微笑みを数える日
野森ちえこ
笑顔ひとつ、微笑みひとつ
くだらない短気を起こし、人を殺したおれの父は刑務所に送られた。ネットで、リアルで、見ず知らずの人間たちからあびせられる、正義という名の悪意にたえきれなくなった母は失踪。十歳で家族を失ったおれは、母方の伯父夫婦に引きとられることになった。その瞬間から、おれは厄介者になった。
殺人犯の子どもに、世間はやさしくない。
身内はもっと、やさしくない。
そんなに邪魔なら、施設にでもいれてくれればよかったのだ。けれど、なにより世間体を気にする伯父たちは『かわいそうな子どもの面倒を見ている立派な自分たち』を演出するためだけに、おれを手もとに置いた。もちろん、被害者アピールも忘れない。
妹の夫が殺人犯となり、もともと精神的に弱かった妹は、その事実を受けとめられず失踪。両親も心労で倒れた。自分たちにできることは、甥っ子をしっかり育てることくらいだ――と、記者に、近所に、世間に語るのだ。ぬかりなく。涙を器用に流しながら。
それからの日々は、思い出したくもない。
おれはずっと、怒りと憎しみを数えて生きてきたような気がする。父を憎み、母を憎み、理不尽な世間に腹を立てながら、毎日、毎日、抱いた憎しみを心の底に塗りこめて、こみあげてきた怒りを腹の底にとじこめてきた。
頭では理屈にあわないと思うのに、人殺しの血を引く自分に罪悪感を持ってしまう。どんなにひどいあつかいを受けても、心のどこかで『しかたない』と思っている自分がいる。
とじこめた怒りが、いつか爆発するのではないかと怖かった。
塗りこめた憎しみが、いつかあふれ出すのではないかと怖かった。
そしていつか――
自分も人殺しになってしまうのではないかと怖かった。
たとえ世間体のためだとしても、高校まで行かせてもらったことには感謝している。その気持ちが、怒りや憎しみを封じこめてきた。だから、わずかにでも感謝の気持ちが残っているうちに家を出ようと思った。その日を支えに日々をやりすごして、高校を卒業したその日のうちに、おれは家を出た。
行くあてなんてなかった。
頼れる人間なんていなかった。
野垂れ死にするならそれでもいいと思っていた。
気の向くままに電車を乗りついで、バスに乗って、また電車に乗って、名前も知らない町にたどり着いた。コンビニもあるしネットカフェやファミレスもあるけれど、すこし歩くと畑があったりする。そこそこ都会で、そこそこ田舎といった風情の町だった。
フラフラとさまよい歩いているとき、バーのドアにはりつけられているアルバイト募集のチラシが目にとまった。
◇
面倒見のいいマスターだった。住む家がないといったら、店の仮眠室――といっても、古ぼけた簡易ベッドがぽつんとひとつあるだけだったが、部屋を借りる資金が貯まるまで、そこで寝泊まりすればいいといってくれた。あとで聞いたら『ここで追い返したら死んじまいそうな顔してたから』といっていた。否定はできない。
誰もおれを知らないという安心感と、いつバレるかわからないという不安感。そのあいだを行ったりきたりしながら数か月。どうにか安アパートを借りて、ようやく生活が落ちついてきた夏のおわり。
おれは、彼女と出会った。
◇
肩がぶつかったとかぶつからないとか、冗談みたいな理由で因縁をつけられることがほんとうにあるのだと、その日おれは身をもって知った。
これまでずっと、誰にからまれても『殺人犯の息子』として背中をまるめてきた。でも、この町ではそんな必要もないのだと思ったとき、頭か腹か、自分の中の、どこかでなにかがキレた。
ただ、相手が思ったより強かった。いや、おれが弱かったのか。殴られたことはあっても、殴りあいなんてしたことがない。見るからにケンカ慣れしていそうなチンピラ相手に勝てる道理がなかった。つまり、ひとことでいえばボコボコにされた。深夜、人どおりのたえた路地裏のゴミ捨て場で、おれはゴミになっていた。
だが正直、すこしホッとしていた。あの瞬間、確かになにかがキレた。もしも相手が弱くて、あのまま我を忘れていたらどうなっていたか。あまり、考えたくない。だから、これでよかったのだと、朦朧とする意識の中で安堵していると、腕か肩か、そのあたりをツンツンとつつかれた。
◇
女の子だった。たぶんおれとおなじ年ごろの、ひどく暗い目をした女の子が、無表情にこちらをのぞきこんでいた。はじめて会ったのに、おれはその目を知っていた。伯父の家で、鏡を見るたびこちらを見返してきた目とおなじだった。きっと彼女も、見えないところが傷だらけなのだとぼんやり思った。
ひとりでは動くのもままならなかったから、彼女の肩を借りてどうにかアパートに帰った。
彼女は黙って傷の手あてをしてくれた。それからすぐ、おれはほとんど気を失うように眠ってしまったのだけど、朝になっても彼女は部屋にいた。壁ぎわで、抱えた膝に顔をうずめて眠っていた。
◇
彼女は『キミカ』と名のった。それ以上のことは話そうとしなかったし、おれも聞かなかった。聞いてはいけないような気がした。なによりおれ自身、彼女に教えたのは『
おれが名前以外で唯一たずねたのは『帰らないの?』ということだけだ。
もっとも、数日たっても帰るそぶりすら見せなかったから想像はついていた。いちおう、念のために聞いてみただけである。返ってきたのは『帰る家がない』というもので、思ったとおりの答えだった。
◇
キミカは、いつもおびえていた。ほとんど動かない表情の中で、目だけがおどおどと揺れていて、ひとつ言葉を口に出すたび、ひっそりとおれの顔色をうかがっていた。
おなじだった。
事情はわからない。彼女になにがあって、どんな目にあってきたのかも知らない。ただ、捨ててしまいたいほどの過去があって、その過去に、心をボロボロにされてきたのだということだけは、はっきりとわかった。
おそらく彼女のほうも、おれが同類の人間だと感じていたのだと思う。お互いのことなどほとんど知らないまま、いつしかすがるように求めあって、感じあって、抱きあうようになった。
そうして一か月もすぎたころ。
キミカは姿を消した。
◇
数日前から、どこかようすがおかしかった。どこがどうとはいえないくらいの、微妙な違和感。特にその日は、仕事に行くのも不安になるくらいだった。どうにも胸が騒いでしかたなくて、深夜だったけれど、店から部屋に電話をかけた。出なかった。何度かけなおしても、何度鳴らしても、キミカは出なかった。
ほとんど一方的に早退を告げて店を飛び出した。全速力で戻ったアパートに、やはりキミカの姿はなかった。もともと荷物らしい荷物を持っていなかった彼女はたぶん、おれと出会ったとき、死ぬつもりだった。
だめだったのか。ほんのすこし、そのときを引きのばしただけだったのか。おれじゃ、彼女の気持ちを変えられなかったのか。そんな思いに脳内が占領された。
走って走って、走りまわって、なんでこんなに必死になっているのか、自分でもよくわからなかった。名前しか知らない。ただ、通りすがりに身体を重ねただけの関係といってもいいくらいなのに。理由も理屈もない、いつのまにか、もう勝手に、大切になっていた。
公園、商店街、住宅街、闇雲に捜しまわって、ほんとうに、なにひとつ彼女のことを知らない自分に愕然となった。
◇
どこにもキミカの姿はなかった。それでも、あきらめられなかった。足は勝手に動いて、目は勝手に周囲を捜して、気がついたら、キミカと出会った、路地裏のゴミ捨て場にきていた。
そして――
膝を抱えてうずくまっている人影をみつけた。
◇
――ケンちゃんて、呼んでいい?
アパートへの帰り道で、
部屋に戻って、ひと晩かけて、いろいろ話した。いろいろ聞いた。
おれの親のことも、ぜんぶ話した。
彼女が心身に受けてきた暴力のことも聞いた。
人よりすこしおっとりしている彼女は、親に、恋人に、見ているだけでイライラすると怒鳴られ殴られ虐げられてきたという。はじめて会った日、家を捨ててきた彼女はやはり死ぬつもりだったらしい。
これ以上一緒にいたら、きっとおれのこともイライラさせてしまう。だからそうなる前に、おわりにしようと思ったのだと、君花はポツポツと話してくれた。
おれたちは、ただ相手の話を聞いた。
気にするな、なんていわない。
忘れろ、なんていえない。
ただ、話した。
ただ、聞いた。
手をにぎって、抱きあって、すこし泣いた。
それから約一年――
夏まっさかりの八月。彼女のはじめての誕生日を迎えた。ケーキとプレゼントを用意してお祝いしたのだが、よろこびかたを知らない彼女は怒ったような顔をして、最後は混乱したのか泣き出してしまった。
それでも、彼女はもう、おれにおびえていない。
ほとんど動かなかった表情が、この一年ですこしずつ動くようになって、最近では、かすかな笑顔を見せてくれるまでになった。微笑みというには頼りない、ほんとうにかすかな笑顔だけれど、おれにとってはかけがえのない笑顔だ。
おれはもう、怒りも憎しみも数えていない。
「キミちゃん、今度の週末、花火大会行こうか」
「花火大会」
「うん。屋台もいっぱい出るし、きっと楽しいよ」
ちいさくうなずいた彼女の表情が、わずかにやわらかくなる。
微笑みというには頼りない、彼女の笑顔。
今日も見られたことがうれしい。
笑顔ひとつ。
微笑みひとつ。
一日一日、ひとつひとつ、ふたり一緒に増やしていけたらいいと思う。そしていつか、心から笑えるように、顔じゅうで笑えるようになったらいいと、そう思っている。
(おわり)
微笑みを数える日 野森ちえこ @nono_chie
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