終章
屋敷を出ると、既に霧は晴れていた。
振り返ると、既に屋敷は消えていた。
あの後シュヴァルは、大人しくシルバーラビットを抱きかかえると、どこかへ隠していた解毒剤を取り出して、シルバーラビットへ呑ませた。
その後、意識を取り戻したシルバーラビットが、シュヴァルと対面して見せた笑顔と喜びようは、流した涙は、アインの脳裏に鮮明に焼き付いた。
対してシュヴァルは、泣き笑いを浮かべて頷いて――
「……お嬢ちゃんも、檻から飛び出てちゃんと帰れ……か」
二人揃って消える瞬間に向けられた言葉を思い出す。
おそらくは、『シルバーラビット』はもう現れないだろうと思いながら、アインは歩く。
朝露に日の光が反射してきらめく森の中を。
途中、突拍子もない場所に、屋敷の中に落としたはずのナイフと短銃を見付けて拾い上げる。
返してくれたのか、捨てられたのか判断は出来なかったが、自分の元に戻って来たことが何だかおかしくて、アインは少し笑って見せた。
そして、ふと思う。
うらやましいな――と。
自分を信じて、相手を信じて、帰り帰れる場所があると言うことは。
自ら手放したものの大きさを改めて突き付けられたような思いだった。
だが、裏切ったのは相手が先だと、落ち込みかける自分に活を入れるべく怒りを灯す。
しかし、途端にシルバーラビットの言葉を思い出す。
本当に裏切っていたのは誰だったのかと言う言葉を思い出す。
もしもミリシュの方がアインを裏切っていたとしたら……
考えたくもない可能性だったが、では、ミリシュのことをどれだけ知っているのかと自問すれば、アインは良く分からないと言う事実に突き当たり、愕然とした。
「人は見せたいものだけ見せ、見たいものだけを見る……」
だとしたら、可能性はゼロではない。
信じるものが揺らぐと言うのは、泣きたくなるほど心細くなるものだと思う。
もしも、そんな自分にも支えになってくれる人がいたとしたら、それは――と思った時だった。
「アイン!」
「!?」
自分の名前を呼ぶ声がした。
弾かれて顔を上げれば、視線の先にいたのは、フルフレア。
「なんで?」
掠れた声が吐いて出て。アインの足はピタリと止まった。
そんなアインに、フルフレアは飛び付いて。
「良かった。良かったわ、アイン。無事で本当に良かった。ハイネスさんだけが帰って来て、あなたがなかなか帰って来なかったから、あたし、本当に心配したのよ?」
力一杯しがみ付かれて泣かれた。
「このまま帰って来なかったらどうしようかって。やっぱり一人で行かせたのが問題だったって、馬車を戻してずっと待ってたんだから」
「は?」
間の抜けた声が出た。
「ずっと……って、ずっと?」
問い掛ければ、フルフレアはアインの顔を見て答えた。
「当り前じゃない!」
その顔は涙で濡れていたが、怒っていた。
「あなたを置いてなんか帰れないわ!
それでも、無理やり連れて帰ろうとするから、私途中で馬車を飛び降りて、独りで来ようとしたんだから」
「は? 何考えてるの、あんたは」
「だって、本当に心配だったんだもの」
「馬鹿じゃないの?」
呆れ返って怒る気力すらなくなった。
だが、
「馬鹿でもいいもん。あたしは、アインと一緒に帰るんだから! 帰るまで、帰るつもりなんてなかったの!」
そう言うと、堪え切れないとばかりに大声で泣き出され、アインはしがみ付かれたまま途方に暮れた。
そんなアインの耳に、シュヴァルの言葉が蘇る。
「……檻を飛び出して、帰れ……か」
「何?」
不思議そうな顔をされて聞き返され、アインは苦笑を浮かべて答えてやった。
「笑えるほどに、酷い顔」
刹那、眼に見えてフルフレアが慌て出し、「だってこれは」と言い訳しながら手で涙を擦る。
お陰で自由の身になったアインは、さっさとフルフレアを残して歩き出す。
「あ、待ってよ、アイン!」
フルフレアが慌てて追い掛けて来る。
そんなフルフレアを振り返り、アインは告げた。
少しだけ、口元に笑みを浮かべて。
「早くしないと、置いて行くわよ」
そっと伸ばした手に、フルフレアは眼を瞠り、弾かれたように飛び付いて、腕を絡めて満足そうにこう言った。
「うん。一緒に帰ろ」
歩き難いことこの上なかったが、アインはふと込み上げる笑みを堪えながら、どこかで笑っているシュヴァルを思い出し、内心で告げていた。
(とりあえず、帰る場所には帰ってやるわよ)
「――あ、でも、夜通し仕事をしたら睡魔が……」
「って、待って! 待って、アイン! ここで寝ないで! もう少し頑張って!」
朝日がきらめく森の中。新しい一日にフルフレアの情けない声を聴きながら、アインはゆっくり眠りに付いた。
それが、今回の仕事の終わりを告げていた。
『完』
『シルバーラビットの霧の館』 橘紫綺 @tatibana
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