(3)

 アインの目は青い色だったはずと口にするより前に、シュヴァルは強烈な拳を顎に喰らって仰け反った。

 やったのは勿論、アイン。

 目の前で星が瞬き、アインを取り落とす。

 後ろ向きによろめいて、何が起きたのかと視線を向ければ、赤い目を爛々と輝かせたアインが、今まさに突撃して来るところだった。


 弾丸の如き速さで間合いを詰められ、到底普通の人間には生えそうにもない鋭い鉤爪を生やした手を、喉元を掻き切る勢いで振り抜いて来る。

 シュヴァルは後方に躰を倒した。普通に後ろに逃げるだけでは到底間に合わない速さだった。

 大地に手を付き起き上がり、バックステップで距離を取る――も、アインとの距離は開かない。


 鉤爪が縦横無尽に振るわれ、そうかと思うと突然姿が消える。

 どこに行ったのかと戸惑う刹那、足元を救われて転倒。地面に手を付き横に転がれば、容赦なくアインの爪が地面を抉った。

 慌てて起き上がるシュヴァルをアインの赤い目が捕らえる。低い姿勢から飛び掛かられる。

 それはまるで、肉食獣が獲物に襲い掛かるようにも見えて――


「そうか!」


 シュヴァルは唐突に気が付いた。

 アインの瞳の色が変わった理由も、鉤爪が生えた理由も、獣毛が手の甲を覆い始めた理由も。


「『妖魔(ヴォルカース)の恩恵』か!」

「だったら何?」


 怖ろしく冷めた口調と共に、顔を狙った鉤爪が降って来る。

 シュヴァルは、執拗に顔を狙って来ることに何か特別な悪意を感じながら、左腕で払い除けた。

 直後、体を捻っての左足が飛んで来た。


『妖魔の恩恵』と言うものがある。

 それは、能力の大小に関わらず、大抵のハンターが有している《呪い》のことを指す言葉だった。

 同時にそれは、妖魔によって血を与えられた者に発現する『能力』のことも指す。

 血を与えられたり、噛み付かれることによって、妖魔の能力が与えられるのだ。

 それによってどれだけの力が発現するかは、個人差がありハッキリと断言することは難しい。


 だが、共通して言えることは、多用すると妖魔化すると言う点。

 妖魔の力が活性化し、乗っ取られるのだ。

 そうなれば、いかにハンターだったとは言え、狩られる立場になる。

 しかし、その力は充分に妖魔とも渡り合えるだけの力を与えることもある。

 それこそ、今のアインのように。


 アインの速さはシュヴァルをも凌駕していた。

 爪を躱し切れずに無傷ではいられなくなる。

 爪にばかり気を取られていれば、足元を救われる。

 ただでさえ小柄ですばしっこかったアインは、簡単にシュヴァルの背後を取り、死角から攻めて来た。


 余裕など、どこにもなかった。

 シュヴァルは本気でアインに対し、恐れを抱いた。

 肉食獣と草食獣。

 本能的に、シュヴァルは恐怖を覚えずにはいられなかった。

 だが、シュヴァルも簡単には諦められない。


「兎の蹴りも、なめんじゃねぇぞ!」


 飛び掛かって来たアイン目掛けて蹴りつける。

 しかしアインは、自らに伸びて来たシュヴァルの足に両手両足を付くと、蹴りの勢いを利用して自ら後方へ飛んだ。

 そんなアインに、勢い余って背中を向けるシュヴァル。

 その背中に凄まじい殺気が叩き付けられる。


 来る!


 と思ったときには、一回転したシュヴァルはアインと真正面から向き合っていて。

 気が付いたときには、アインがシュヴァルの胸に飛び込んでいた。

 あまりの勢いに、踏ん張りがきかなかったシュヴァルは、どうすることも出来ずに背中から地面に倒れた。


 受け身も取れずに倒れたせいで息が詰まり、人一人分の重みが余計に苦しさを覚えさせたが、そんな苦しみは次の瞬間、消え去った。


 ブチリ――と肉が噛まれる音がした。

 怖気を伴って痛みが走り、一拍置いてシュヴァルの口から絶叫が迸る。

 アインが、シュヴァルの首筋に思いっきり牙を突き立てていたのだ。


 喰われる!


 本能だった。

 冷静に考えれば、アインは人間なのだから、喰われることなどないと分かりそうなものだが、シュヴァルは本気で思った。引き離さなければアインに喰われてしまうと。

 未だかつてない恐怖に、シュヴァルは渾身の力を込めてアインを殴りつけた。

 柔らかい体に拳がめり込み、ろっ骨を折った感触が伝わって来る。

 アインは呻いて反対側へと転がった。


 その隙に、シュヴァルは飛び起きて片膝を付きながらアインを睨み付ける。

 ドクドクと、血の気の引く勢いで溢れる体液を抑え込むも、出血が治まる様子は微塵もなかった。

 視線の先で、脇腹を押さえたアインが、口元の汚れを拭い取る。

 眼には怒りの焔が宿っていた。

 アインとの距離は、アインの歩幅で六歩。

 だとしても、今のアインだったら一足飛びで詰められそうな距離。


 誤算だったと、自分が甘かったと、正直シュヴァルは後悔していた。

 まさかここで、これほど厄介な『恩恵』が発現するとは想像すらしていなかった。


「そんな力、忘れていれば良かったのに」


 引き攣った笑みを浮かべて言葉を掛ければ、アインは答えた。


「あいつだけはどうしても許せない。それを忘れるなんて、私には出来ない」

「だから、憎たらしい狼妖魔(ヴォルカース)の力を使ってまで、自分を保ったのかい?」

「そうよ」


 肯定と共に、アインは飛んで来た。

 本当に一足飛びだった。

 瞬き一つの間に眼の前に現れて、アインは攻める。


 見た目を裏切る重い一撃が、腕に胸に腹に、足に背中に、息つく暇もなく襲って来る。

 シュヴァルもなんとか攻撃を捌こうとするものの、一向にアインを捕まえられなかった。

 フェイントに引っかかり、がら空きの脇腹を思い切り引き裂かれる。

 堪らず膝を付けば、首筋を力一杯蹴り付けられて、目の前が一瞬暗くなる。

 手を付いて躰を支えれば、その手を蹴り払われて、地面に顔を打ち付けた。

 起きなければと頭を持ち上げれば、容赦なく、頭を踏み付けられて地面に戻される。


「……本当、良い趣味してるぜ、お嬢ちゃん」


 減らず口が叩けたことに、自分自身が軽く驚く。


「あら、どうも」

 と、さりげなく踏む足に力が籠る――が、


「生憎それで、喜ぶ変態じゃないんでね!」


 シュヴァルは両手をついて、勢いよく頭を持ち上げた。

 攻撃力や速さは増したが、体重自体は変わらない。どれだけ頭を踏む足に力を入れたところで、持ち上げられないことはない――と、思ったのだ。

 実際、躰を起こすこと自体は成功した。ただし、


「大人しくしてくれないあなたが悪いのよ」


 背後から聞こえた冷ややかな声は、両腿をざっくりと切り裂く痛みを引き連れてやって来た。

 言葉も出ないほどの痛みが脳天を突き抜けた。

 その上更に、三度シュヴァルは地面に俯せられる。

 しかも、その首にはロープが巻かれ、右足は肩甲骨の間を踏み、左足はシュヴァルの左ひじを砕いていた。


「……本当、良い趣味してるぜ、お嬢ちゃん」


 たっぷりと嫌味を込めて吐き捨てれば、


「その言葉は聞き飽きたわ」


 同じぐらい嫌味の籠った言葉が返って来た。

 負けたのだと、シュヴァルには解ってしまっていた。

 身動きが出来なかった。足も片腕も持って行かれた。

 死ぬほどの傷ではないにしても、今のアインと互角に渡り合えるだけの力を発揮出来ない状態で、ましてや首を持って行かれる状態を作られてしまえば、どんなに馬鹿でも察することが出来ただろう。

 お陰でシュヴァルは激しい怒りを覚えていた。


「何故だ!」


 気が付くと、叫んでいた。


「どうしてそこまで嫌がる! どうしてそこまで自分を追いつめる!

 別にいいだろう?! 辛い現実に生きる必要なんてないだろ? ここにいれば幸せに暮らせるって言うのに、どうして拒む?!」


 叫ばずにはいられなかった。

 対してアインは冷ややかに答えた。


「偽りの幸せなんていらない」

「偽りだろうが何だろうが、幸せならそれでいいじゃないか! ここにいれば孤独に苛まれることも辛いこともないんだ!」

「でしょうね」

「だったら!」

「あなたが言ったのよ」

「何?」

「あなたが言ったの」

「何を……?」

「――孤独を抱えた人間を救えるのは同じ人間でしかない」

「それが、何なんだ?」

「解らないの? 解るでしょ? 本当は」

「何を、言いたいんだ」


 シュヴァルはアインの冷たい声に動揺していた。


「あなたとシルバーラビットの間でも同じことが成り立つと言うことよ」


 シュヴァルは、息を呑んでいた。

 アインは、畳み掛けて来た。


「偽りの幸福は、何も私に限った話じゃない。あなたの思い通りに事が進めば、私もあなたもシルバーラビットも、皆、偽りの幸福を過ごすだけ。それで一体何が変わるの?」

「それは……」

「あなたは私に言ったわね。シルバーラビットを消したくないって。二度も殺したくないって。

 でも、彼は違う。彼はそれを求めてる。

 あなたは何度、彼を裏切るの? シルバーラビットは、いつまであなたが迎えに来るのを待てばいいの?」


 グサリと胸に突き刺さる問い掛けだった。


「あなたは私にこうも言ったわ。

 あいつはあの時の状況を作り直して、自分が迎えに来るのを待っているって。

 それが分かっていながら、後どれだけ迎えに来てくれない絶望を彼に思い知らせるの?」


 問われた瞬間、シュヴァルは遠い昔のことを思い出していた。

 檻の向こうから、必死に前足を伸ばして来たシルバーラビットのことを。

 見捨てないでと訴えて来たシルバーラビットのことを。

 それでも、見捨ててしまったときに浮かべたシルバーラビットの絶望した顔を。声を。涙を。


 妖魔になってからも、違うと分かっていても、攫ってこなければ気が済まなかったシルバーラビットを。

 やっぱり違うのだと理解して、屋敷に残る自分の匂いを辿り、彷徨い歩く姿を。

 それを、後何度見なければいけないのか。

 アインならば代わりが出来ると思った。

 だが、それが叶わない以上、これから先も何度もシュヴァルは傷ついたシルバーラビットを見ることになる。


「あなたは、絶望に沈むシルバーラビットを見たくないから、私を身代わりにしようとした。

 でも、知っているはずよ。身代わりは身代わりでしかない。偽りは偽りでしかない。

 あなたが本当に彼を助けたいのだとしたら、あなたの方こそ、孤独の檻から抜け出して、帰りを待つべき存在の元へ帰るべきよ」


 その言葉を聞いた瞬間、シュヴァルは自分の頬を流れる暖かな感触を覚えた。

 何かと思い、右手をあてれば、透明な液体が付いていた。

 初めそれが何なのか分からずに呆然とした。しかし、それが涙だと理解した瞬間、愕然とした。


 自分にも涙が流せるのだと知ったとき、押し寄せる悲しみにシュヴァルは声を上げて叫んでいた。

 そう。泣くのではなく、叫んでいた。

 涙を流しながら、地面を叩き、草を掴み、叫んでいた。

 慟哭――だった。


 分かっていたのだと、泣きながら懺悔する。

 胸の内で懺悔する。

 今も昔も、自分は常に自分のために行動して来たと。

 シルバーラビットのためだと言っておきながら、その実すべて、自分を正当化するためにやって来たことだったと。

 シルバーラビットは常に自分によって振り回されて、傷つけられて来たのだと。

 シュヴァルと出会ってしまったら最後、自らの存在が消えることを知っているのかと言うことをシルバーラビットは知らない。


 だとしても、シルバーラビットなら、知っていても会いたいと、迎えに来てほしいと言うだろうと言うことは知っていた。

 知っていて、先延ばしにしていた。何度も何度も繰り返し絶望させて、孤独の檻に閉じ込めた。

 だが、それはシュヴァルの我が侭だった。消し去りたくないと言う我が侭だった。


「解ったら、さっさと覚悟を決めなさい。

 シルバーラビットが待っているのは私じゃない。あなたなのよ!」


 直後、シュヴァルは聞いた。

 弱弱しい声で自分の名前を呼ぶ声を。シルバーラビットの助けを求める声を。


「もう、良いじゃない。孤独な振りをするのは、やめなさいよ」


 その柔らかな声に促され、シュヴァルは目を閉じ、頷いた――


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