四.「罪」
東子は書斎のドアをほんの少しだけ開けて外を覗いた。ここからだと左側の廊下をすべて見渡すことができた。先程見たあれの姿は見当たらなかった。それでも、階段側の廊下に潜んでいるかもしれない、と東子は気を引き締めてそっと廊下に出た。まるでそれが唯一最大の武器であるかのように、懐中電灯を両手でしっかり持ち度胸半分、怖さ半分で階段に向かった。
階段側の廊下手前まで来ると、東子はスパイのように壁に身を寄せ、向こうの気配を窺った。しかし、いつまでもこうしていることはできないので、さっきのようにギュッと目をつぶると、前に進み出て、懐中電灯で廊下を照らした。恐る恐る片目を開けて覗いてみると、階段と右側の廊下以外何も見えなかった。
東子はほっと息をつくと、それでもまだ警戒しながら手前の階段を降りた。
「さっきの音、どこからしたんだろう」
階段を降りきったとき、その原因が明らかになった。東子は右側の階段から降りてきたため分からなかったが、左側の階段を折りきったところに二階の左廊下で見た台車が逆さまになって倒れていた。その車輪のいくつかはまだカラカラと回っていた。さっきの音はこれが階段から落ちた音だったのだろう。
「どうして、これが? あたしが見たときは確かに廊下にあったのに」
やはりひとりでに動いたのだろうか。風もないのに。東子は考えただけでぞっとした。
東子は気味の悪い台車を横目に、そそくさと右の廊下に入った。
「とりあえず、まだ探していないところ見てみよう。怖いけど……」
最初はビニールハウスを探してみることにした。渡り廊下に続くドアの側まで来たとき、東子はキッチンのドアが開いていることに気づいた。
さっき探したときは、ちゃんと閉めておいたのに。まさか、また何かいるんじゃあ……。
そう思うと、キッチンに近づくのが怖くなった。しかし、ビニールハウスに行くにはそこを通るしかない。それに、もしかしたら、清志朗がいるのかもしれない。なぜキッチンにいるのかは分からないが。
「もしかして、お腹空いたから、なにか探してるのかな」
言葉を口にすると、東子は自分のお腹が盛大に音を立てるのが聞こえた。そういえば、まだ夜ご飯を食べていなかった。清志朗も何も食べていないはずだから、その可能性はある。東子はビニールハウスに向かう前にキッチンを覘いてみることにした。
キッチンを覗いてみたが、中には誰もいなかった。しかし、奥の食料庫に続くドアが開いていて、中から何かがガサガサと動く音が聞こえた。
「せ、清志朗お兄さん?」
東子は食料庫に向かって呼びかけてみた。返事はない。
東子は恐る恐る食料庫に近づいた。中をのぞくと、屈んで何かをしている男の後姿が目に入った。一瞬、東子は清志朗かと思い、近づこうとしたが、どこか違った。よく見てみると、全体的に青白かった。
男は東子に気づき、振り向いた。東子と目が合ったはずなのに、その目はどこを見ているのか分からなかった。首筋から少しだけ見える切り傷に、東子は見覚えがあった。
「あ、ああ……あああ……」
東子は、悲鳴もろくに出ず、後ずさりした、そしてそのまま這い出るように、廊下に飛び出した。
東子はどちらに逃げようか、とあたりを見回していると、廊下の窓から中庭が見えた。雨はまだ止んではいなかったが、東子は別のものに視線を奪われていた。
中庭の、屋敷の壁に沿って並んでいる花壇の前に誰かが立っていた。その人は雨の中、傘も差さず、草刈鎌を手にしたまま俯いて立っていた。その顔も、体も随分と青白く、背中に大きな傷があるのがちらっと見えた。東子は目を剥いての光景を凝視した。鎌を持った男は、虚ろな眼をしたままこちらにゆっくりと近づいてきた。
「い、いやあ……」
東子はとっさにビニールハウスの方に後ずさりした。男はそんな東子には目もくれず、焦点の合わない目で廊下に向かって歩いてきた。
東子は、玄関の方に逃げようとしたが、その時、ちょうど、キッチンから先程見た男が音も立てずに出てきた。
「きゃああ!」
東子は踵を返して渡り廊下に飛び込んだ。壊れるかと思うくらい力一杯ドアを閉めると、そのままビニールハウスに駆け出した。
その時、途中で何かを蹴飛ばしてしまった。懐中電灯を向けてみると、それは眼鏡だった。東子はその眼鏡にとても見覚えがあった。
「これ、清志朗お兄さんの!」
東子は傷つけてしまったのではないか、と慌てて拾い上げ、確かめた。幸い、汚れてはいたものの、傷は一つもついていなかった。
「じゃあ、ここに清志朗お兄さんが……」
東子はしっかり握り締め、清志朗がここにいることを願いながら、ビニールハウスに足を踏み入れた。
ハウス内は相変わらず鬱蒼としていて気味が悪かった。最初にここを訪れたとき、東子は入り口付近までしか足を踏み入れなかったが、よく見ると、ほとんど植物に埋もれた状態で奥に向かって通路が続いていた。しかも、明らかに最近誰かが通った後があった。東子は、ほとんど確信に満ちた思いで、その通路を進んだ。
通路の先に、光が見えた。進んでみると、これまた植物に埋もれて、書斎で見たような仕事机が置いてあった。仕事机の上には大量の本に囲まれるようにして燭代が置いてあり、光はその蝋燭から放たれているものだった。そして、そこに、清志朗はいた。
清志朗は椅子に座り、両手で頭を抱えて本に埋もれた机に突っ伏していた。東子はようやく探し人を見つけたことで、嬉しさのあまり、先程彼が自分に取った行動も忘れ、足早に近づいた。
「清志朗お兄さん! 良かった、探したんだから!」
「……東子ちゃん」
自分の名前を呼ばれた清志朗は、ゆっくりと顔を上げ、従妹の名前を確認するように呼んだ。清志朗の顔はほんの少しの間にやつれたように見えたが、東子は久々に愛しい人に名前を呼ばれ、うれしくて涙が出そうになった。
「清志朗お兄さん、もうここから出よう! ここ、変なの! 幽霊が出るの! あたし見たの! ホントよ!」
東子は清志朗の肩を揺さぶった。清志朗は最初、されるがままだったが、やがて自分の肩を掴む手に己の手を置いて静止させた。
「東子ちゃん」清志朗は宥めるような、諦めるような声で呟いた。「ダメなんだ。俺は、ここから出ることはできない」
「何言ってるの? 雨はまだ降ってるけど、さっきよりはずっとマシになってるよ。今なら外に出られるはずだから。ねえ、もうこんなトコ出ようよ。車に戻ろう。これ以上この屋敷にいたくない! 清志朗お兄さんを探してる間、本当に怖かったんだから」
東子は自分が体験したことを思い出すと、また泣きたくなってきた。しかし、そんな東子の気持ちなど露知らずに、清志朗はただ首を振るだけだった。
「違う、そういうことじゃあないんだ、東子ちゃん。俺はね」清志朗は東子のほうに向き直って、諭すように言った。「ツミビトなんだよ」
だから、出られないんだよ、と清志朗は台詞には似合わないような笑みを浮かべた。
「罪人って、なに言ってるの? 清志朗お兄さん何も悪いことしてないじゃない! それに、罪人だから出られないって、意味が分からないよ!」
向かい合って話しているはずなのに、東子は置いていかれている気がした。 清志朗は東子の言葉が聞こえているのかいないのか、分からないような調子で続けた。
「意味も何も、そのままのことだよ。俺は罪人なんだ。だから、俺はここから出られない。出してもらえないんだ。東子ちゃんも見ただろう、浴室のあの文字を。あれは俺に向けて書かれたものだったんだ。罪人である俺に」
「全然分かんないよ! それに、清志朗お兄さんは罪人なんかじゃないじゃない! 清志朗お兄さんが悪いことをしたことがあるなんて聞いたことないし、それに、そんなことするような人じゃないって知ってるもの!」
「君が俺の何を知ってるっていうんだ!」
清志朗の急に荒くなった声に、東子はビクリと身体を一度、大きく痙攣させた。
「何も知らないくせに! 俺のことなんて、何も……」
「じゃ、じゃあ、何したっていうの?」
東子は、また清志朗のことが怖くなった。しかし、それ以上に、清志朗のことが知りたかったのだ。
清志朗は椅子に座りなおして、東子を一瞥すると、話し始めた。
「俺は、人を殺したんだ」
東子は、それなりに覚悟はしていたものの、あまりの衝撃の告白に言葉も出なかった。
「ひ、人って、うそ……」
「うそじゃないよ。大学の友人をね。それもつい最近に」
清志朗は隠し事をさらけ出してしまいスッキリしたのか、やけに落ち着いていた。東子はその言葉を聞いたとき、書斎で見た記事を思い出した。
「大学生が、教室から転落……」
東子は自分でも気づかないうちにその記事の内容を口にしていた。それが聞こえたのか、清志朗が顔を上げた。
「なんだ、知っているのか。そう、警察は事故と扱っていたけど、本当は俺が事故に見せかけて殺したんだ」
東子は『殺し』という言葉に、小さく身体を震わせた。清志朗は淡々と続けた。
「俺が大学を卒業したら大学院に行くっていうのは、東子ちゃんでも知ってるだろう。けど、大学院に行くとしても卒業論文を書かなくちゃいけないんだ。でも、俺はどうしてもそのテーマが決まらなくて、そんなときにその友人の決めた論文が、まさに俺が欲しがってたやつだったんだ。俺はそれを聞いたとき、なんとかして、その論文を自分のものにしたかった。だから、盗んだんだ。盗作ってやつだよ。でもそのことが友人に知られて、俺は彼に学校に呼び出された。そして、盗作のことを教授に話すと脅された。俺はなんとか説得しようとしたが、彼は少しも耳を貸さなかった。だから、俺は彼に詰め寄って、教室の窓から突き落としたんだ。その時はまだ夕方だったけど、休日だったから、誰にも見られることなく、警察は事故と断定した。それだけだ」
清志朗は最後まで言い切ると、深く息をついた。最後の方はほとんど自分に言い聞かせているようだった。
「じゃあ、ホントに……」東子は掠れた声で言った。
「言っただろう、罪人だって。だから、東子ちゃんは俺に近づかないほうがいい。それと、この部屋にも。さっきは東子ちゃんが怖がらないように本当のことを言わなかったけど、実はこの部屋、麻薬を作るのによく使われる植物ばかりなんだ。毒草なんかもいくつか混じってる。ここの当主が研究していたみたいでね。他にも、ここにある日誌や資料からこの土地に監獄があったことも知った。だから東子ちゃんはここにはいないほうがいいんだ。ここは罪人だけがいるべき場所なんだから」
清志朗は東子を促したが、それでも、東子は動こうとしなかった。
「なにしてるんだ。早くここから立ち去るんだ。出なければ、口封じとして、俺は君も殺してしまうかもしれない」
そう言う清志朗の目は何の感情も読み取れなかった。東子は自分が今まで見たことのない従兄の姿に、先程見たものよりも恐怖を感じた。
東子は、まだ信じられないといった表情で清志朗を見ていたが、やがて踵を返して出て行った。清志朗はその姿を無機質な目で追いかけていたが、ドアの閉まる音を聞くと、視線を仕事机のほうに向けた。
東子は屋敷内に戻ると、一目散に駆けていった。どこを走っているのか、自分でも分からなかった。突然、東子は何かに躓き、盛大に転んでしまった。東子が座り込んだまま振り向くと、そこには以前逆さまになったままの台車が転がっていた。いつの間にか玄関にまで来ていたようだ。
身体のあちこちが痛んだ。もう耐えられなかった。東子は痛みのせいにして、ボロボロと涙をこぼした。
「どうして……」
どうしてこんなことになってしまったんだろう。植物園に行って、その帰りに、ほんの少し迷ってしまっただけなのに……。
ふと、東子は右手で眼鏡を握り締めていたことに気づいた。そういえば、眼鏡を渡すのを忘れていた。東子は眼鏡を広げて、ハンカチを取り出すと、それで最初ここに来たときと同じようにすっかり汚れてしまっているレンズを拭いた。何かしていたかった。しかし、拭いているうちに、また涙が溢れてきて、拭いたばかりのレンズを濡らした。東子は眼鏡をハンカチで包み、それを両手で握ると、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。
私は涙を流しながら椅子から腰を上げ、ハウス内を見渡した。そこには、当時、父が警察の目を逃れるために、この敷地内ではなく付近の森で栽培していた、麻薬製造に使われていた植物が生い茂っている。私がここに持ってきたのだ。麻薬を研究するために。しかし、なぜ私が麻薬の研究を行おうと考えたのかは、今でもよく分からない。血筋なのか、それとも父の霊に取り憑かれていたのか……。私はたった今正気を取り戻した。しかし、もう遅い。私はあまりにも多くの罪を犯してしまった。私が傷つけてしまった人々は一体どれぐらいいるのだろう。私が作った麻薬を摂取して、その清らかな魂を汚してしまった人達は一体どれくらいいるのだろう。分からない……。私自身多量の麻薬を摂取してしまったせいで、まともに考えることもできなくなってしまった。
私はもう一度ハウス内を見渡した。ここにいるのは私一人だった。そういえば、もう何年も人と接触していないような気がする。麻薬のサンプルはハウスの外に置いておいて、郵送してもらっていた。使用人の顔すら覚えていない。ただ、少し前に、妻が私のところに来たような気がする。しかし、その時私は研究に没頭していて、妻が何を言っていたのかすら私の耳には届いてこなかった。妻は今、何をしているのだろう。会いたい。最愛の妻に会いたい。罪に汚れ染まった私を彼女が愛してくれるかは分からないが……。いや、彼女ならきっと愛してくれる。きっと私を許してくれる。
私は彼女に会いたい衝動に駆られ、ハウスの戸口に向かった。しかし、途中で、足元に茂る雑草に足を取られ、遮られた。ずっと手入れをしていなかったから、ハウス内は荒れ放題だった。私は机に戻り、机の脇から手入れ用に置いておいた鉈を取り出した。それで、手当たり次第に植物を切り倒し、道を作った。私の邪魔をするものはなんだろうと許さない。もうすぐで出口だというときに、外からドアの開く音がした。ドアの向こうに妻がいた。妻は、泣きながら鉈を振りかざす光景を見て何を思ったのか、私を抱きしめた。彼女は泣いていた。きっと私がおかしくなってしまったのだろう、と思っていたに違いない。私は弁解と、懺悔のつもりで、妻に私の犯した所業について説明した。彼女は子供の稚拙な言い訳を聞くように、黙って聞いてくれていた。話し終わった後、やはり彼女は私を許してくれた。それどころか、私が説明をするずっと前から私の罪を知っていたと言うのだ! 彼女はそのことを知って以来、ずっと礼拝堂で祈りを捧げてくれていたのだという。私は彼女の言葉に涙がとめどなく流れた。私は確信した。私を正気に戻してくれたのは彼女なのだと。私は彼女にすがりついた。そして礼を言った。彼女も私に礼を言った。私たちは二人で抱き合って涙を流した。
ふと、私は彼女に言い忘れていたことを思い出した。罪深い私は、他にも罪を犯していた。私はそのことを妻に話した。研究施設として癒心館を設立したこと、監獄と称して囚人達を集め、彼らを実験体にしたこと、裏で政界に試薬品を横流ししていたことも話した。さすがにこれらのことは彼女も知らなかったらしく、驚いたように目を丸くして私の話を聞いていた。
私が話し終えてもなお、彼女は呆然としていた。私は彼女が許してくれることを期待していたが、一向にそんな様子を見せない。それどころか、それらのことを行ったのは、私の父だと言い出したのだ! 私は憤慨した。つい先程まで私のすべての罪を許すと言っていたのに、急に他人に罪を押し着せて、私に罪を認めさせず、その罪から逃れさせようというのだ。そんな邪な方法で罪から開放されても、なんの意味もない! 私の妻がこんな薄汚いことを言い出すような奴とは知らなかった! 私は許されたいのだ! 説得するように妻に訴えたが、彼女はおかしな顔をするだけで一向に私を許してはくれなかった。なぜ許してくれない。なぜ背けようとする。お前が私を許してくれなかったら、私はこの思い罪を背負って、どうやって生きていけばいいのだ? 教えてくれ!
妻は私の苦悶になど少しも気づかず、私をどこかに連れて行こうとした。どこに連れて行く気だ? 処刑場か? 罪深い私には死ねというのか? 私はこんなに許しを請いているというのに! 頼む! 待ってくれ、私の話を聞いてくれ! 頼むから、待ってくれと言っているだろう!
彼女はこちらを向いて、私をじっと見ていた。やっと、分かってくれたのか。しかし、その顔は驚きの表情で固まっていた。よく見ると、彼女の白い服は胸の部分だけ綺麗な赤色に染まっていた。その中央に私の鉈の切っ先が埋まっていた。私は、なぜこんなところに、と思い慌てて鉈を抜いた。妻に声をかけたが、私の言葉に返事をすることはなく、一瞬悲しげな表情をした後、私の腕に抱かれ、動かなくなった。その後、私が何度尋ねても返事をしてはくれなかった。
どうしよう。妻が死んでしまった。これでは私の罪を許してくれる人がいない。誰か、私の罪を許してくれる人はいないのか? 誰でもいいから!
私は妻を置いて、屋敷に入った。私はこの屋敷を知っているはずなのに、初めておとずれる気分だった。私は人を探したが、見当たらなかった。しかし、階段の近くで人の声がした。笑い声、それも女の。私はその声が女神の声に聞こえた。なぜなら、声は上から降ってきたからだ。上を見上げると、左にある部屋のドアが少しだけ開いている。あそこに女神がいるのか。私はゆっくりと階段を上った。本当はもっと急いで女神の元へ行きたかったが、ずっとハウスに籠り、研究していたせいで、足が上手く動かなかった。ようやく上りきると、声は二つしていることに気づいた。女神は二人いるのか。私はますます胸が躍った。私が勢いよくドアを開けると、二人の女神は驚いて声をあげた。私は女神を驚かせてしまったことを悔いたが、今はそれよりも許しを得たかった。私は二人に許しを請うた。許してほしい、と。私の犯した罪を許し、開放してほしい、と。しかし、二人の女神は怯えたような表情を見せるだけで、一向に私の話を聞いてくれない。どうして、あなたたちも私を許してくれないのだ! 確かに私は罪深い人間だ。何人もの人々の命を奪ってきた。しかし、正気に戻った今、私は許しを請う心を持っている! 私が命を奪ってしまった人々を想う気持ちがある! 許しを得る代わりに代価がいるのだとしたら、喜んで支払う。だから、私の罪を拭ってくれ。私を許してくれ!
これだけいっても、女神は言葉もくれず、震えながら、立ち尽くしていた。どうして震えている? 寒いのか? だったら、温かいものをなんでも差し上げよう。わたしの罪を拭っていただく代わりに…………ちょっと待て。女神が凍えることなどあるのか? いや、あるはずがない。なぜなら、彼女達は暖かな楽園にいるはずだからだ! そもそもこのようなところにいるのがおかしい。……そうか、お前達は女神に化けた悪魔の使いだな。私の穢れた魂を取りに来たのか。お前達も私に死ねというのだな。そうはさせない。私は許しを得るまで死ぬことはできないのだ。私が許しを得た後ならば、魂でも身体でも好きに持って行けばいい。だから今だけは待ってくれ! 待て、どうして嫌がるのだ。私は少し待ってほしいと言っているだけなのに。どうしても私を連れて行く気か! 悪魔だから人の心も理解してくれないのか! くそっ! 消えてくれ! 頼むから、あと少しの間だけでいいから!
私は、効くかどうかは分からなかったが、がむしゃらに鉈を振り回した。気がつくと、二人の悪魔の使いは赤い血を流しながらその場に倒れていた。鉈で悪魔を倒した人間など、おそらく私が初めてだろう。悪魔の血も赤いのだな、と思っていたとき、私は唐突に、悪魔を殺したという事実に恐怖した。このようなことをして、私は死後、きっと地獄に行くだろう。地獄では一体どのような目に合わされるのだろう。私は身震いした。一刻も早く許しを得なければ。少しでも楽園に近づくために。
私は廊下に出た。他に誰かいないのだろうか。私を許してくれる者は。見ると、廊下を挟んで向こう側に、男が一人立っていた。ここの住人なのだろうか。分からない。思い出せない。私は男に近寄った。男は怯えた表情で、私のことを旦那様と呼んだ。やはりここの住人らしい。私は歓喜した。この男がきっと私を許してくれる。救ってくれる! しかし、私が近づこうとすると、男は私と距離を開けるように後ずさった。どうして逃げるんだ。話を聞いてもらいたいんだ。話を聞いて、許してほしい、ただ、それだけなんだ! お願いだ、話を、懺悔をさせてくれ。どうして……どうして逃げるんだ! 私の話を聞いてくれないのか? お前も、私の罪を許してはくれないのか!
私は男に迫ったが、男は悲鳴を上げて部屋に逃げ込んだ。私は逃がすまいとして、足止めのつもりで男に向かって鉈を振り落とした。しかし、ちょうど男はドアを閉めようとこちらを向いていたため、鉈は男の胸の中央に大きな線を描いた。男は何かを呟いたと思うと、そのまま仰向けに倒れた。私は驚いて目を見張った。どうしよう、私はまた罪を犯してしまったのか。そんなつもりではなかったのに……。そうだ、私のせいではない……私のせいではないんだ! 妻が死んでしまったのも、この男を殺してしまったのも! 私のせいでは……。そのとき、隣の部屋から別の男が姿を現した。外が騒がしくて様子を見に来たのだろう。私は男の表情を見るなり、そいつの心情が手に取るように分かった。この男も私を許してはくれない! 男は私がこちらに踏み出すのと同時に部屋に駆け込んだ。だが私はそれよりも早く男の背中に鉈を振りかざした。
私は、たった今手にかけたばかりの男の前で立ち竦んでいた。次から次へと涙が溢れた。どうして誰も分かってくれないんだ。どうして誰も私の話を聞いてくれない。どうして罪を許してくれない。私が罪人だからか。だが、罪人だからこそ、許しを請う権利があるはずなのに……。
私が独りで泣いていると、どこからか、別の泣き声が聞こえてきた。誰かが泣いている? それも、私のために? 私は泣き声のするほうへ赴いた。部屋に入ると、中央のベッドに可愛らしい赤ん坊が力一杯泣いていた。私はその赤ん坊を抱き上げ、ゆすってやった。途端に、赤ん坊は泣くのを止め、寝息を立てて眠り始めた。私はその安らかな寝顔に心を癒された。枯れることなく涙を流した。この子は私を許してはくれないが、私を救ってくれた。私は、今こそ、本当に正気を取り戻した。しかし、私はもう引き返すことができないところまで来ていた。私は多くの、最愛の者達を殺した。妻、使用人たち、そして……
私は赤ん坊が起きないよう、そっとベッドに戻した。そして、しばらくの間我が子の寝姿を見つめていたが、ようやく顔を上げると、鉈をゆっくりと振り上げた。
目の前で父親の肖像画が、罪に汚れた私を蔑むように見つめていた。私は昔からこの男が嫌いだった。恨めしくすら思っていた。しかし、どんなに嫌っても、やはり私はこの父親の子供なのだ。罪人の子供は罪人になるほかに生きる道はないのだ。ならば、私が少しでも正気を保っている間に、これ以上犠牲者を出さないためにも、私は……
私は初めて父に面と向かって話した。
「私は、あなたを呪います」
そして、鉈を己の首元にあてがい、穢れた魂を切り裂いた。
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