六.「兄」

 静寂の中で突然聞こえた声に、清志朗は顔を上げた。

「今のは、東子ちゃんの声?」

 屋敷の方から聞こえてきた悲鳴は確かに従妹のものだった。清志朗は少し不安になった。今の悲鳴はただ事ではない。きっと東子に何かあったのだろう。見に行ってみようか。そんなことも思ったが、清志朗はすぐに頭を振ってもとの体勢に戻った。あの子は自分と違って強い子だから、きっと大丈夫だろう。それに、自分はここに来てからもう何度も彼女を傷つけている。今更戻って心配したところで、きっと弁解にもならないだろう。

 清志朗は深くため息をついた。一体、どうしてこんなことになったのだろう。清志朗は屋敷に来るまでのことを遡ってみた。ここに来てからまだ数時間しか経っていないはずなのに、もう何年も前のような気がして思い出すのが困難だった。確か、夏休み前、あの件のことでふさいでいた俺に、気晴らしにと友人が紹介してくれた植物園に、夏休みですっかり暇を持て余していた従妹を誘って行ってきて、その帰りに道に迷ってしまい、ここにたどり着いたのだ。あの時、屋敷に寄り道などせずにすぐに戻っていれば、こんなことにはならなかったのだろう。しかし、なぜかあの時、すぐに屋敷を離れることができなかった。足が、ここから立ち去ることを拒んでいるかのようだった。自分はここに来るべきだったと……。

 そこまで考えて、清志朗は強制的に思考をストップさせた。そんなことは言い訳に過ぎない。どう言い繕おうとも、結局、自分の行動が今のこの現状を作り出していることに変わりはないのだから。そう、何もかも、

「何もかも、俺のせいじゃないか……」

 清志朗は自棄になりそうだった。どうして自分はこんなに愚かな、人を傷つけてしまうようなことばかりしてしまうのだろう。何かあると、すぐ目の前のことで頭がいっぱいになってしまって、そのせいで他人がどのような状況になっているのかなど少しも分からなくなってしまう。その上、そのことで例え他人が傷ついたとしても、真っ先に自分の保身を優先させる。自分が一番傷つかずに済む手段を取る。なんて醜いエゴイストなのだろう。それに引き換え、東子は、自分とは全く逆の人間だ。血縁であることを感じさせないくらいに。

 清志朗は先程怯えた顔で東子出て行ったほうを見つめた。清志朗は東子のことが好きだった。といっても、恋愛感情を抱いているわけではない。むしろ、一人っ子の清志朗にとっては本当の妹のような存在だった。清志朗は、東子の際限のない純粋さが好きだった。あの子は自分と違って心から真っ直ぐな子どもだった。清志朗はそんな東子を羨ましく思っていたし、あの子と接しているだけで、自分の罪が許されるような気持ちになるのだった。清志朗は、東子が自分のことを好いていることを知っていた。彼女の気持ちに答えてあげることはできないが、彼女自身の気持ちや、彼女が自分を頼ってくれているということは素直に嬉しかった。特に、今の清志朗にとっては感謝したいくらいだった。しかし、自分があの子を傷つけてしまったので、それももう清志朗の心の支えにはなり得なかった。いや、もとより、罪人である自分に、彼女を頼る資格などなかったのだろうか。

 清志朗は机の上に置いてある山積みの本に目をやった。そこには資料や文献のほかに、このハウスの持ち主の手記も置かれていた。清志朗はこの手記をここに来たときに見つけ、一通り中身を読んでいた。それには、この屋敷が元監獄だったことのほかに、著者の父親のこと、このハウスに訪れてからの自身についてのことなどが細かに書かれてあった。

「罪人である俺にとって、この場所はまさにお似合いだな」

 清志朗は蝋燭の明かりを頼りに辺りを見回した。ハウス内は、昔、麻薬開発に使われていたであろう植物達が所狭しに生い茂っていた。その時、清志朗の視界の隅に見覚えのある花が束になって咲いていた。この屋敷に足を踏み入れる原因になったといってもいい、あの時計草だった。そこに咲いている時計草の針も、他と同様の時刻を指していた。清志朗があの日から最も忌み嫌っていた時刻、四時十分三十秒を。

 東子の目の前に立っている人の目は、生気はないが、焦点はあっていた。東子は、まるで今の言葉が自分に向けられたものだと気づいていないかのように、ぽかんとしてその人物を見つめていた。そんな東子を見て、男性は小首をかしげた。

「どうしたのかね、お嬢さん。ボーっとして」

 もう一度声をかけられ、東子はようやく彼の言葉が自分に向けられているということを実感した。

「あ、あなた、喋れるの?」

「もちろんだとも。幽霊だって話すことはできるさ。動物や赤ん坊ではないのだからね。といっても、人と話すのは何十年かぶりだが」

 男性は笑みを浮かべながら、わざとらしく大きく頷いて答えた。その人は会話することが嬉しくて仕方がないようだった。東子は幽霊という言葉を聞いて、顔を青ざめたが、その人が陽気そうに話すからか、不思議と怖さはなかった。東子は改めて男性の姿をよく見た。身体が半透明になっているため、見にくくはあるが、なんとか容姿を捉えることはできた。その人物はまだ三十代くらいだったが、どこか品のある雰囲気を感じさせていた。目の下にクマが見えたが、顔の形は整っていた。生前は結構女性に人気があったのだろうということが安易に想像できた。東子は彼をどこかで見たような気がしたが、ここに来てからは、現実でも夢ででも見た記憶がなかった。

「あの、あなた誰? ここに住んでた人?」

「ん? 私のことを知らないのか? ああ、そうか。君は私の目で見ていたから、私の顔が分からないのだね。私は、この屋敷の主だよ。この屋敷を建て、家族や使用人たちを殺した張本人だ」

 東子は主人の淡々とした自己紹介に目を見張った。この人が、あの……。彼をよく見てみると、玄関の肖像画と似ていた。どこかで見たことがあると感じたのは、そのためだったのだ。東子は目の前の人物の正体が分かった途端、忘れていた恐怖を思い出し、足が震え出すのが分かった。この人物が一体何をしたのか、東子は実際に体験して分かっていた。

 主人はまるで東子の心を見透かすように目を細めた。

「私が怖いか?」

 乾いた声で発せられたその言葉に、東子はまさに心を読まれたように感じ、一度大きく身体を震わせた。主人は続けた。

「まあ、それも仕方がないことだ。あのような所業を目の当たりにして怖れない者などいないだろうからね。しかも夢とはいえ、君は私に成り代わって、実際に殺戮を行ったのだ。無理もない」

 東子は、確かに目の前の人物が恐ろしかったが、それよりも気になる疑問が一つあった。

「ど、どうして私があの夢を見たことを知ってるの?」

「それはもちろん、私が君に見せたからだよ。私自身の経験をね」

 東子はどう答えていいか分からなかった。夢を見せた? 自分が経験したことを? そういえば、先程、私が自分の目で見ていたとか、言っていた。幽霊はそんなすごいことまでできるのだろうか。

「他の者ができるかは分からないが、私はできるみたいだな。ああ、だが、心を読み取ることはさすがにできないから安心したまえ。ただ、君は思ったことがすぐ顔に出るみたいだから、何を考えているかは手に取るように分かってしまうのだよ」

 東子は、また心を読まれたのかと思ったが、そうでないことに安堵したと同時に恥ずかしくもなった。東子は恥ずかしさを隠すために話題を逸らした。

「ほ、他の人たちも話したり、何かしたりすることができるの?」

「他の人とは、使用人たちのことかい?」

 東子はこくこくと頷いた。

「さあねえ。私は死んだ後、一度も彼らと接してはないからね。彼ら同士では話ができるのかもしれないが、どうも私とはできないみたいでね。一度近づいてみたが、私のことなどまるで視界に入っていないようだったよ。まさに幽霊のように屋敷内を黙々と彷徨っているだけのようだ。彼らにはきっと君のことも見えてはいないのだろう」

 主人は少し寂しそうにそう言った。

 確かに、東子も彼らを見たとき、目の前の主人のように目が合うどころか、生気すら感じられなかった。東子は彼らに出会ったときのことを思い出して、また寒気がしてきた。

「彼らが死んでもなおここに留まっているかは分からない。皆寝室で殺したから、間違えて起きてきてしまったのかもしれない。しかし、なんにせよ、私のせいであることに変わりはないだろうな。彼らは屋敷がなくなれば、きっと楽園に導かれることだろう。だが、私はそうはいかない。私は罪人だからね」

「罪人……だから?」

 東子は主人の言っていることがいまいちよく分からなかったが、罪人という言葉に妙な心苦しさを感じた。清志朗の口からも聞いた言葉だからだろうか。

 主人はまた物憂げに微笑みながら頷くと、独り言のように話し始めた。

「この屋敷が建つ前は監獄があったことはもう知っているだろう。そう、私の父が館長を務め、麻薬開発の実験を行っていたところだ。そして、ここには罪を償おうと多くの者が訪れた場所でもある。しかし、ほとんどの者は罪を償うどころか、哀れな実験体となり、罪を許されることもなく死んでいった。このことは、私も命を絶ってから知ったことなのだが、ここには、罪を償おうとする囚人達の念が積み重なり、滞っているのだよ。それは人が想像するより、重く辛いものだ。すでに呪いと言ってもよいだろう」

 呪いという言葉を聞いて、東子は背筋が凍った。知らなかったとはいえ、今までそのような場所を平気でうろついていたとは……。東子は胃が縮み上がりそうになった。東子が感じていた空気の重さはその呪いのせいだったのだろうか。そう思うと、だんだん気味が悪くなってきた。まさか、もう自分も呪われてしまっているのでは……。

 そんな東子の心をまた読み取ったのか、主人がフォローするよう付け足した。

「そんなに怖がらなくても良い。この呪いは罪人にのみ効果をもたらすようでね。この場所に足を踏み入れた罪人は、己の罪を償うまでここを離れることはできなくなってしまうのだ。君も見ただろう。ここに来てから起こった不可思議な現象と、それに対するあの青年の異常な反応を。あれは、すべてこの呪われた屋敷が――あるいは場所が――罪人であるあの青年に罪を償わせようと起こしたものなのだ」

 罪人である青年……。それは間違いなく清志朗のことだと分かった。東子は未だに清志朗が罪人だとは信じたくなかったが、確かに、東子はその不可思議な現象に心当たりがあった。不自然な形の雄しべを持つ時計草、その雄しべと同じ時刻で止まった柱時計、そして、浴室の鏡に書かれた不気味な文字。これらはすべてこの屋敷の呪いによるものだったのか。もしかしたら、書斎で見つけた新聞も関係しているかもしれない。しかし、その事実は、清志朗が罪人であることを誇示しているようなものだった。東子は、自分が呪われるのはもちろん嫌だが、清志朗が呪われているということも、まるで自分がそうであるかのように恐ろしく感じた。

 そんな東子の心境を知ってか知らずか、主人は続けた。

「しかし、私は自分の罪を償う前にここで命を絶ってしまった。だから、私の魂は呪いによってこの場に閉じ込められてしまったのだ。私は、楽園はおろか、地獄にも行くことができず、未来永劫この場に残ることになる。例え屋敷が崩壊したとしても、この土地がある限り、私がこの場から解き放たれることは永遠にないだろう」

 主人はようやくそこで話すことをやめた。東子はそれを聞いて、つい先程まで恐ろしく感じていたはずの目の前の人物が、急に可哀想に思えてきた。この人の話が本当ならば、この人はずっとこの屋敷の中で孤独に過ごしてきたのだろう。もう罪を償うことも出来ず、自分が手にかけた意識を持たない使用人達と共に。東子ならばそのような状況にはきっと耐えられないだろう。しかし、この人はずっと耐え続けてきた。そして、これからも耐え続けなければならない。そう考えただけで、東子は悲しくなってきたが、それと同時に別の不安が脳裏に浮かび上がった。そのことを思うと、東子は今すぐにでも目を逸らして逃げ出したくなるくらい怖くなったが、どうしても聞かずにいられなかった。

「も、もし、清志朗お兄さんが罪を償わなかったら、どうなるの? あの人も、その、あなたみたいになっちゃうの……?」

 主人は少し考える風を装っていた。東子は、自分の発言で主人の機嫌が悪くなったかと不安になったが、やがて、東子の言葉になど微塵も気にしていないかのように口を開いた。

「必ずしも私のようになるとは限らないだろうな。彼がどういう結末を迎えるかは、彼次第だろう。ただ、私は、もう随分多くの罪人がこの屋敷に引寄せられて来るのを見てきたが、まともにここから出られた者は、私が見ていた限りではただの一人もいなかった。いずれの罪人も、正気を失って発狂するか、もしくは庭から続いている森の奥で自殺するかのどれかだった」

「じゃあ、清志朗お兄さんも……」

「可能性は大いにはあるだろうな」

 発狂か自殺……。東子は清志朗がそんな風になるところなど、想像できないし、したくもなかった。しかし、主人の言っていることが本当なら、清志朗は……

「そんな……そんなの嫌! ねえ、本当に清志朗お兄さんは罪人なの? 勘違いしてるってことはないの? この間、似たようなことをテレビで見たもの! 何か事故に巻き込まれて、本当は違うのに、自分のせいだって思い込んでるだけで……」

「いや、彼が罪人であることは紛れもない事実だ。この屋敷に訪れたのが何よりの証拠だ」

 主人はやけに淡々と答えた。しかし、東子はまだ食い下がった。とにかく、清志朗が罪人であるという事実を否定したかった。

「じゃあ、私は? 私が罪人ってことはないの? ここに来たっていうことは、そういうことでしょう?」

「いや、君は違う。君はただ単に巻き込まれただけなのだ。彼にね」

「どうして、そんなことが分かるの?」

 儚い希望が消えてうな垂れている東子とは反対に、主人はやけに穏やかな笑みを浮かべていた。

「私自身がそういった存在だからか、私は人の魂の色が見えるのだよ。そして、お嬢さんの魂はとても清らかで純粋だ。私が殺してしまった使用人達と同じように。彼らの魂の色はとても綺麗なブルーだっただろう。君の魂も彼らと同じ色をしている。私を見たまえ。罪人にはお似合いの、薄汚れたグレーだ」

 そう言って、降参したように両手を挙げた。確かに、主人を覆っている光はぼんやりとした灰色だった。そして、使用人たちが青い光を纏っていたところも確かに見た。東子は今にも泣き崩れてしまいたかった。

「清志朗お兄さんも、そんな色なの?」

 東子は震える声で呟いた。東子の言葉は聞こえていただろうに、主人はすぐに答えようとはしなかった。清志朗の魂の色を思い出しているのか、それとも本人に直接会っていないから、分からなくて答えられないのだろうか。ほどなくして、主人は疑問の念を拭いきれないといった様子で答えた。

「確かに、彼の魂はグレーだ。それに間違いはなかった。だが……私のそれとは少し違ったのだ。なんというか、白に近いグレー、とでも言おうか。とにかく、彼の魂は私やこれまで私が見てきた罪人のように一定した色ではなく、揺らいでいて定まっていないのだ。あのような魂は私も初めて見る。それが彼の気質なのかどうかは分からない。しかし、今までとは違うそれが、どうも気になってね。彼に近づいてみることにしたのだ。私は彼に話しかけてみたが、彼には私の姿は見えないようだった。だが、彼は一人で何かを呟いていた。私は、それを一部始終聞かせてもらった。彼は自分が犯した罪を、後悔したり、否定したり、言い訳したりしていたが、とにかく、この屋敷の呪いに囚われていたことははっきり分かった。私は、やはり彼もまた今までの罪人たちと同じなのかと、気落ちしかけた。しかし、話を聞いているうちに、少しおかしなことに気づいた。私は、彼がハウスで君に自分の罪を告白していたときもあの場にいたのだが、その時に聞いた話の内容と彼の独り言では若干の違いがあったように思えたのだ」

「それってつまり、さっき清志朗お兄さんが聞かせてくれたことが本当のことじゃあないってこと?」

 東子は胸から期待が滲み出てくるようだった。

「いや、確かに、彼が友人を殺してしまったのは本当だろう。しかし、あれが事実のすべてではない。私が聞いていた限りではね。しかし、彼の口ぶりから察すれば、おそらく間違いはないだろう」

 東子は清志朗が殺人犯であるという事実がまぎれもない真実であったことにショックを受けたが、それでも、まだ彼を救う手立てがあるのなら諦めたくはなかった。

「一体、清志朗お兄さんに何があったの? 聞かせて! 私、本当のことが知りたい! 絶対に救うって決めたから……だから!」

 東子は主人に懇願した。主人は、しばらく東子を見つめていたが、やがて、顎に手をあてて尋ねた。

「君はなぜそこまで彼のことを想っているんだね? 君だけならここから出られるかもしれないのに。君は彼のことを兄と呼んでいたが、兄妹なのかね? それにしてはあまり似ていないが……」

 東子はいきなり話を変えられたことに驚き、とっさに言葉が出なかった。

「清志朗お兄さんとは、い、従兄妹同士なの。でも、清志朗お兄さんだけ置いてここから逃げるなんて出来ない! だって、私、清志朗お兄さんのこと、あ、あい……」

「……愛してる?」

 東子の気持ちを察した主人が変わりに答えると、東子は赤面しながらもこくこくと壊れた人形のように何度も頷いた。

「なるほど。それでそこまで……。だが、君は彼とは血縁だろう。それでも、愛してると言うのか? 下手をすれば、その感情自体が罪になるというのに」

「い、今は従兄妹同士だって結婚できるもの! それに、私だって、ちゃんと分かってる。この恋が叶わないってことくらい。でも、それでもいいの。私が清志朗お兄さんを好きなことに変わりはないから!」

 東子が顔を真っ赤にしながらも、自分の正直な気持ちを打ち明けた。そんな東子を見て、主人は一つ頷くと、目を細めて言った。

「やはり君は純粋な子だね。分かった。私が聞いた限りの事を教えよう。ただし、たとえ話を聞いても、決して彼に対する感情を変えたりしないでくれ。どんな事実があったとしても、彼が罪人であることは真実なのだからね」

 東子は、なぜ主人が清志朗のことについて釘を刺したのかは分からなかったが、たとえ何があっても、東子は自分の清志朗に対する想いが変わるとは思えなかった。東子は強く頷いた。

 あれは、ちょうど春から夏に変わる頃だった。この頃は、大学四回生ならば、もう卒業論文のテーマが決まっていなければいけない時期だったが、俺は未だに納得のいくものが浮かばず、焦りを募らせていた。いくつかテーマを絞り込んではみたが、どれも本当に取り組みたいと思えるものではなかった。このままでは大学院に行くこともできなくなってしまうという不安が何度も頭をよぎったが、そんな不安に掻き立てられてもなお、何のアイデアも浮かんで来ることはなく、時間だけが過ぎていった。

 平石の論文のことを教えてくれたのは、同じ学部の池谷だった。池谷は大学でよく一緒に行動する友達で、俺の卒論のことについても話し合ったり、相談に乗ってくれたりした。平石ともそれなりに付き合いはあったが、池谷が平石のことを嫌っていたためか、あまり交流はなかった。池谷がなぜあんなにも平石のことを嫌っているのかは分からなかった。性格が合わないとか、勉強できますって態度が鼻につくとか、いろいろ平石に関しての愚痴を聞かされたことはあったが、どれも格別納得のいく理由ではなかった。論文のことを俺に言ったのも、きっと嫌みのつもりだったのだろう。しかし、その時の俺にはそれが悪魔の囁きにすら聞こえた。平石の論文のテーマは、まさに俺がやりたいと思っていたものそのものだった。池谷がその話をしている間、俺は友人のたわいのない愚痴を聞く振りをしていたが、内心では平石と論文のことで頭がいっぱいだった。できればすぐにでも平石のところへ駆けつけて行きたかった。行ったからといって何がどうなるわけでもなかったのだが。

 次の日、俺は早速平石を見つけると、例の論文を見せてくれるよう頼んだ。平石は、まだ半分くらいしか論文を仕上げてはいなかったが、快く見せてくれた。この男は頭の良さで人を比べるタイプの人間だった。俺に少しも警戒心を抱かなかったのは、俺が自分と同じ頭の良い人間だと思っていたからかもしれない。どちらにしろ、俺にとっては好都合なことだった。平石が優秀だということが口先だけではないことは論文の内容が表していた。その出来はさすがに素晴らしいものだった。俺はますますこの論文が欲しくてたまらなくなった。

 その日から、俺は平石とその論文のことしか考えられなくなった。平石の姿を見かけると、もう提出したのだろうか、テーマを変えてはいないだろうか、などといった無意味な疑問が脳裏に浮かんでは消えた。他のテーマを考えようと、頭を無理矢理それから引き剥がしてみたが、あの論文に比べると、どれもカスでしかなかった。それどころか、頭の中ではすでにあの論文の残りの構成が次々に作られていった。

 俺は数日の間、人の論文で己の論文を作ろうとする自分とそれを阻止しようとする自分を葛藤させて過ごした。しかし、いつまでもそんなことで時間を潰すわけにはいかないので、俺はとうとう池谷に相談してみることにした。しかし、それがいけなかった。池谷は平石を嫌っているのだ。嫌いな奴の肩を持つ人などそういはしない。池谷は話を聞くと、あまりにあっさりと、

「盗っちまえば?」

 と、悪びれもせずに言った。俺はさすがにそれは出来ないと断った。でなければこれまでの葛藤が何の意味も持たなくなってしまう。しかし、それで話が終わるどころか、池谷はイタズラ仲間を見つけたかのような顔をして囁いた。

「大丈夫だって。たまたま論題が同じになったって言えば誰も疑わないし、それに清があいつよりも早く論文を仕上げて先に提出しちまえば、盗ったのは向こうってことになる。だろう?」

 その言葉は、これまでの俺の葛藤を無意味にさせるには充分だった。更に池谷は、俺にとどめを刺すように言った。

「それに、こういうのは早い者勝ちなんだからな」

 早い者勝ち……。それを聞いたとき、俺の中から、自分を抑制する力も、理由も消えてなくなった。

 俺は、過労で倒れる勢いで論文を仕上げていった。以前は、頭の中で論文を構成していたときの自分に嫌悪感を抱いていたが、今は事前に考えていて良かったとすら思えた。そうして、俺はなんとか平石よりも早く論文を仕上げることが出来た。途中で、何度も自分がしていることがどういうことか思い起こされたが、そのたびに池谷の言葉を思い出し、自分を納得させた。教授に見せたとき、随分早いと驚かれはしたが、それでも良い評価をもらえたので、自分の中の罪悪感は次第に薄れていった。しかし、やはりそれで終わることはなかった。

 異例の早さで論文を仕上げた俺は連日、暇な時間を過ごしていた。その日の休みも、俺は得にすることもなく、時間を持て余していた。一本の電話が鳴るまでは。

 その電話は平石からのものだった。携帯の表示画面を見たとき、俺はビクリとした。ここしばらく平石とは顔を合わせていなかったので、その連絡は随分久しいものだった。しかし、だからこそ、急に連絡してきたことに恐怖を覚えた。出ないでおこうとも思ったが、余計に怪しまれるかもしれないと、覚悟を決めて出ることにした。なるべく平常心を装って電話に出ると、平石はあいさつもほどほどに、無機質な声で早口に捲くし立てた。

「今すぐ、ゼミのクラスに来てくれ。聞きたいことがある。時間がかかってもいいから、すぐに向かってくれ。俺はずっと待ってるから」

 平石は一方的に自分の用件だけ伝えると、俺の返事も待たずに電話を切った。このことだけでも、平石の様子がおかしいということは容易に想像できた。普段なら、そんな変化に特に気にすることもなく、自分勝手だと文句の一つでも言うところだが、この時は違った。俺の中で、忘れかけていた不安や罪悪感がドッと押し寄せてくるのを感じた。俺はすぐに、電話に出たことを後悔した。しかし、後戻りはできない。平石はずっと待っていると言っていた。きっと本当に俺がそこに行くまで待っているつもりなのだろう。いつまでも。俺は深い息を一つ吐くと、重い足取りで学校に向かった。まるで、死刑台に向かう死刑囚のような気分だった。

 その日は特に暑い日ではあったが、ちょうど一番気温が高い時間帯でもあったので、学校に着くころには俺は汗だくになっていた。暑さとそれによる疲労で、俺は自分が何しに学校まで来たのか一瞬分からなくなった。教室に入ると、平石が奥の窓枠に寄りかかって、外を眺めていた。それまで落ちるだけ落ちていた俺の心持ちは、平石を目の前にした途端、急に浮上してきた。俺はせっかくの休日に呼び出されたことに腹を立てているという風に装って話しかけた。

「何の用だ、急にあんな電話をよこして」

 平石は俺が話しかけても、こちらに振り向くこともなく、黙ったまま窓際に突っ立っていた。

「おい、平石。聞いてるのか?」

 俺はもう一度話しかけてみたが、それでも平石は何の反応も示さなかった。俺は平石に歩み寄った。半ば怒鳴りながら目の前の男を呼ぶと、そいつはようやく動き出した。

 平石は感情のない目で俺のほうを一瞥すると、左腕に光るロレックスに視線をやった。

「三時四十九分。思っていたより早かったな。一応罪の意識はあるってことかな」

「は? 何を言ってるんだ?」

 平石は質問には答えず、ただじっと無表情で俺の顔を見つめていた。教室は締め切っていた上、冷房もついていなかったので蒸し暑かった。そのせいもあって、俺はだんだんイライラしてきた。

「用がないんなら帰るぞ」

 そう言うと、俺は踵を返して出て行こうとした。しかし、平石はすばやく俺の腕を掴んで言い放った。

「俺のを盗っただろう」

 全身に冷水を浴びせられたような感覚だった。

「な、何言ってるんだ? 一体何の……」

「俺はお前にしか見せていない。だから、盗ったとしたらお前しかいないんだ」

 平石は俺が言い終える前に、顔を引き寄せて威圧するように言った。よく見ると、平石の目の下にはうっすらとクマができていた。その表情がやけに恐ろしく感じ、逃げるように腕を振り払ったが、平石は逃がすまいとでも言わんばかりに強く腕を握り締め、頑として離そうとしなかった。それでも俺はできるだけ距離をとろうと限界まで引き下がった。

「だから、一体何のことだよ!」

 平石はまるで俺の心でも覗こうとしているみたいにじっとこちらを凝視していた。俺は本当に心を覗かれているような気分になり、慌てて目を逸らした。平石は一瞬眉をひそめると、ようやく俺から視線をはずした。

「昨日、俺は自分の論文のことで教授に相談したんだ。その時、教授が俺になんて言ったと思う? 俺の論文は、つい先日提出されたお前の論文と酷似していたんだと。テーマが同じならばともかく、ここまでそっくりなのはおかしい。俺がお前の論文を真似たんじゃないかと、そう言ったんだ。本当は、お前の論文が俺の論文に酷似していたのに。お前が俺の論文を真似していたのに!」

 最後の方は、ほとんど怒鳴りつけていた。その勢いに飲まれて、俺は最初何も言えなかったが、なんとか気を持ち直して冷静さを装った。

「俺は、お前の論文を真似てなんかいない。たまたまテーマと内容が同じになっただけだろう。文学じゃあないんだから、結論が同じになったって……」

「教授がおかしいって言ったんだ!」

 平石は唾を撒き散らしながら、またもや自分の言葉で俺の言葉を遮った。

「まだ白を切る気か。もう分かってるんだよ。お前が俺の論文を盗作したんだろう。知ってるんだぞ。お前が、俺が論文を見せるまで論文のテーマが決まってなかったってこと。それなのに、誰よりも早く論文を仕上げるなんて。あまりにも不自然だろう。テーマすら決まってなかったっていうのに!」

 もう言い逃れは出来なかった。俺は自分のしたことを認めざるを得なかった。しかし、今更弁解したところでどうにもならないということも事実だった。俺は自分には非がないことを主張し通すしかなかった。

「そんなことを言われても、もう出してしまったんだからどうしようもないだろう。俺はお前の論文を真似してなんかいないし、それでも、お前が俺を責めるんだったら、俺より先に論文を提出してしまえば良かったんだ。こういうのは早い者勝ちなんだから」

 俺の最後の言葉に、平石は目を見開いて、腕を掴む力を強めた。その力があまりに強かったので、俺は痛みで顔をゆがめた。しかし、不意にその力が弱まったかと思うと、また無表情に戻り、教室のドアに向かって歩き出した。俺はまだ腕を掴まれていたので、必然的に引っ張られるように平石について行くことになった。

「お、おい、どこに行くんだ?」

「教授の部屋だ。確か今日は来ているはずだから。これ以上お前と話していても埒が明かないからな。教授にすべて話して、本当はお前が盗作したんだってことを理解してもらう」

 俺はさすがに焦った。教授の前で嘘を突き通す自信はなかった。俺は掴まれているほうの腕を引っ張り、平石を止めた。

「ち、ちょっと待て。俺はやってないって言ってるだろう。それに、下手したら、俺だけじゃなく、お前もあのテーマで論文が出来なくなるかもしれない。それでもいいのか?」

「かまわない。罪人を放置しておくより増しだ。それに、俺はもう一つテーマを考えてある。本当は今のやつで力を入れたかったが、この際仕方がない。お前のせいで、すべてが台無しだ」

 平石は恨むように俺を一瞥した。それを見て、俺は初めてこの男に腹が立った。今この場に池谷がいたら、俺はきっと喜んで池谷に味方しただろう。しかし、カッとなってしまっては余計こちらが不利になってしまうだろう。俺はなんとか怒りを体内に押しとどめた。普段はあまり憤りを感じることはないので、この怒りを抑えるという行為はひどく疲れるものだった。そう思うと、この言い合いをとっとと終わらせて帰りたくなった。

「分かった。じゃあ、俺はあの論文をやめて他のものにする。教授にはもっといい論題が見つかったから、そちらに変更すると言って返してもらうから。平石は今の論題で論文を続ければいい。それなら構わないだろう。だからそうやって罪人扱いするのはやめてくれ」

 俺はため息をついてそう言った。本当にそうするつもりだった。やはり人の褌で相撲を取ったところで、利益なんか得ることは出来ないのだ。あれ以上にいい論題があるかは分からないが、夏休みいっぱいかけてでも探すしかない。

 俺がそんなことを考えている間、平石はずっとあの軽蔑したような目で俺を見ていたが、不意に口を開くと、

「ダメだ」

 と、きっぱりと断った。俺は聞き間違いかとも思ったが、平石の表情を見る限り、聞き間違いではなさそうだった。

「どうして! 一番問題のない解決法だろう。どうしてダメなんだ?」

「例えお前があの論文を取り消したとしても、俺が同じテーマで続けられると本当に思っているのか? すでに俺達二人とも教授に一度見せてしまっているのに。それに、お前が俺の論文を盗作したっていう事実は論文を取り消したって変わることはないんだよ」

 俺は何も反論できなかった。盗作を否定することも忘れてしまっていた。その沈黙を、俺が納得したものと思ったのか、平石はまた歩き出した。連動して、俺はまた引っ張られたが、そのおかげで我に返った。

「ま、待ってくれ。もう少し話を……」

「これ以上は埒が明かないと言っただろう。そもそも、罪人と話をしようとした俺が間違っていた。始めから教授の部屋に連れて行けばよかったんだ」

 俺はまた怒りがこみ上げてくるのが分かった。今度は、抑えられそうになかった。

「その罪人呼ばわりするのは、止めろと言っているだろう!」

 俺はあらん限りの力で平石の腕を薙ぎ払った。当の本人は突然後ろに引っ張られて、バランスを崩し、俺の腕から手を離すと、そのまま肩から窓枠に叩きつけられた。

 俺は謝ることもせず、そのまま平石に詰め寄って、ぶつけた方とは反対の方を掴んで窓に押さえつけた。平石は痛みを堪えながら俺を睨みつけていたが、俺のほうも今までの怒りをぶつけるように睨みつけてやった。俺は悪態の一つでもついてやろうと口を開いたが、その時、何かが外れる音と共に、急に身体のバランスが崩れた。

 それはほんの一瞬のようにも、スロー再生しているようにも見えた。何が起きたんだ、という疑問が頭をよぎったときは、もうすでに終わっていた。

 平石はちょうど真下の地面に転がっていた。教室は四階にあるので、その姿は随分小さく見えた。平石の周りには何かきらきらと光るものが散らばっていた。ひしゃげた窓枠が平石を囲っていて、上から見るとまるで絵画のようだった。

「平石……!」

 俺はようやくこの状況を理解すると、急いで下まで降りた。平石のところに駆けつけた頃には、音を聞きつけたのだろう、すでに何人か集まっていた。

 平石は顔だけを横に向けてうつ伏せに倒れていた。頭部からは血が流れ、地面に広がっていた。左腕に隠されて俺の位置からでは平石の顔はほとんど見えなかったが、怒りを露わにして俺を見つめていたときのように、カッと目を見開いているのは分かった。その目がまるで自分を見つめているように見え、俺は思わず後ずさりした。その時、俺に見せつけるようにこちらを向いている腕時計が目に入った。表面のガラスはひび割れていて、針は動きを止めていた。四時十分三十秒を指し示して。

 清志朗はゆっくりと腰を上げると、時計草に近づいた。あの日から、この時刻を刻んだ時計と自分を凝視する平石の顔が頭から離れたことはなかった。どこにいても、何をしていても、常にあの日のことを考えていた。どうしてあんなに怒ってしまったのだろう、どうして窓にあんなに強く押しつけてしまったのだろう、そんな後悔や疑問が浮かんでは消えた。逃げ口上もいろいろ考えた。窓の建て付けが悪かったからとか、あれは事故で窓側にいたのがたまたま平石だっただけだとか。しかし、一番頭に浮かんでくるのは罪を犯した自身に対する強い責めの感情だった。清志朗は何度も何度も己を責め、罵った。しかし、どれだけ自分を罵倒はしても、事実を誰かに話すことは怖くて出来なかった。池谷にすら話してはいなかった。それがさらに自分を咎める要因となった。

 暗いのと、どこかで落としてしまったのだろう、眼鏡をかけていないのとで、時計草はほとんど輪郭しか分からないのに、針だけはなぜかはっきりと見えた。清志朗はしゃがみ込んで時計草を細かく観察した。植物を見るとじっくり観察してしまうのはもう癖みたいなもので、こうしている時だけは、すべてを忘れることが出来た。

 調べているうちに、だんだん視界がぼやけていくのが分かった。今度は明るさのせいでも視力のせいでもなかった。花びらの上に滴が一粒落ちた。清志朗はそこでようやく自分が泣いていることに気づいた。しかし、それを止めることも拭うこともせず、ただただ時計草を観察するだけだった。そのうちに嗚咽が漏れ出したが気にすることもなかった。

 清志朗は最初に見たときよりも念入りに調べたが、どれだけ調べても、この時計草の奇怪な形の雄しべの原因は分からなかった。この時計草以外のものは写真でしか見たことがなかったが、記憶している限りでは、雄しべの形以外はすべて同じだった。

 清志朗はもう一度雄しべをよく観察してみた。それは相変わらず同じ時刻を差していた。その時、花のすぐ側で、ぎょろりと自分を見つめる目が二つ現れた。恨むような、怒るような目つきをして。清志朗は驚きのあまり尻餅をついた。しかし、その時にはすでに二つの目玉は消えていた。変わりに、何かが鈍く光っていた。清志朗は恐る恐るそれをよく見てみた。それは鉈だった。鉈は時計草の奥にまるで死人のように横たわっていた。

 どうしてこんなところに鉈があるのだろう。清志朗は震える手でその鉈を掴んだ。鉈は錆びた様子もなく、鋭い刃を蝋燭の光で輝かせていた。

 清志朗はもう一度時計草の束を見やった。それが指す時刻はやはり変わってはおらず、まるで清志朗が罪人であることを誇示するかのように咲き乱れていた。それを見ているうちに、また、言い知れぬ憎悪の念が沸々とこみ上げてきた。清志朗は鉈を強く握り締めた。

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