三.「索」

 東子は床に座り込んだまま清志朗が出て行った空間を見つめていた。まるで、清志朗がいつものような穏やかな笑顔を浮かべて戻ってくることを信じているかのように。しかし、彼が戻ってくる気配は一向になかった。

 東子はゆっくり立ち上がると、懐中電灯で前を照らしながら廊下に出た。

 清志朗お兄さんを探さないと……。

 東子は先程の自分に対する清志朗の態度にも恐怖を覚えたが、こんなところに一人でいることの方が東子にとっては怖いことだった。

 東子は一度振り返って浴室の中を照らした。鏡には水滴がいくつも伝ってはいたが、まだ読めるくらいの文字が残っていた。東子はありえない状況で書かれている文字に身震いした。

 罪ってなんのことなんだろう。清志朗お兄さん、何か知ってるのかな。でも、お兄さんが何か犯罪に関わってるなんて考えられない。きっと、急に現れた文字を見て驚いたんだ。きっとそうに違いない。東子は自分にそう言って納得させた。

 一通り廊下を照らしてみたが、人のいる気配はなかった。

 一旦玄関まで戻ろうか考えていると、キイキイという小動物の鳴くような音が聞こえた。東子はビクリとして後ろを振り向いた。廊下の突き当たりに、さっき右側の廊下の突き当たりで見たのと同じようなドアがほんの少し開いた状態でキイキイと音を立てて揺れていた。気味の悪い音の原因が分かり、東子はほっとしたのと同時に疑問が浮かんだ。

 清志朗お兄さんはあっちに行ったのだろうか。東子はゆっくりとドアに近づいた。ドアを開けると、そこはさっき見たようなビニールで覆われた渡り廊下があった。ただ、先程と違って、廊下は入ってすぐのところで左に折れていた。廊下を曲がると、少し行ったところに木製のドアがあった。そのドアも半開きになっていた。東子はドアに近づきながら半透明のビニールから外を覗いた。暗くてよく分からないが、大きめの建物があるのが分かった。廊下はその建物に続いている。離れだろうか。

 ドアは大きな乾いた音を立てて開いた。そこは、東子の学校にもあるような礼拝堂だった。東子は側面から入ってきたらしく、右手に祭壇、左手にドアがあった。

 東子は辺りを一通り見回してみたが、清志朗の姿は見えなかった。光の届かないところにいるかもしれない、と中に入ってよく探してみた。それでも清志朗のいる気配はなった。

「清志朗お兄さん?」

 長椅子に挟まれた真ん中の通路まで来ると、東子は念のため従兄の名前を呼んでみた。返事は帰ってこなかった。

 東子は祭壇のほうに明かりを向けてみた。祭壇の向こうには、磔にされたキリストの像が、ステンドグラスから入り込む薄暗い夜の光を受けて、ぼんやりと輪郭を現していた。

 東子はこういった礼拝堂の光景は見慣れていたが、薄暗い中で見ると全く別の場所のように感じられた。

 その時、どこからか啜り泣くような声が聞こえた。

「清志朗お兄さん?」

 やっぱりここにいるのだろうか。東子は堂内を見渡した。しかし、ふと気がついたことがあった。注意して耳を澄まさないと聞こえないくらいその声はか細かったが、その声質は間違いなく女のそれだった。

 東子はそれに気づいた途端、全身に鳥肌が立つのがわかった。一瞬前までその声がどこからくるのか聞き分けようと必死だったが、今では空耳であってほしいと祈るような気持ちに変わっていた。それでも啜り泣きは、皮肉なことに先程よりもはっきり聞こえた。

「や、やだ……」

 東子は一刻も早くこの場から出ようと、先程入ってきたドアに向かって走り出した。途中で長いすにぶつかりよろめいたが、とにかくここから出ることを優先させた。

 震える手で勢いよくドアを開けて渡り廊下に出ると一目散に屋敷内に駆け戻った。そして、渡り廊下のドアを閉めると、誰かが追いかけてくるのを防ぐようにドアに寄りかかった。肩で息を整えると、ようやく頭が冷静になって、自分のやるべきことを思い出した。

 東子は懐中電灯を持ち直すと、とりあえず玄関まで戻ろう、と慎重にもと来た道を戻りだした。

 歩きながら、東子は異様に空気が重苦しく感じるような気がした。

 さっきまではそんなことなかったのに……。

 その上、なんだか、背後から背中をぐいぐい押されているような感じがした。まるで、屋敷が、自分はここにいてはいけないと言っているようだった。

 玄関までに戻る頃には、東子はひどく疲れていた。ふと、柱時計が目に入った。

「そういえば、清志朗お兄さん、あの柱時計を気にしてたけど、あの時は一体どうしたんだろう」

 東子は柱時計に近づいて注意深く眺めた。時計はアンティーク調の造りで、東子でもかなり高価なものなのだろうということが分かった。文字盤を見ると、壊れているのか、先程見たときと同じ四時十分三十秒で止まっていた。全体的に埃を被っているので、だいぶ前から使われていないのだろう。

「あれ?」

 文字盤をよく見てみると三本の針の形に見覚えがあった。それはまさに、先程見た時計草の雄しべの形だった。清志朗はこれを見て驚いたのだろうか。時計草と同じ形だったから。しかし、それにしてはひどく怯えていたような気がする。

 東子は振り向いて、時計草の生い茂る玄関側に光を当てた。

「もしかして、もう車に戻ってるのかも」

 玄関扉は閉まっていたが、可能性はゼロではない。東子は半ば急ぐように玄関に近づきそっと扉を開けた。力のない東子にはその大きな重い扉は少ししか開けることができなかったが、外を一望するには充分だった。

 先程よりも雨は治まっていたが、未だ止む気配はなかった。車の様子を窺おうとしたが、門付近を照らすライトが見えるほかは、石垣に隠されていて、東子の位置からでは見ることができなかった。門は開いた様子はなく、ピッチリと閉ざされていた。清志朗が車に戻っていたのだとしたら、門は開いているはずなので、おそらく、車には戻っていないのだろう。東子はもう一度屋敷の中を探してみよう、とドアを閉めようとした。

 その時、ある疑問が脳裏に浮かんだ。それが恐怖に変わるのに時間はかからなかった。

「そういえば、敷地内に入ってきたとき、門、閉めたっけ?」

 東子は、その時の様子を思い出そうとした。まず、最初に清志朗が門を開け、中に入り、清志朗が門を押さえているうちに東子が入った。そして、開け放したまま中に入った。

「閉めて、ないよね?」

 東子は、まるでそこに清志朗がいるかのように疑問を口にした。しかし、それに答えてくれる者はいなかった。

 東子はもう一度扉の隙間から門を窺った。鉄の門は二度とここから出しはしまい、と言い出さんばかりに重く、堅く、その口を閉じていた。東子にはそれがまるで檻の一部であるかのように見えた。

 きっと風で閉まったのだ。東子はそう思おうと心がけた。しかし、鉄の門がちょっとした風程度で閉まるだろうか、という疑問がその試みを妨げた。

 東子は急いでドアを閉めると、先程以上に、清志朗を探さなければ、という使命感にかられた。そして、右側の廊下を調べ始めた。

 今度は、さっき見たよりも念入りに一つ一つの部屋を調べていった。食堂のドアも二つ開けたし、キッチン奥の小部屋も丹念に調べた。小部屋の中は物置と食料庫を合わせたような部屋だった。そこには調理に関わるすべてがあるようだった。

 ただ、東子はビニールハウスだけは調べなかった。ここは、清志朗が近寄らない方がいいと言っていたから、というのもあるが、何より、東子自身があの場所を気味悪く感じていたからだった。

 左側の部屋も同じように調べた。戻ってきているかもしれない、と洗面所にも顔を出してみたが、それらしい影はなかった。

 これで、清志朗がいる可能性があるのは、まだ調べていない礼拝堂とビニールハウス、それに二階、ということになった。しかし、礼拝堂はさっきのことを思い出し、どうしてももう一度探しに行く気にはなれなかった。

 玄関まで戻った東子は吹き抜けから二階を見上げた。しかし、懐中電灯を照らしても、下からでは上の様子などろくに知ることができなかった。

 東子は、懐中電灯の光に反射して鈍く輝く手すりに掴まりながら、階段を一歩ずつ踏みしめるように上りだした。

 二階に着くと、習慣のようにざっと辺りを見回した。一階よりもドアの数が多かった。

 東子は左側の階段から上ってきたので、左側の廊下から調べることにした。吹き抜けに面した方の廊下の突き当たりにある部屋に行き着くまでそんなに長さはなかった。歩きながら、東子は何度も床を照らした。そんなわけはないのに、床が抜けないか心配だったのだ。

 最初の部屋はトイレだった。ずっと気を張っていた東子は、それを見て一気に拍子抜けした。

「なんだ、トイレか」

 一階のトイレも調べたが、清志朗はいなかったので、おそらくここにもいないだろう、と考えざっと見てすぐに移動した。

 前に見たトイレのおかげで気の抜けていた東子は、次の部屋を覗いたとき、その部屋の光景に、声にならない声を上げた。

 ドアを開けてすぐのところにベッドが備えてあったが、その白いシーツには赤黒いシミが広がっていた。すぐ横の壁や床にも黒いシミが飛沫のように飛び散っていた。

「こ、これって、もしかして……」

 血……。まさか、清志朗お兄さんの?

 東子は確かめようと逃げ腰になるのを抑えながら、そっとベッドに近づいた。それは確かに血のようだったが、すっかり乾いていて最近ついたものではなさそうだった。

 それが清志朗のものではないと分かり、東子は少しほっとした。急いでその場を去ろうと部屋を出たとき、廊下の奥からガラガラと台車を引くような音が聞こえてきた。東子がとっさに廊下の奥に光を当てると、音は聞こえなくなった。奥のほうは光がぼやけてしまいよく見えなかったが、人がいる様子はなかった。しかし、廊下の半分くらい行ったところに、何かが中庭側の壁に寄せて置いてあるのが目に入った。懐中電灯の持つ手が震えているせいで、それはまるで動いているように見えた。

「だ、誰かいるの? 清志朗お兄さん?」

 東子はゆっくりとその何かに近づいていった。

 近づくに連れて、それがホテルの廊下でよく見るような台車であることが分かった。台車は二段になっていて、一番下には布製のボックスがついていた。おそらく、普段は汚れたシーツをボックスの中に入れて、上の段に乗っている新しいシーツと交換できるようになっているのだろうが、今は台車にはシーツは一枚も乗っていなかった。

 この台車が、動いて音を立てていたのだろうか。ひとりでに?

 東子は辺りをもう一度見渡した。やはり人がいる気配はない。

 その時、急に後ろの方から音を立ててドアの閉まる音がした。東子は驚きのあまり飛び上がりそうになった。すぐに後ろを向き、光を照らしたが、どの部屋のドアが閉まったのかは分からなかった。

 東子は今に誰かが部屋から出てくるのでは、と身構えていたが、急に背筋が寒くなり、それと同時に、今度は背後の廊下の奥から何かが動く音と、布の擦れるような音が聞こえてきた。

 後ろに、誰かいる……。

 清志朗かもしれない。しかし、東子は振り向くのをためらった。もし、清志朗ならば、必ず自分に声をかけてくれるはずだからだ。

 衣擦れの音は段々と大きくなってきているように聞こえた。

 こっちに、くる……。

 東子は恐怖で足ががくがく震えた。心臓が、うるさいくらい早鐘を打っている。まるで冷水を浴びせられているかのように背筋が凍っているのに、首からは汗が滲んできた。

 はっきりと聞き取れるほどの距離まで音が近づいたとき、東子は走り出した。そのまま階段に繋がる廊下に曲がると、急に視界がベールに覆われたような半透明になった。東子はとっさに急停止したが、一瞬それがなんだか分からず呆然としていた。しかし、視界の角度を少しだけ上げると、すぐに、その正体を把握した。

 それは、東子が屋敷に入ってから最も出会うことを怖れていたものだった。青白い皮膚、どこを見ているのか分からない虚ろな目、乾いた唇、そして、どうやってついたのか分からない首の左側から右胸にかけてぱっくりと開かれている大きな切り傷……。

「きゃあああああ!」

 東子は目を見開いて、あらん限りに悲鳴を上げながら、とっさに後ずさりした。しかし、廊下の奥からは衣擦れの音が未だに続いていたので、後ろに逃げることはできなかった。

 東子は目をつぶり、思い切って前に向かって走り出した。

 どこでもいい、とにかくここから逃げなければ。

 目を閉じて走っていたため、当然前は見えず、東子は途中でよろけてしまい、肩を壁にぶつけた。

「いたぁ……」

 東子が肩をさすりながら薄目を開けると目の前にドアノブが見えた。壁だと思っていたのは実はドアだったのだ。東子は隠れるようにドアを開けて中に入った。後ろ手でドアを閉めるとさっきのものが入ってこられないよう力一杯ドアを押して寄りかかった。

 肩で息をしながら廊下のほうに耳を傾けてみたが、何の音も聞こえなかった。

 東子は大きく息をつくと、今見たものに理由をつけようと懸命に努力した。しかし、どう考えても清志朗でも、ましてや生きた人間にすら見えなかった。恐怖からくる見間違いとも考えたが、記憶に残っている映像はあまりにも鮮明すぎた。

 東子は頭を振り、その記憶から逃げるように部屋の中を見渡した。その部屋は東子には見覚えが無かった。おそらく二階の左側の廊下にある一室なのだろう。そこは、今まで見てきたほかの部屋と違ってほとんど家具がなかった。ただ、部屋の中央にベビーベッドが置いてあった。よく見ると、部屋の隅にある箪笥や木箱も可愛い花柄だったり模様がついていたりした。

「ここ、子供部屋?」

 東子はまだ恐怖が抜けきらないまま、アンティーク調の洋室にはそぐわない調度品を眺めていた。眺めているうちに、なんだか今にも子供の泣き声が聞こえてきそうな気がして気味が悪くなってきた。

 その時、ドア越しに廊下から物音が聞こえた。さっきのあれが来たのだろうか、それとも……。

 東子はどこか隠れられる場所がないか探した。しかし、この部屋は家具が少なく隠れられ場所は見当たらなかった。焦りが募るばかりで、一向に良い策が浮かばず、途方にくれていると、左側の壁にドアがあるのに気づいた。ドアは壁の色と同色だったので最初に見たときは気づかなかったのだろう。東子は頼みの綱であるそのドアを開けた。

 そこは寝室だった。部屋の隅に鏡台が置いてあるので、おそらく女性の部屋だろう。この部屋も家具は少なく、鏡台のほかにはベッドとクローゼット、それとベッド脇にあるナイトテーブルくらいだった。ベッドは綺麗にセッティングされていて、鏡台には使われた形跡がなかったが、なぜか、この部屋だけは君の悪さを感じなかった。むしろ清潔感すら漂っているようだった。

 叫んだり走ったりで、すっかり憔悴しきっていた東子はふらふらとベッドの脇に座り込み、ベッドの淵に頭を乗せた。すると、ぼんやりとした明かりに照らされた鏡台が視界に入った。それと同時に視界が滲んでくるのが分かった。

 東子は、今頃家で帰りが遅い二人を心配しているであろう両親のことを思った。

「お母さん……お父さん……もう、帰りたい……清志朗、お兄さん……」

 東子は涙を流れるに任せて、愛しい人たちの名前を呼んだ。しかし、誰一人として東子の呼びかけに答えてくれる者はいなかった。

 どれくらい時間が経ったのだろうか、ベッドに寄りかかったままずっと涙を流し続けていた東子はゆっくりとしびれるように痛む頭をもたげた。

「清志朗お兄さん……」

 東子は今一度従兄の名を呼んだが、やはり返事はなかった。しかし、清志朗の顔を思い浮かべると、東子は一刻も早く彼に会いたくなった。会って、大丈夫、何も怖くない、と慰めてほしかった。

 東子はまだ乾ききっていない涙を拭きながら立ち上がると、辺りを見渡した。すると、またしても廊下に続くものとは別のドアがあった。廊下には出たくなかったので、東子はそちらのドアに向かった。

 次の部屋も寝室だった。この部屋は前の部屋よりもやや広かった。横の方を見てみると、廊下側に続くドアが二つあった。

「どうして二つもあるんだろう」

 いくら広いとはいえ、食堂くらい大きいのならまだしも、その部屋は食堂のおよそ半分くらいの大きさしかなかったので、ドアは二つも必要ないはずだ。東子は向かって右側のドアを開けてみることにした。

 そこはこぢんまりとした書斎だった。ここはおそらく廊下の一番奥に当たるのだろう。壁一面に並んでいる本棚にはびっしりと本が埋まっていた。その本棚に挟まれるような形で左側に廊下に続いていると思われるドアがあった。その反対側に、これまた本棚に挟まれるように仕事机が一台置いてあった。その上には新聞や本が無造作に置いてあり、机の上を埋め尽くしていた。開きっぱなしで置かれている本もあった。まるで、つい先程まで誰かがここで作業をしていたように思わせる有様だった。机の上の小窓から入ってくる薄暗い光がその光景をリアルにみせていた。

 東子は仕事机に近づき、開いたままになっている本に目をやった。長い間触れられていなかったのか、埃を被っていたが、なんとか読むことはできた。

 それは植物図鑑らしく、植物の写真がページの半分を占めていて、残りの余白でそれに関する説明が書かれていた。東子の見ているページの上部には、太字で『アサ』と書かれていた。『アサ』は麻薬のほかに、ヘンプという繊維で有名だったので、東子でもそれがどんなものであるかはなんとなく知っていたが、写真を見るのは初めてだった。

「これが『アサ』なんだ」

 それは、楓を細くしたような、ヤシの葉を小さくしたような、そんな葉の形をしていた。しかし、東子は以前、それをどこかで見かけたような気がした。今日行った植物園で見たのだろうか。しかし、もしそうならば清志朗がちゃんと説明してくれていたはずだが、そのような記憶はなかった。

 東子はもやもやした気持ちのまま、隣に置いてある二部の新聞に視線を移した。新聞は二部とも綺麗に折りたたんであった。

 一部を手にとって日付を見てみると、東子がまだ生まれるもっと前、まだ日本が戦争中のときの日付だった。

 どうしてこんな古いものが、と思いながら一面を見ると、大きなタイトルと建物の写真が載っていた。難しい漢字ばかりで、しかも横文字は今とは逆から始まっているので読みづらかったが、なんとか読むことができた。

「悔悟の、館、癒心館、解体?」

 東子はたどたどしくタイトルを読み上げた。記事を読み進めていくと、それはある監獄について書かれていることが分かった。なんでも、その監獄に入った囚人は、心が洗われたように、自分の罪を悔い改めて出てくる、という噂に立っていたため、『癒心館』という名前がつけられたが、実際は、その囚人達は麻薬開発の実験体にされていたのだという。そして、そのことが表ざたとなり、『癒心館』は閉館、当時の責任者であった館主は逮捕されたそうだ。

 東子は建物の写真を見た。写真には森の中にひっそりとたたずむ灰色の建物が写っていた。

「あれ?」

 東子はその写真に見覚えがあった。正確に言うと、その写真に写っている風景に、だった。写真は昼に撮られていて、判別しづらかったが、その場所は間違いなく、東子たちがこの屋敷にやってきたときに見た光景そのものだった。よく見ると、その建物を覆う石垣や門も東子たちが通ってきたものと形がそっくりだった。しかし、写真の建物はこの屋敷とは全く違う建物のようだし、屋敷の前に咲き乱れていた時計草は一本も見当たらない。タイトルに『解体』と書かれているので、おそらく取り壊されたのだろうが、だとしたら、この屋敷は一体誰が建てたのだろう。

 建物の写真の下に丸く囲まれた顔写真が載っていた。この建物の館主だろうか。近づいてその顔よく見てみた途端、東子は息を呑んだ。

 その顔はまさに一階の柱時計の上にかけてあった肖像画のものだった。東子は気味が悪くなり、逃げるようもう一部の新聞を手に取った。日付を見てみると、それはつい最近の記事だった。

「え? どうして?」

 東子は古い新聞と共に置かれていたそのやけに真新しい新聞に薄気味悪さを覚えた。ぱらぱらと捲っていったが、やはりどれも最近書かれたとしか思えない記事ばかりだった。

 その時、ふと東子は隅のほうに載っていた、一つの小さな記事に目を留めた。それはある大学生の死亡事故に関する記事だった。東子が気になったのは、その学生が通っていた大学の名前だった。

「この大学って、確か清志朗お兄さんの通ってる学校じゃあ……」

 しかし、清志朗はこんな事故があったなんて少しも口にしたことがなかった。東子は記事を読んでみた。死んだのは大学四回生の男子で、教室の窓が外れて転落したらしい。その窓は最近付け替えたものらしく、その時の建て付けが悪かったのではないかと、学校側や業者を非難するようなことも書かれてあった。事故があった日付は東子の夏休みが始まる半月くらい前だった。顔写真が載っていたが、東子には見覚えがなかった。

 新聞を読み耽っていると、いきなり、外から何かが床に叩きつけられるような大きな音が聞こえた。ちょうど転落事故の記事を読んでいた東子は驚いて小さく悲鳴を上げた。

 東子は、廊下に続いているドアを凝視した。様子を見に行ってみようか迷ったが、さっき見たものがトラウマとなっていたので、東子は廊下には出るのをためらった。

 しかし、今の物音は尋常じゃない。もし清志朗が何かに巻き込まれているのなら、一刻も早く探し出さないと。

 東子はごくりとつばを飲み込むと、廊下に出ることを決意した。

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