って……ッ!」
グイッと胸元を掴まれ、言葉が痞える。トーマスが力任せに引っ張ってくれたからだろう。首の周りがヒリヒリと痛むのだ。そしてに目の前にいる大事な友人たちの表情が、喉元まで登ったはずの音を飲み込ませてしまった。
「なぁ、お前最近おかしいぞ? 今までだったらソラのことだけは絶対に悲しませないようにしてたのによ。なんで今回はそんなんなんだよ!」
「そんなんって……」
「僕もトーマスと同意見だよ」
「コウヘイ……」
トーマスを制しながら、コウヘイはいつも通りの口調で続ける。
「錬、トーマスの言う通り、最近の君はおかしいぞ」
「そんな事……」
「普段通りの君ならば、もっとハッキリとこちらの問いかけに応えるはずだ。それをしようとしない……否、出来ないのは君に後ろ暗い所があるからではないのか?」
後ろ暗いだなんて、そんな風に言わないでくれよ。
「いや、だから違うって……」
それでもコウヘイの口にする言葉は全て僕の真を捉えていた。それでも今の僕を取り巻くおかしな状況を説明することなんて出来ないじゃないか。
「僕らに相談出来ないのは仕方がない事だ。君も僕らも男だからね。男の意地があるんだろう」
そうだよ。だから巻き込みたくないし、こんな話を理解してもらえるだなんて決して思っていないんだ。
ならさ、それが分かってるんだったら……。
「なら、分かってくれよ! ちょっとは、放っといてくれよ……」
自分の口から出たのは二人の行為を拒絶するこんな言葉だった。しかし吐き出した言葉を後悔してももうどうにもならない。
そんなどうしようもない気持ちのまま、二人に視線を向けるとそこにあったのは一言で表すことのできる表情が張り付いていた。
『失望』
最近、同じような表情を僕は目にしていたじゃないか。あの時、瑠璃さんが僕を助けてくれた時の、あの男の魂が最後に見せた表情のそれと同じものを、僕は目にしていたじゃないか。
胸ぐらを掴むトーマスの手の力が強さを増していく。
「ーーてめぇ、本気で言ってんのか?」
彼の中の、僕への失望という感情が怒りへと変貌していくのは容易に感じ取ることが出来た。殴られたってなんの文句も言えるはずがない。ソラちゃんの時にあれだけ後悔したというのにまたやらかしてしまったんだから。
あとはその力強い拳に打ちのめされるだけなのかと諦めかけた瞬間、理性的なままでいたもう一人の友人が、そっとトーマスの腕に手をかけた。
「トーマス! ちょっと待つんだ」
「おめぇも! おめぇも、俺に指図してんじゃねぇよ!」
僕に対する苛立ちをそのままに、コウヘイに対して声を荒げるトーマス。普段いつも見ている光景の、僕のいつもの日常のはずなのに、こんなに痛ましく思えるなんて……僕がこんな悲しい光景を引き出しているという実感があるだけに居た堪れない思いになってくる。
「指図じゃない……お願いだ。僕に言わせてくれ」
「……あーわーった」
しかしどうだ。一言言葉を交わしただけで、一瞬視線を絡めただけで二人のやりとりはあっさりと終わってしまったではないか。トーマスは嘆息一つ、僕の胸倉を掴んでいた手を離し、壁にもたれ掛かりながら、苛立ちの色を瞳に湛えたままこちらを見やる。
あそこまで頑なだったトーマスが、コウヘイの一言に身を退いた。それに驚きを隠せない反面、どこか納得している僕がいたことを否定することが出来ない。
そうだ。この二人の中で僕に言わなくてはいけないことは既に決まっているんだから。
「錬、正直に言ってしまうとね、君の事は放っておいても大丈夫だって思ってるんだ。すぐに持ち直すって確信しているし、男だから変なお節介を焼かれてもイラつくだけだって事も分かっているつもりさ」
トーマスとは違い、淡々と感情を表に出さないようにそう口にする。
一見冷たくも感じられるその言葉も、『男だから』というその一言だけでどこか救われた気ちになる。
「今君に降りかかっている問題の根がどんなに深かろうと、どれだけ悩もうともきっと君はそれを乗り越えられると信じているんだ」
しかしそこまで口にしてコウヘイの瞳の色が変わる。
「でもね、それは美空ちゃんに対しては別だよ」
トーマスと同じ、怒りの色。口調は冷静なまま、コウヘイの言葉は続く。
「無自覚ならば叱りつけるだけで治りはするだろう。しかしね、もし意識的に美空ちゃんを遠ざけようとしているのならば、僕は君の味方ではいられない」
「それは……」
「そーだよ、女一人……しかも大事なヤツを傷付けても平気な顔してるヤツとなんて、俺らはダチじゃいられねーよ」
そう。二人の言葉が、僕にとっての一番大事なものを物語っていた。二人も僕が大事だと理解しているから、こんなにも僕のことに必死になってくれている。
「僕は」
何度目かの言い訳。何度目かの自分を守ろうとする言葉。
僕を見据える二人を正面から見据える事が出来なくて、俯きながら必死に取り繕う言葉を探そうと頭を巡らせる。
「僕は……ただみんなに!」
「……もういい。行こう、トーマス」
「あーそうだな。せんせーに怒られんの嫌だしな」
心配をさせたくないのだと口にしようとした瞬間、その一言が僕に投げかけられた。そして背を見せて教室に戻ろうとする二人に、僕はぼんやりとこんなことを考えてしまった。
諦められた? もう何も言っても届かないって思われてしまった?
嫌だ。置いて行かないでくれ。僕をこのまま一人にしないでくれ。ただ……僕は話を、話を聞いて欲しいだけなんだ。
あぁ、そうだ。今の僕はあの人と同じなんだ。でも違うのは、僕が何の気持ちも伝える事が出来ていない事だ。
あの人は真っ直ぐにこの世に対する未練や憎悪を口にしていた。でも今の僕はどうだ。何も伝える事が出来ていない。分かってもらえないんだからと諦めてしまっている。そうだよ。諦めてしまっているのは僕の方なんだ。
「おい……なんでだよ? 僕、まだ何にも言ってないぞ!」
それでも認めたくなかったのだ。背中を見せる二人に、乱暴にそう言い放つ。
でも、振り返る二人の表情はこれ以上の問答を最早必要としていなかった。
「その態度が全てを物語っているじゃないか」
コウヘイがそう口にする。それは言葉の通り、何を言っても無駄なのだという表れ。
トーマスが何かを言いたげにこちらを睨みつける。そして瞬きの刹那、
「……でもよ!」
腹部に鈍痛が走り、僕は身体をくの字に折ってその場にうずくまってしまう。
「ッ……!」
瞬の間の出来事だった。
トーマスが僕の正面に立った瞬間、彼ゴツゴツとした拳が打ち出され、僕の脇腹を捉えた。インパクトのはほとんど一瞬。しかし僕を打ちのめすにはそれで十分だった。
「人に無駄な時間過ごさせたんだ。一発くらい殴られても文句ねーよな、あ?」
身体を折りながら視線を上げる。
そこには言わずもがな、怒りを湛えたままのトーマスの姿。
「当分ダチ面すんじゃねー。マシになるまで俺らに話しかけんな、馬鹿ヤローが」
「トー……マス」
乱暴にそう吐き捨てて、トーマスは僕たちを残して、足早に階下へと足を進めていった。
「本当に、トーマスは優しいヤツだね」
「コウヘイ……」
そう。トーマスはこんなにも優しい。
無関心に、これ以上は無駄だと思えたなら、何もしなければいいのに、僕の行いといけないことだと、間違っているのだと正面から罰してくれている。
やり方はどうであれ、今の僕にはこれくらいが、このくらいの痛みが丁度良いのかもしれない。
「僕は君を殴りはしないよ。そんな時間が勿体ないし、手もきっと痛いからね」
「……」
あぁ、この言葉だって僕には優しいよ。
「僕も、今の君とは友達ではいられない。いつも通りに君になってくれるのを待っているさ」
そう残して去っていくコウヘイの後ろ姿に、僕はただ弱々しくこう呟くしかなかった。
「ありがたいよ……僕みたいなヤツの為に……」
身体を起こし、壁に身体を預けながら一人そう呟く。
でも、余計にその優しさが痛いよ。
何にも言うことが出来ていない僕の弱さが不甲斐なくて、一人取り残されたことが悲しくて、ただ……ただやりきれなかったのだ。
本鈴が鳴り響き、耳に届いていた喧騒が一気にかき消えていく。
一限目の授業が始まったのだろう。それを理解していながらも、どうしても僕は立ち上がる事が出来ずに座りこんだままだった。
ぼんやりと、鈍い痛みを保ったままの脇腹を押さえたまま、瞳を閉じる。
なんでこんなにも悩んでいるのでしょう。
なんでこんなにも不甲斐ない様をひけらかしているいるのでしょう。
なんで僕は……強がって、心の中での口調まで変えてしまって、どうにか一人で頑張ろうとしてしまっているんだろう。
僕なんて、何もできる事はないのに。
「ご主人サマ……」
視界の隅にこちらを心配そうに見つめる影が一つ映る。
確か教室の僕の鞄の中に、眼鏡の状態のまま押し込んできたはずの瑠璃さんが知らないうちに僕の目の前に立っていた。
廊下に男女が二人きりなんて、見ようによってはひどくロマンチックなシーンに感じられるかもしれないけど、そんな心持ちには決してなれない。彼女も僕の表情で現状を察してくれたんだろう。いつものような冗談めかした態度を見て取る事はできない。
「ご主人サマ、保健室に行きましょう。そのままではあのお二人にも、何より美空さまにもご心配をかけてしまいます」
こちらを覗き込みながら一言、落ち着いた声で僕にそう告げる。
確かにこのままここに座り込んだままでいる事も出来ないし、あと数十分もすればここにも誰かしらが現れるだろう。
「うん、ありがとう……」
だから今はその言葉に従う事にした。それが楽だと、決めてもらった事だけをし続けていれば何も考えずに済むのだとそう思っていたから。
今はもう、自発的に動くことなんてしたくなかったのだ。
そう考えながら階下へと降り始める。一歩一歩足を動かす度にジンジンと脇腹が痛み、先程までのやりとりを忘れさせまいとしていた。
何もかもをなかったことにしたい。こんなに辛い気持ちを抱えなければならないくらいだったら、全部無視してしまえばいいじゃないか? それを誰が咎めることができるだろう。
一歩、また足を進める。いや、それで良いわけがない。こんな僕を黙って見守ってくれる友人たちに……自分の大事な女の子にそんな姿を見せ続けて良いわけがないんだから。
よたよたと、覚束ない足取りで保健室に到着したのは、一限目もようやく中盤に差し掛かった頃だろうか。
ここに来るまで誰とも遭遇しなかったことを考えると、やはり生徒全員が間違いなく真面目に授業を受けているのだろうと、そんなつまらないことを頭の片隅で考えながら保健室のドアに手をかけると同時に、背後からこんな言葉が飛んできた。
「ご主人サマ、今日はもうご自宅でゆっくされた方が良いです」
それはさっきと同様に、いつも見てれる冗談めかした響きではなく、本当に僕を心配した声だった。
「でもまだめぐり様の仕事手伝わないといけないんでしょ?」
もっともらしい言い訳だ。嘘か真かに関わらず、あのえんま様の仕事を手伝わないと僕はあの世へ逆戻りしてしまうんだから。
でも結局それを言い訳にして自分の境遇から逃げ続けているに過ぎないのに、何を格好つけているんだろう。
ドアにかけた手が静かに震えた。
ただめぐり様との仕事に逃げているはずなのに、それすら放り出して逃げたいと思っている自分がいた。『あれ』を瑠璃さんを通して目にしなくてはならないという事実にどうしても怯えている自分がいるのだ。もうあんな目にはあいたくない。人の悪意に触れたくないと縮こまっている自分がいるのだ。
その震えを察したのだろう。瑠璃さんは僕の肩に手を置きながらこう続ける。
「ですが……! このままでは、貴方の心が死んでしまいます」
そんな事言わないでくださいよ。だから『お仕事』すら辞めてしまったら、僕は胸を張って友人たちに会えなくなってしまう。ソラちゃんにもゴメンを言えなくなってしまう。
怯えに震える身体を押し留め、彼女の方には向き直らずにそのままこう告げる。
「大丈夫だよ……今度はきっと、大丈夫だよ」
大丈夫だ。やり直せる。今度は上手くできるはずなんだ。それでも声の震えはそのままで、余計に心配をかけてしまったのかもしれない。
「それは私も信じております。貴方様はあの御方と同一となるべき存在……いえ、はっきりと言いましょう」
「何、言ってるのさ?」
「私は心より信じているのです。貴方様は真に強き魂を持っていらっしゃるのだと。それこそ広大無辺の大慈大悲にて凡てを包む彼の御方と同じ強さをお持ちなのですから」
瑠璃さんからよく聞く『あの御方』という人が誰のことを示しているのかよく分からなかった。
ただ身体を少しでも休めたかった。
その一心で足を動かし続けて保健室の前に着いた頃には、そんなことも疑問にも思わないくらいに安堵を覚えていたのです
ガラリと、乾いた音をたてて保健室のドアを開ける。
その瞬間、さっきまでとは全く違う意味で僕の頭は真っ白になってしまった。息を呑んでしまうとはこういう時のことをいうんだろうか。
「あら、今日もサボリなのかしら?」
その声にドクンと、心臓が大きく揺れる。きっとソラちゃん以外で僕をこんな気持ちにさせるのはこの人、兼平直枝先輩ただ一人だけではないだろうか。
風に煽られてはためく白のレースカーテンも、保健室の清潔さをありありと見せつける真白も、きっと彼女の清廉さには敵わない。
兼平先輩とは、どんな姿も絵になる女の子だ。彼女がいるだけで、どんなありきたりな風景だって一瞬の内に巨匠の絵画へと変貌を遂げる……って、なに中二病みたいなことを考えているんだよと心の中でツッコミを入れながら、ようやく心を落ち着けることが出来た。
授業中だというのに保健室の丸椅子に腰掛けながら持参した小説を読みふけっていたのだろうか、ページを閉じてこちらに微笑みかけながら、彼女は『私もなんだけれどね』なんて一言付け加える。
「あはは……お互い様ってことで、見逃してもらえたら嬉しいなって」
愛想笑いを浮かべつつ、足を進めてそそくさとベッドを仕切るカーテンを開ける。誰も身体を横たえた様子のない整えられたベッドは目にしていて気持ちが良い。
しかし頼むから今は話しかけて欲しくはなかった。
だって、この人は見透かしてしまうのだ。
「どうしたの? 何か辛い事でもあった?」
ほら、こんな風に僕を一見にしただけで、相手がどうなっているのかを理解してしまう。僕が弱ってい流ことを分かった上で、歩み寄ってこようとするのだ。
小気味よく鳴り響いていたカーテンのランナーの音が鳴り止む。まるで自分も心臓の音も同時に止まってしまったように、まるで時間が止まってしまったかのように身体が動かなくなる。
「いえ、別に何も」
ダメだ、逃げよう。ソラちゃんやトーマス、そしてコウヘイに対して以上に、僕は取り繕うことが出来なくなってしまう。この人に対して、何も嘘がつけなくなってしまうのだ。
「そう。でも貴方のお顔はそう言ってないみたいよ」
「……」
「辛いよ、苦しいよ、お話を聞いてほしいよって書いてるわよ」
「……そんな事、ないですって」
「そう。まぁ貴方が話したくないと言うのなら、仕方がない事だしね……でも貴方の近くにいる人たちはどう思うのかしら?」
きっと、自分たちは何もすることが出来ないんだと、僕以上に悩むはずだ。そんなこと、こうなってしまった時から分かりきっていることじゃないか。
でもこんな風に優しく、諭すように言われて僕は一体どうしたら良いのだろうか。僕がソラちゃんから逃げてしまったことも、トーマスとコウヘイの言葉をはぐらかしてしまったことも、決して許されないことなんだと思えてくる。
いや、『思えてくる』じゃない。そう思わないといけないんだ。
思わず視線を上げ彼女を見つめる。目に入る先輩のどこか悲しそうで、ガッカリしたように肩を落としながらこう呟く。
「自分たちじゃ力になれないのかなって、きっと悔やむはずよ」
ドキリと、また心臓が跳ねる。
自分が今まで考えていたことをまさかズバリと言い当てられるなんて思いもしなかった。
でも、やっぱりダメだ。彼女にだけ、先輩にだけ自分を取り巻く現状を伝えて良いはずがない。
決めたじゃないか。自分でどうにかするんだ。
「……今は、言えないんですよ」
そう、だから僕は口を噤んだ。それがきっと、あの三人に対するせめてもの誠意だと勝手に思い込んだまま。僕はまた逃げる選択をしてしまうのだ。
グッと息を飲み込み、怯える気持ちを奮い立たせて振り返り先輩をジッと見つめる。
こんなことになけなしの勇気を使うなんてなんてバカバカしいのだろう。ただ一つだけ、これ以上踏み込んでくれるなという気持ちだけが僕をそうさせていた。
ただそれでも彼女は、そんなことなど関係ない。
「やっぱり貴方、心配になるわね」
こんな風に一言声を発するだけで、また簡単に僕の内側に簡単に入り込んでくる。
また自分の頭の中が真っ白になってしまう感覚を覚えてしまった。予想をしていなかったという言葉が一番正しいのかもしれない。
ソラちゃんは黙って去っていった。
トーマスには殴られ、コウヘイには自分の行動を諌められた。
それなのに一番一緒に過ごした時間の短いはずの先輩が、先輩だけが静かにゆっくりと僕の言葉を引き出そうとしてくれている。それでも一度思考を止めてしまった頭がそう簡単に動き始めることはなくて、ただ先輩が僕を見つめる瞳の冴えた色が、優しく感じていたはずだったのに本当に怖くなってしまったのだ。
先輩の前髪がふわりと風に靡き、時間が刻一刻と進み続けていることを示していた。
「心配って……」
「私が貴方を生徒会の手伝いに誘った理由、分かるかしら?」
「僕が何でも言う事聞くヤツだから……」
「勿論、頼まれれば断れない貴方のそうゆう性格も見込みはしたわ。あわよくば利用してやろうかなってね。でもね……」
「でも……?」
「貴方のこと、少しでも楽にしてあげることが出来ればと思ったの。貴方って周りで起こる問題については、自発的に関わって解決しようとする人じゃない? でも自分のことについてはビックリするくらいに貴方って、一人で抱え込んで、自分だけで解決しようとするじゃない。それこそ周りが見えなくなっちゃうくらいに。それをね……苦しくならないように助けてあげられればってね」
一頻り言葉を紡いで、嘆息する先輩。
しかし僕は思ってしまった。僕はさっきなんて失礼なことを考えてしまったのだろうと。
三人と先輩を比べれば、確かに先輩はまだ出会って数ヶ月の付き合いだ。しかし付き合いの長い短いではない。ただ先輩が僕の芯の部分をただ見透かしたに過ぎないのだと。それは否定することの出来ないものだ。
否、誰だって少なからず、『自分の裡に抱え込む』何てことを平然としている。そんな自分に酔いしれているはずなのだ。
「僕、そんな風に見えます?」
彼女から語られた言葉に、そんな風に言葉を返す。
ヘラヘラと、作り笑いを浮かべながらまた逃げの体制を整えようとする。きっとそれを察したのだろう、腰掛けていた丸椅子から立ち上がり、一歩また一歩こちらに歩み寄り、ついには少し手を伸ばせば触れ合えることの出来る距離まで詰め寄って来る先輩。
「そうね、少なくとも今の貴方は酷い顔してるわ」
そう言葉にしつつ、細い指が僕の頰に触れる。少し冷んやりとか細いそれは頰に触れているはずなのに、まるで心臓を掴まれたように、僕の動きは止まってしまう。
ダメだ、動けよ、僕。これ以上近づかれては、本当に骨抜きにされてしまう。
「そう、ですか……」
なんて、結局そんな言葉しか僕の口を吐かなかった。
「本来ならば弱っている所につけ込んで、自分の思うように相手を動かすというのが戦の基本なのでしょうけど……今日の所はやめにしておくわ」
「愛想つかされたってことですかね?」
「いえ、そんな事ないわ」
「じゃぁなんで?」
ゆっくりと、一度だけで僕の顔を撫でて、丸椅子の方に戻っていく先輩。いや、僕がここにやってくるまで読みふけっていた文庫本を手にし、保健室から出て行こうとしているのだ。そんな後ろ姿まで絵になるたんて、なんて卑怯な人なんだろうと内心考えながら、また一言しか言い返すことができない。
そして彼女はいつものように笑う。
冷静に、そして意地悪に、文学少女だなんてお淑やかなレッテルには絶対に収まらない表情を浮かべ、保健室のドアに手を掛けながらこう告げるのだ。
「今の貴方は確実に落とせちゃうからよ」
あぁ、本当に……完全に骨抜きだ。ソラちゃんがいなきゃ、きっと僕は彼女に飛び付いてるって自信があるくらいだ。
「そ、そうっすか……」
「次、顔を会わせる時は、もう少し落としがいのある表情を見たいわ」
だからやめてくれって! あぁ、でもきっとこの人はきっと全部計算づくでやっているんだ。僕が先輩に飛びかかる度胸がないって知っているから、僕が声を荒げる余裕がないってわかっているから、だからあえてこちらに振り向くことはなく、僕の返答を聞くこともなく外へと出て行ってしまった。
「ありがとう……ございます」
ビシャリと、鈍い音をたててドアが閉まっていく。最後に僕が発した言葉の意味も、その響きだってきっと先輩には届いていないだろうと思う。
それでもどこか心に鬱積していたものが少し軽くなったように感じた。
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