二.「館」
門の中に入ると、外から見たときよりも時計草の量が多くあるように見えた。時計草は両側面の林のすぐ側まで根を生やしていた。
車のライトは門のすぐ手前のところまでしか光を放っていなかったので、清志朗は懐中電灯を点けて奥を照らした。懐中電灯が動くたびに時計草の群れはその光の動きにあわせて、その白い花びらを消したり現したりした。東子にはなぜかその一つ一つが顔のように見えて、こちらをじっと見つめているような気がした。東子は、まるで目を合わせたら呪い殺されると信じているかのように、ぎゅっと自分の目をつぶって清志朗の後ろに身を隠した。
「東子ちゃん、あんまりくっついたら歩けないよ」
清志朗は、やっぱり先に戻っているか尋ねたが、東子は首を横に振って拒否した。清志朗は歩道付近に懐中電灯を近づけながらゆっくり歩を進めた。
「どうやら、ここにあるのは全部普通の時計草みたいだけど、やっぱりどこか……」
清志朗は、なにやら一人でぶつぶつ言いながら茎や根の部分に光を当てて調べていったが、東子は四方八方からの視線を逃れるのに必死だった。
ふいに、清志朗がしゃがみ込んだので、東子は掴んでいた腕に引っ張られて、同じように座り込んだ。その時、さんざん見ないように努めてきた時計草が急に目の前に現れたので、驚いて息を呑んだ。清志朗はそんな東子の様子にも気づかず、時計草の三本の『針』をまじまじと見つめていた。
「そうか、分かった。ここにある時計草はみんな、雄しべの形が変なんだ」
「雄しべって、時計の『針』のこと?」
東子は少しだけ興味が沸いて、ちらっと時計草の方へと目を走らせた。しかし、東子には別段おかしな感じはしなかった。
「うん。俺が写真で見た時計草の雄しべはどれも、そうだな、時計の数字でいう五と七と
十二のところに向かって伸びているんだ。けどここの雄しべは違う。偏っているんだよ」
東子は近づいて時計草の雄しべをよく見てみた。清志朗の言う通りならば、三本の雄しべは三方向ばらばらに伸びているので、英語のYの字に見えるはずだが、ここにある時計草はどれもYというよりは鳥の足跡に近かった。
「曲がっているだけじゃないの?」
「でも、ここにある時計草のすべてがそんな形をしてるんだよ。さすがに林付近までは光が届かないから分からないけど」
清志朗は自分でも確認するように、懐中電灯を当たりに照らして見渡してみた。確かにどれも同じ形だった。こうも全部同じだと、少し気味悪く思えた。
東子は一番手前の花を掴んでもう一度よく見てみた。
「これ、時間にしたら何時になるのかな。二時、二十分三十秒? あ、でも針の見方を変えたら、違う時間にもなる。六時十分二十秒……四時十分三十秒にも見える!」
東子はさっきまでの時計草を怖がっていたのも忘れて、自分の腕時計と照らし合わせながら時間を見つけ始めた。そのすぐ横で、東子の言った言葉に一瞬顔を強張らせて懐中電灯の動きを止めた清志朗には少しも気づかずに。
「でも、これ文字盤がないから、数字と針の見方を変えるだけでいくらでも時間が変わっちゃって切りがないよ」
東子は花から目を離すと清志朗のほうを向いた。当の本人は立ち上がって明かりを下に向けたまま暗い花畑を見渡していた。そのため、東子からは清志朗の表情もほとんど読み取れなかった。
「清志朗お兄さん?」
東子も立ち上がり、清志朗の顔を見つめた。しかし、名前を呼んでも本人から返事は返ってこなかった。もう一度声をかけてみようと袖を掴もうとしたとき、急に清志朗がこちらを振り向いたので東子はびくりとした。
「もう少し向こうの方へ行ってみないか。もしかしたら、これとは違った形の雄しべが見つかるかもしれない」
そう言う清志朗はいつもと同じような穏やかな笑みを浮かべていたが、この時だけはその笑顔が少し怖いような気がした。
東子は屋敷に続く道を見やった。すると、ついさっきまで忘れていた恐怖がまた戻ってきた。東子はこれ以上進むことにあまり気が乗らなかったが、清志朗が自分のために言っているのだとしたら断ることは出来ない、とついていくことにした。
「そういえば、知ってる?」時計草に光をあてて進みながら清志朗が言った。「この時計草の雄しべって、キリスト教ではイエス・キリストを磔にした釘に見立てられているらしいよ。さっき時計草の英語名は『パッションフラワー』って言ったけど、この『パッション』っていうのは受難――キリストの裁判と処刑のことを指す言葉なんだけど――という意味で、この花には雄しべ以外の部分にも受難に関する意味が込められているそうなんだよ。東子ちゃん、確か基督系の学校に行ってるんだよね。学校で何か聞いてない?」
東子は確かに基督系の学校に通っているが、かといって熱心な信者というわけではなかった。それでも、『受難』という言葉はさすがに聞いたことがあったが、時計草はというと、聞いたことがあるようなないような、そんな曖昧な感じだった。
「うーん、あんまり覚えてないや。でも、花にそんな意味が込められてるなんて知らなかった。花が持つ意味って、花言葉くらいだと思ってたもの」
「そうだね。花の形そのものが意味を持っていることってそんなにたくさんあるものではないしね。でも、そういうのがあるのも植物の面白いところだけどね」
そう言うと、清志朗は無邪気に笑った。それはいつも東子が見ている従兄だった。さっき彼に感じた恐怖はおそらく自分の考えすぎなのだろう、と東子は結論付けた。
その時、東子の頬に何か冷たいものが当たった気がした。それが何か理解する間もなく、大粒の雨が降ってきた。
「車に戻ろう」
清志朗は懐中電灯で足元を照らしながら、東子の腕を引いて走り出した。雨はどんどん勢いを増して降ってきた。門の前につく頃には、二人ともずぶ濡れだった。
清志朗は先程開けた側の門を押し開けようとした。しかし、門はびくとも動かなかった。
「あれ?」
今度は引いてみたがそれでも鉄の門は動く気配を見せなかった。
「どうしたの?」
東子はポシェットが濡れないよう気をつけながら言った。
「門が開かないんだよ。おかしいな」
清志朗は東子から手を離して、今度は反対側の門を押したり引いたりしてみたが、そちらも開かなかった。両方一緒に開けてみたが無駄だった。
「見たところ、だいぶ錆び付いているみたいだから、開けた拍子に傾いたか何かして動かなくなったのかも」
清志朗は上を見上げた。身長の高い彼なら門をよじ登って外に出られないかと思ったが、門の一番上は柵のように鋭く尖っていて、とても無傷で超えられるとは思えなかった。
そんなことを考えている間にも雨はひどくなる一方だった。
「とにかく雨宿りできるところへ行こう」
清志朗は東子の手をとると今来た道を戻っていった。
玄関前まで行くと庇がついていたので、そこで雨を防ぐことができた。しかし、
「どうしよう、門が開かないなんて」
東子は泣きそうになった。
「ごめんね。俺が中に入ろうなんて言ったから」
清志朗は東子の濡れた頭に手を置いて、半ば慰めるように謝った。東子は清志朗を責めるつもりはなかったが、この状況を改善する方法も浮かばなかった。
東子は身震いした。夏とはいえ今はそれなりに涼しい上に、雨で濡れた身体はすっかり冷え切っていた。それに気づいたのか、清志朗は少しでも雨風の当たらないところへ連れて行かなければ、と考えた。そして、後ろにあるドアに近づいた。
「何してるの?」
清志朗の行動に気づいた東子はそっと清志朗の袖を引いた。
「中に入れないかなと思ってね。ここよりは暖かいと思うから」
「でも、他人の家に勝手に入るのは悪いんじゃあ」
「ちょっと玄関先を借りるだけだよ。外から見た感じでは誰もいないみたいだったし。それに、東子ちゃんそのままだと風邪引いちゃうよ」
清志朗は心配そうに東子を見やった後、ドアノブを掴んだ。とはいえ、鍵がかかっているだろうと予想していた清志朗は、あっさりと開いたドアを見て一瞬、目を丸くした。
「鍵がかかってない。やっぱり今は使われていないのかな」
そう言いながらも清志朗はドアの中に入っていった。東子は入ろうかどうか迷ったが、また門のように閉まって開かなくなってしまったら、今度こそ独りきりになってしまう、と怖れ、ドアが閉まる前に急いで中に入った。
中は外よりは暖かかった。東子はその暖かさに安堵のため息をついた。横を見ると、清志朗が濡れた眼鏡をはずして、服の裾で拭いていた。しかし、その服も濡れているのであまり効果はないようだった。その時、東子は思い出したようにポシェットの中をまさぐって中からハンカチを取り出し、
「これ使って」
と、清志朗にそれを手渡した。清志朗は、最初は、自分で使うようにと断ったが、東子は大丈夫だといって強く推すので、礼を言って快く借りた。
東子は自分がずぶ濡れなのも忘れて、清志朗が眼鏡を拭くのを見つめていた。眼鏡をはずした清志朗は若干幼く見えるが、穏やかさだけは一層増した雰囲気になる。東子はどちらの清志朗も好きだった。
しかし、清志朗が眼鏡を拭き終えるのと同時に我に返り、こんな時にまでのろけている自分を恥じた。
清志朗は東子にもう一度礼を言ってハンカチを返すと、眼鏡をかけ直し、脇に抱えていた懐中電灯を持ち直してあたりを照らした。
そこは中世を思わせるような造りになっていた。二人がいるところは広いホールのようになっていて、目の前には腕のように二階から曲線を描いて伸びている二つの階段がある。そして、その腕に抱かれるように、ホールの中央、二人の真正面に大きな柱時計が立っていた。二階は吹き抜けになっているらしく、一階からでも二階のドアをいくつか見ることができた。両階段の側には奥に続いているらしい廊下がそれぞれあった。
「なんか、すごいね。お金持ちって感じがする」
東子が素直に自分の意見を述べた。
「そうだね、俺たちには無縁の世界だね」
清志朗は未だに懐中電灯であたりを照らしながら、苦笑しながら独り言のように呟いた。
急に東子がきゃっ、と悲鳴を上げて清志朗にとびついた。
「どうしたの?」
「い、今誰かいたような気がして」
「人? どこに?」
清志朗は懐中電灯をあたりに照らしてみたが、人がいるような気配はなかった。
「あ、あの、時計の側に……」
東子は極力そちらを見ないようにして、柱時計の方を指差した。清志朗は柱時計の方に光を向けた。すると、時計より少し上のほうに何かあるのに気づいた。
「ああ、なるほど。東子ちゃんよく見て。あれは絵だよ」
東子はおそるおそる顔を上げて光のほうを見た。時計の少し上のほうに中年男性の肖像画がかけられていた。
「なんだ、絵かあ」
東子はそれが絵だと分かり、全身から力が抜けた。それと同時に大きなくしゃみを一つした。
「やっぱり身体拭かないとね。服も乾かさないといけない」
清志朗はどうするべきか悩んだが、東子の身を優先させることに決めた。
「タオルを探そう。これだけ広い屋敷だし、探せば、もしかしたらどこかにタオルくらいはあるかもしれない」
「それって……他人のタオルを借りるってこと? そんなの、いくらなんでも……」
「けど、このままじゃあ風邪をひいてしまうよ」
自分は平気だから、と東子は説得したが、清志朗は頑として聞かなかった。自分には責任があるから、と。今回のこともすべて自分のせいで、責任もすべて自分が取るから、と言って、無理矢理東子を納得させた。
「タオルは洗って返せばいい。それに、動いている方がこのまま立っているだけよりましだろう。まだ、雨は止みそうにないしね」
清志朗はドア横の窓から外を覗いた。外はまだ土砂降り状態が続いていた。
東子はまだ半分くらい納得してはいなかったが、これ以上仲違いしても意味はないし、何より清志朗が自分のことを最優先に考えていてくれているのが嬉しかったので、従うことにした。
「とりあえず、こっちから探してみようか」
清志朗はそう言って、正面から向かって右側の一番手前にあるドアに近づいた。東子は遅れないよう急いで清志朗についていった。
ドアを開けて見てみると、中央に大きなテーブルとそれを挟むようにソファが二脚並んでいた。壁際には棚や本棚が並んでいたが、それでも結構な広さがあった。
「ここは、応接室かな?」
部屋の中は真っ暗で、スポットライトのように懐中電灯を向けた部分しか視界には入らなかったが、タオルがあるような感じはしなかった。東子はあまりの暗さに眉間にしわを寄せて目を凝らしたが、ふと、あることに気づいた。
「そういえば、ここ、電気はないのかな」
「どうだろう。使われていないのなら、電気が通ってなくてもおかしくはないけど」
清志朗はドア近くの壁を照らして、スイッチはないか探した。目的のものはすぐに見つかった。清志朗は手を伸ばしてスイッチを押した。スイッチはカチッと音を立てたが、部屋が明るくなることはなかった。清志朗は何度か押してみたが一向につく気配はなかった。
「やっぱり。おそらく、今は電気は通ってないんだろうね」
二人は明かりをつけるのを諦めて隣の部屋に移動することにした。
応接室の隣は前の部屋よりも広く長い部屋となっていた。真ん中に大きなテーブルが置いてあり、その周りにいくつもの椅子が並んでいた。
「ここ食堂じゃない? ドラマで見たことあるもの。長い食堂に長いテーブルがあって、その端と端で二人が食事してるの。あれ見てると、会話するのが大変なんじゃないかっていつも思うのよね」
東子はドアの前に立つ清志朗の脇から中を覗き込んで言った。しかし、ここにもタオルはなさそうだ。二人は次の部屋に移動した。
隣のドアを東子が開けようと手を伸ばすと、清志朗が制止した。
「そこも食堂のドアだと思うよ。さっき見えたからね。これだけ長かったらドアも二つ必要なんだろうね」
東子は行き場を失った腕をぷらぷらさせて清志朗についていった。見たところ、こちら側の廊下にある部屋は次で最後のようだった。
その時、東子は後ろの玄関のほうから何かの音を聞いた気がした。東子は驚いて清志朗の腕を掴みながら後ろを振り向いた。
「今、玄関のほうで何か音がしなかった?」
「え、そう? 俺には聞こえなかったけど」
清志朗は、空耳だろうと言って、あまり気に留めず、最後の部屋に向かっていった。しかし、東子はそれが気になって仕方がなかった。東子はもう一度玄関のほうを振り向いたが、音はもう聞こえなかった。
「ここは、たぶんキッチンかな」
清志朗の言う通り、最後の部屋はキッチンだった。調理台や大型冷蔵庫などが並んでいて、部屋の大きさは掴みにくかったが、応接室より少し小さいくらいだろう。奥の壁にドアが見えたが、おそらく食料庫か何かだろうと、特に気にはしなかった。
「ここならタオルくらいあるんじゃないかな」
「でも、なんだか生臭そう。それより、お風呂場とか洗面所の方があるんじゃない? そっちを探そうよ」
キッチンにあるからといって、生臭いということはないだろう、と清志朗は思ったが、風呂場や洗面所の方が清潔そうではあるので、東子の意見に従うことにした。
廊下の窓から外を見てみると、未だに降り続ける雨の中、中庭が見えた。その奥に建物が見えた。どうやら、ここと反対側の廊下はあそこに続いているようだ。
「この建物、凹の形をしてるみたいだね。ん?」
清志朗はキッチン横の廊下の突き当りに明かりをあてた。そこにはドアが一つあった。
「外に続いてるのかな。行ってみる?」
東子は清志朗のほうを覗きこんで見た。
「物置かもしれないけど、一応覘いてみようか」
ドアを開けると、そこは短い渡り廊下になっていた。廊下はビニールで覆われていたので雨で濡れる心配はなかった。その奥にビニールハウスのようなものが見えた。半透明なので中に何があるのかはっきりとは分からなかったが、緑色の何かであることは分かった。
東子は恐る恐る清志朗を見上げた。清志朗の顔は、まるで新しいおもちゃを見つけた子どものようだった。
「ビニールハウスなんてあるのか。個人で持てるなんて羨ましいなあ」
清志朗は感心していたが、やがてこちらを向くと、「ちょっと行ってみない?」と提案してきた。先程、同じようなことをして失敗しているのに、なぜ懲りないのだろう、と東子は思った。
東子は拒否しようとしたが、それを聞く様子もなく、すでに清志朗は東子の手を引いてビニールハウスに向かっていた。自分から聞いてきたくせに、と東子は口を尖らせながら心の中で呟いた。
ビニールハウスの中も他の部屋と同様に広かった。しかし、いたるところに草花が生えているので狭いくらいだった。
ここにある植物も、植物園ではあまり見なかったものばかりだった。東子はなんだか、この部屋に言い知れない気味の悪さを感じた。ここにいると気分が悪くなりそうだった。言っても無駄かもしれないが、それでも、もう出たい、と訴えようと清志朗を見上げると、彼はさっきまでの無邪気な顔はどこへ行ったのか、眉をひそめて険しい顔でハウス内を見回していた。
東子がどうしたのか聞く前に、清志朗はもう出よう、と東子を外へ促した。東子は清志朗の異変の原因を探ろうとビニールハウス内を見回そうとしたが、その前に外に追い出されてしまった。しかし、外に出るとき、出口のすぐ側に時計草がひっそりと咲いているのが見えた。その雄しべも前の庭と同様に鳥の足跡のような形をしていた。
清志朗はビニールハウスと渡り廊下のドアをピッチリ閉めると、そのまま玄関へ戻りだした。
「清志朗お兄さん、どうしたの? あのビニールハウスに何かあったの?」
東子は玄関ホールに戻る途中に疑問にしていたことを口にした。
「え、ああ。いや、あそこには身体に良くない植物がいくつかあったんだよ。といっても、触ると皮膚が少しかぶれたりする程度だけどね。それに、植物園でも見たと思うけど、食虫植物みたいなものもたくさんあったから。ここの人の好みなんだろけど、あまり近づかないほうが良いと思ってね」
清志朗は、ここの人は一体どんな趣味をしていたんだろう、と笑いながら言っていたが、東子がさっき見た清志朗の表情からは、その程度のことだとは考えられなかった。
玄関ホールまで戻ってくると、ほんの少し前に来たばかりだというのに、奇妙な懐かしさを覚えた。
「次はこっちを探してみようか」
そう言って、清志朗は反対側の廊下を指差した。東子は近道しよう、と階段の下をくぐった。清志朗もそんな東子にあわせて階段の下をくぐった。背の高い清志朗でも階段の下は屈まずにくぐることができた。しかし、階段をくぐってすぐに、清志朗は足を止めた。どうしたのかと思って東子が振り返ると、清志朗は目の前の柱時計を凝視していた。その顔は驚きの表情を露わにしていた。懐中電灯を持つ手は震えている。
東子は清志朗の側により柱時計を覗いた。時計の針は四時十分三十秒を表示していた。
清志朗が何か小さく呟いたが、自分でも気づいていないような雰囲気だった。東子はそんな清志朗が赤の他人のように見えた気がして不安になった。
「は、早くタオル探そう。風邪引いちゃうよ」
その言葉に清志朗は本来の目的を思い出し、ハッとしたが、まだその場を動こうとしなかった。東子は一刻も早くこの場を離れなければという使命感に囚われたように清志朗の腕を引いて強引に歩き出した。清志朗は東子にされるがままついていった。左側の最初の部屋は居間だった。中にはテーブルと椅子がいくつかある他に、暖炉が備え付けられてあった。その隣にはトイレと物置が並んでいた。
物置の中を覗いてみると、箪笥や棚が並んでいるほかにも床に箱や置物などがいくつか置いてあった。東子は棚の上に工具箱がおいてあるのに気がついた。
「これで門が開けられるかもしれないね」
東子はできるだけ元気に振舞ってみせたが、清志朗はろくな返事もせず、怪訝な表情で時計があるほうをずっと見ていた。
最後の扉を開けると、そこは脱衣所だった。ようやく目的の部屋にたどりつくことができた、と東子はほっと息をついた。引き出しをいくつか探ると、白いバスタオルを見つけた。二人の身体はもうすっかり乾いていたが身体を温めるにはちょうどいいと思った。
東子がバスタオルを取り出そうとしたとき、急に視界が暗くなり後ろの方で何かが落ち音がした。驚いてそちらを見ると、清志朗が開いたドアから浴室の中をじっと見つめていた。その表情は驚いているというより怯えているように見えた。その足元には懐中電灯が転がっていた。
東子は懐中電灯を拾って清志朗の顔を窺った。
「どうしたの? 清志朗お兄さん!」
東子は名前を読んだり服を引っ張ったりしてみたが、全く反応はなく、相変わらず暗い浴室の中を凝視していた。
東子は懐中電灯を浴室に向けた。そして、息を呑んだ。
広い浴室は室内が湿っているわけでも湯気が立っているわけでもなかった。それなのに、壁にかかっている鏡は真っ白に曇っていた。そして、そこには指でなぞったような文字が書かれていた。
罪を 償いなさい
東子にはそれが何を意味しているのか分からなかった。
急に、清志朗が叫びだした。
「違う、俺じゃない……俺のせいじゃない!」
清志朗は後ずさりしながらしきりに首を振った。
「どうしたの? しっかりして! 清志朗お兄さん!」
東子は急に様子が変わった従兄をなだめようとした。しかし、清志朗は今まで見たことないような目つきで東子を睨みつけ、東子の小さな肩を揺さぶった。
「君も、俺のせいだと思ってるのか? 俺が全部悪いって、そう思ってるのか!」
最後の方は尋ねているというより、まるで東子がそうであると確信しているかのような口ぶりだった。東子はあまりに強く肩を掴まれたので、顔をゆがめて痛みを訴えた。
「せい、しろうお兄さん、ど、したの、急に。私、なにも……」
東子は目の前の従兄が急に怖くなり、肩を震わせた。清志朗は、自分が東子を怯えさせてしまったことに気づき、慌てて肩から手を離した。
「ごめん、違うんだ。これは……頼むから、そんな目で俺を見ないでくれ!」
清志朗は東子ドアまで後ずさりすると、そのまま勢いよく外に出ていった。
東子はどうすればいいか分からず、その場に座り込んだ。なにがなんだか、全く訳が分からなかった。
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