五.「録」
「いやああああああ!」
東子は鋭い叫び声に目を覚ました。東子は自分の首を押さえて泣いていた。のどがひりひりする。悲鳴を上げたのは自分だったのか。東子は息を荒げながら身体を起こした。目の前に台車が転がっている。泣き疲れて、その場で眠ってしまったのだろう。
夢で見た光景を今でも鮮明に覚えている。全身がまだ震えていた。あれは何だったのだろうか。あの場所は間違いなくここだった。それに、あの殺されていた人々にも見覚えがある。つい先程見た人々。前に読んだことのある本で、これと同じ現象について書かれていたものがあった。過去夢……。今のがそうなのだろうか。どうして自分がそんなものを……。
東子はずっと握っていたハンカチと眼鏡をポシェットに入れると、ふらふらと立ち上がった。どこいくあてもなかったが、なんとなくその場に留まることは躊躇われた。
気がつくと、東子は礼拝堂にいた。さっきまでは怖くて近寄ることすらできなかったのに、あの夢を見たせいか、今は怖いというよりも、悲しいという感情の方が強かった。相変わらず掠れたような泣き声が途切れ途切れ聞こえてきた。先程は聞こえなかったが、よく耳を澄ましてみると、時々、言葉のようなものも聞き取れた。それは懺悔をしているようだった。
「ごめんなさい」「許してください」「助けて」……
それを聞いているうちに、東子もいつの間にか同じことを呟いていた。そして、そのまま近くの長いすに疲弊しきった身体を預けた。
これから自分はどうすればいいのだろう。東子は全く考えが浮かばなかった。椅子に凭れながら、前列の椅子の下で足を遊ばせていると、不意に足先に何かの感触を感じた。なにやら硬くて四角い物が落ちているようだ。東子は足をいっぱいまで伸ばしてそれを取ろうとした。なかなか上手くいかなかったが、何とかしてそれを足元まで持ってくると、それが本であることが分かった。埃と砂でボロボロに汚れてしまっている。手に取ってみると、だいぶ古いものであるように見えた。
手で汚れを払うと、すっかり色褪せた金色のタイトルが現れた。
「ダイアリー?」
どうやらそれは誰かの日記帳のようだった。東子は日記帳を開いてみた。だいぶ古いものらしく、ちょっと触っただけページが取れ落ちてしまいそうだったので、東子は慎重に捲らなければならなかった。日記帳にはどのページもぎっしりと埋まっていた。しばらく流し読みをしていたが、あるページで手が止まった。
八月三日
昨日、前から建てていた別荘がようやく完成した。そこでさっそく、今日からそこで夏休みを過ごすことになった。あの人に、向こうではあまり人と接触したくないから、使用人は少ししか連れて行くな、と言われていたので、使用人の中でも特に懇意にしていた数名を連れて行くことにした。あの人は仕事で人に会うことが多いから、気持ちは分かるけど、使用人まで制限するのは良くないと思う。この別荘かなり大きいんですもの。使用人が数名ではかわいそうな気がするけど、あの人はそんなこと少しも気にしないのよね。彼らも快く思っているから、まぁ大丈夫だと思うけど。
でも、この場所って、あの人が教えてくれた話では昔監獄が建っていたらしいけど、確かにどこか不気味な感じがする。明日あの人がクリスチャンの私のために建ててくれた礼拝堂に行ってお祈りしましょう。お祈りすればきっと変な感じも消えるわ。
さあ、元気出して明日のために今日はもう寝ましょう。坊やももうぐっすり眠っているし。……そういえば、あの人はどこにいるのかしら? 部屋にはまだ戻ってきていないみたいだけど……。
八月四日
あの人は今日、庭師と共に一日中ビニールハウスと奥の森の中を往復していた。何か植物をハウスの中に運んでいたみたいだけど……。でも、夕食時に二人が戻ってきたときは本当に驚いた。だって二人とも頭のてっぺんから足の爪先まで泥だらけだったんですもの。最初は誰か分からなかったくらい。あんなに大声を上げたのは久しぶりだったわ。コックや女中の子たちにはすっかり心配かけさせてしまったみたい。でもみんなであんなに笑ったのも久しぶりかもしれない。だって本当に可笑しかったんですもの。あの人だけは、疲れてしまって、あまり楽しそうではなかったけど。その証拠に、隣の部屋からは大きないびきが聞こえてくるもの。これはこれで笑えるけど、坊やが起きないかが心配……。
昨日はちょっと不安に思ってしまったけど、ここでの生活も悪くないものね。明日から楽しく過ごせそう。
八月五日
今日もあの人は朝からハウスに直行。昨日運んできたものを綺麗に整頓すると言って。でも、今日はまだそんなに汚れて帰ってこなかったから良かったわ。あの人ったら、植物のことになると、すぐに周りのことが見えなくなっちゃうのよね。前も、知人だか友人だかのお宅にお邪魔したとき、ずっとそこの主人と植物のことで話し込んでて、結局家に帰ってきたのは三日後の夜。あの時は奥さんにも申し訳ないことしちゃったわ。でも、花や木と触れ合ってるときの彼ってすごく綺麗なのよね。純粋で、無垢で目がとても輝いていて。こうして書いてみると、すごく子どもみたいに見えるけど、そんなところに惚れたのもまた事実なのよね。惚れた弱みって、こういうことを言うのかしら?
八月七日
男の人って! どうしてああなんでしょう! ハウスに植物を運んでいらい、あの人はずっとハウスに篭りっぱなし。植物好きなのは分かってるけど、たまには私や坊やに構ってくれてもいいのに。あんまり腹が立ったから、私が腕によりをかけて作ったケーキを彼にだけは上げなかったわ。……なんだか私の方が子供みたいなことをしてる気分。あの人、ケーキがもらえなくたって少しも気にしていなかったんだもの。
明日、坊やと遊んでくれるか聞いてみましょう。あの子もきっとパパと遊びたがっているに違いないもの。
八月九日
私が何度言っても、彼は忙しいから、と坊やの遊び相手をしてはくれなかった。こっちに来てから、一度も坊やとも遊んでくれていない。本邸にいた頃はしょっちゅう遊んでくれていたのに。
でも、今日だけは特別に許してあげたわ。だって、彼、私たちの相手をしてくれないことを詫びて、私の大好きな花をプレゼントしてくれたんだもの! 一体いつの間に用意していたんでしょう。朝起きたら、前庭と通路を囲むようにして時計草が植えられていたのを見たときは本当に驚いたわ。昨日までは芝生しかなかったのに。あの人はなんでもないといった装いでさっさとハウスに篭っていたけど、きっと夜中に植えていてくれたのね。坊やも一晩でお花畑ができて嬉しそう。あとは、ハウスにさえずっと篭っていてくれなければ、素敵なんだけれど……。
八月十五日
あの人が、時計草をプレゼントしてくれて以来、ハウスから出てきてくれない。最初の頃は、食事は私たちと一緒に食べていたのに、今ではハウスに篭って一人で食べているし。おまけにコックの話では日に日に食事の量が減ってきているとか……。あの人は一体あそこで何をしているんでしょう?
そういえば今日、あの人の仕事仲間らしい人があの人のところにまた訪ねてきたけど、いつも通りお茶も飲まずに帰ってしまったわね。これでもう三度目になるわ。お仕事が忙しいのかしら。だとしたら、このような所でのんびりしているのはまずかったのでは……。あの人のお仕事のためにも本邸に帰ったほうが良いのかしら。でも、よく思い出してみると、こちらに来ようと提案したのはあの人だったはず。一体何を考えているのかしら。なんだか心配……。
八月十七日
今日も仕事仲間の人が来た。女中の子に言われて気づいたのだけれど、あの人を訪ねてくる人ってみんな一度しか来なくて、二度以上来たことがある人っていないのよね。何か理由でもあるのかしら。
八月十九日
今日、あの人が何をしているのか確かめるために、ハウスを覗いてみた。ハウスに入るのは初めてだった。あの人には入らないように言われていたけど、私はあの人が心配だったんだもの。少しくらい覗いたって構わないじゃない。私はあの人の妻なのだから。それなのに、あの人はそんな私の気持ちを察してくれるどころか、私がハウス内を見渡しているのを見るや否や、血相を変えて怒鳴るんだもの。その目つきがとてもあの人のものとは思えなくて、私は恐ろしくてとっさに礼拝堂に逃げ込んでしまったくらい。あれは本当に怖かった。今でも思い出しただけで鳥肌が立つ。あの人のあんな顔、初めてみたわ。まるで、あのハウスがあの人を変えてしまったみたい。あそこにあった植物もあまり見ないようなものばかりだったし。ただ単に、私が植物に詳しくないだけかもしれないけど……。
八月二十一日
ああ、神様! どうか、お助けください! 私はどうすればよいのでしょう。
先程、あの人の書斎のドアが開いていたので、あの人がいるのかと思い、覗いてみたんです。あの人はいませんでしたが、窓が開いていましたので、女中が閉め忘れて、そこから入ってきた風で押されて開いたのでしょう。私は窓を閉めようと机の側に寄りました。しかし、その時見てしまったのです! 風で偶然捲られたのか、元々開いていたのかは分かりませんが、植物図鑑のあるページが開いていて、それがハウスで見たものとそっくりだったのです。それは『アサ』でした。この『アサ』に関する噂は私も聞いていましたので、いやな予感がして、念のため記憶をたどって他の植物も探してみました。そうしたら、そのほとんどがあの麻薬の原料になるものだったのです! 中にはそれとはまったく関係ないようなものも混じっていましたが、薬も過ぎれば毒となる、という諺もあるくらいですし、なによりあの人のお父様のことを聞いたことがあるので、私はもう不安で不安でたまらなくなってしまいました。しかし、あのお父様をあれほど嫌っていたあの人がそんなことをするなんて思えない! 私は信じたい! でも、そう思えば思うほどこの胸に積もっていく不安は一体なんなのでしょう。やはり、あの人本人に直接聞いてみるべきなのでしょうか。いえ、きっとそれしかないのでしょうね。もし、彼が無実だったとしたら、私は彼に嫌われるかもしれませんが、それでも、私のこの胸のうちの不安を取り除くことはできる。明日聞いてみましょう。たとえ、どんな結果になろうとも、私が彼を愛していることに変わりはないのだから。
すべてが終わった後、主よ、私は、今度は紙面上ではなく、直接あなたに懺悔をしに行きます。私は、愛する夫を疑うという大罪を犯してしまったのですから。
八月二十二日
昨日記したとおり、今日の朝、私は早速あの人に私の胸の内の不安を打ち明けた。ところが彼は、私がまた勝手にハウスに入ったことを咎めるどころか、私が側にいることなど気づいてもいないかのように黙々と机に向かって何か作業を続けていたわ。私は何度も彼に声をかけたし、肩を叩いたりしたけど、それでも彼はほとんど反応を示さなかった。私は彼が病気ではないかと心配になった。しかし、その時、私は見てしまった。彼の机の隅に積み重なっている乾燥した植物と、火皿から灰が少し漏れて転がっているパイプを。最初、私はなぜ、こんなところにパイプがあるのか分からなかったわ。だって、彼、普段は煙草は全く吸わないんですもの。でも、すぐにはっとした。そして、信じたくないような恐ろしい想像をしてしまった。まさか、彼が……麻薬を……?
私は彼に問い詰めたけど、やはり彼は私の言葉に耳も貸さず、険しい顔をして紙に何かを難しいことを記していたわ。そして、不意に手を止めると、震える手つきでパイプに乾燥した葉を入れ、火をつけると、それを口にしたの。私は彼に止めるよう言ったけど、やっぱり、彼は私の言うことなど少しも聞いてはくれなかった。彼はパイプを咥えたまままた書面に目を通し始めた。私が何度も何度も彼を呼んでも、彼は少しも私を見てくれない。私はもうつらくて狂いそうだった。とにかく、今の彼を見ているのがつらかった。だから、礼拝堂に駆け込んで、神に祈った。彼を助けてほしいと。
あの人があんなことになっていたのに、どうして私は気づかなかったの? どうしてあの人をもっと早くに止めることができなかったの? どうして? すべて、私のせいだわ。あの人のことをあんなに愛していると言ったくせに、あの人のことなど何も知らなかった。いいえ、今も何も知らない。知ろうとしなかった。知っても、あの人を助けることができず、恐ろしくて逃げてきてしまった。すべて私のせいだわ。こんな弱い私が今出来る唯一のことは、神に祈ることのみ。この礼拝堂であの人を信じて祈り続けること、ただそれだけ……。そして、きっとこれが、私が受けるべき罰なのでしょうね。
お願いです、主よ。どうか、どうか、あの人をお救いください。
九月六日
ここに留まってからもう何日も経つ。私はここでずっと祈り続けている。ここに篭って祈り始めてから、あの人の顔が頭から消えたことはない。私はあの人のことだけを祈っている。あの人のことだけを想っている。その彼は、一体今、何を考え、何をしているのだろう。神が人に心を覗く力を与えてくださらなかったのは意地悪ね。でなければ、彼も私もこんなに苦しまずに済んだのに。今は夜だから、明かりはあるけど、この中も随分暗い。前に掲げてある像にも影が差していて、まるで私の悲しみを分かち合っているみたい……
たった今コックが、ハウスから泣き声が聞こえる、と知らせてくれた。ハウスからだから、あの人だろうということは分かるけど。あの人に何かあったのかしら。あの人が涙を流すなんて、よっぽどのことがあったに違いないわ。まさか、悔いている? 自分の犯してしまった罪を……。そうよ、きっとそうだわ! きっと、私の祈りが通じたんだわ! だったら、私はすぐに彼の元へ行って支えてあげないと。
ああ、主よ! 感謝します! 私はまだ罪を償うことはできていないかもしれないけど、彼に会わせてください。私は必ずここに戻ります。この日記も置いていきます。ですから。ありがとう! 本当に――
日記はそこで終わっていた。東子は本を閉じた。堂内は今もまだ泣き声と懺悔の声が静かに響いていた。最初に聞いたときは恐ろしく感じたが、今は悲しさを感じるどことか、彼女に対して感情移入すら起こしていた。
東子と彼女は同じだった。二人とも愛する人の罪に気づかず、それを止めることもできなかった。その結果、彼女は死んだ今でも礼拝堂で涙を流しながら懺悔を続け、自分はというと、一体どうすれば良いのか分からず途方に暮れている。頭の中で、夢で見たこと、特に彼女が殺されたところが何度も再生されていた。東子は、ひざの上に置いてある日記を見つめながら、自分もああなるのだろうか、とぼんやり思った。
そんなこと考えているうちに、いつの間にか嗚咽と懺悔の声が消えているのに気がついた。気になって顔を上げると、目の前に前列席から互いの鼻がくっつくくらい身体を乗り出し、じっと東子を見つめている女性の姿があった。その顔は青白く、胸には縦に大きな傷が入っていて、その隙間から真っ暗な闇が続いている。その周りには黒ずんでシミになった血が白い服に広がっていた。顔に垂れ下がった長い髪のせいで表情は読み取れないが、その虚ろな目が東子を凝視していることははっきりと分かった。
東子は驚いて声も出なかった。その顔には見覚えがあったが、夢で見た人物とはほとんど別人のようだった。東子が目を見張ったまま動けないでいると、彼女はすっと静かに東子のほうへ手を差し出してきた。その細い指先が頬に触れたとき、そのあまりの冷たさに、東子は我に返って慌てて横に飛びのき、彼女から離れた。彼女は腕を伸ばした体勢のまま、どうして、とでも言いたそうに首を横に傾けた。
東子は、確かに彼女に同情していたし、自分と似ているとも思った。しかし、だからといって幽霊が怖くないわけではなかった。それに、どうして彼女が急に姿を現したのかも東子には分からなかった。東子は震えながらも、日記と懐中電灯を胸に抱えて彼女の反応を待った。
彼女は東子をまたじっと見つめた。そして、そのままゆっくりと椅子を乗り越え、東子のほうへと近づいてきた。東子は座ったまままた後ずさりしたが、その時、彼女の視線が一瞬日記のほうへ移ったような気がした。
「こ、これ? これがほしいの?」
東子は日記を前へ押しやるように差し出した。彼女も、またゆっくりと手を差し出したが、その手は日記の脇を通り過ぎて東子自身に向かって伸びてきた。
「違うの?」
では、一体何が目的なのだろう。東子が考えをめぐらせていると、彼女が東子の腕を掴んできた。東子は氷水を当てられたかのような冷たさにヒッと声を上げると反射的に腕を振り払って後ずさったが、すでに長椅子の端まで来ていたため、そのまま勢いで床に転げ落ちてしまった。
「いったあ……」
東子が涙目になりながら尻をさすっていたが、彼女が近づいてくるのに気づくと、慌てて立ち上がり後ろに下がったが、すぐ後ろは壁になっていて、これ以上距離をあけるのは不可能だった。彼女はもう東子の目の前まで迫ってきた。
「何? 何がしたいの?」
東子は必死で訴え掛けたが、東子の言葉などまるで耳に入っていないかのように、彼女は徐々に東子に近づいてきた。そしてついに、東子の眼前まで来ると、泣きはらした後のような少ししゃがれたか細い声で、
「あなたも…………同じ」と囁いた。それはすぐ側にいる東子にやっと聞こえるくらいの小さな声だった。
東子がその言葉を聞き取るか取らないかのうちに、彼女は今度は先程とは比べ物にならないくらい素早く腕を伸ばして東子の首を掴んだ。東子はその冷たさと鋭さに、また短く悲鳴を上げた。彼女は何を考えているのか、東子の首を掴んだまま動く気配を見せない。東子の頭の中でたった今彼女が言った言葉が反芻された。私も、同じ。彼女と……。
東子はもう一度彼女をよく見た。彼女はまるで哀れの象徴であるかのように見えた。胸に大きく開いた傷、青白く表情のないやつれた顔、どこか後悔と悲しみを感じさせる虚ろな目。
「ちがう……」東子はいつの間にか自分でも気付かないうちに、震えながらも声を絞り出していた。「違う、同じじゃない。私は……そんな……」
東子の反論を、彼女は意外に思ったのか、首を傾けると、また「同じ」と呟き、少しずつ首を掴む手に力を込め始めた。
東子は恐怖に駆られたが、キッと彼女を見据えると、今度はもっとはっきりと言った。
「違う! あなたは、彼が罪を負ったのは自分のせいだとかいって、こんな暗いところにただ逃げてきただけじゃない。逃げて、本当のことから目を逸らしたかっただけじゃない! 私は、あなたと同じにはならない。逃げたりなんかしない。私は、絶対、あの人を救ってみせる!」
しかし、彼女の首を掴む力はどんどん強くなっていき、東子は言葉を出すことすら難しくなった。
殺される……
東子は手を振り解こうと、とっさに手に持っていた日記帳で彼女をなぎ払った。東子は以前見た映画の影響で、幽霊は人に触ることができるが人は幽霊に触ることができないと思っていたため、彼女が勢いよく飛ばされたのを見て驚いた。しかし、のんびり傍観している暇はない。東子は彼女が体勢を立て直す前に急いでドアまで走り、渡り廊下に出た。そのまま後ろを振り向きもせず、一目散に屋敷に戻ると、ハウスに向かって走り出した。
「私は、絶対にあの人を救ってみせる」
東子は先程言ったことをもう一度頭の中で繰り返して、その決心をより強固なものにした。
もうすぐ玄関が見えるところまで来たとき、突然、目の前のドアが東子を招くように開いた。東子が覚えている限りでは、確かそこは居間だったはずだ。東子は驚いて足を止めた。また何かが出てくるのだろうか。全開しているドアから少しだけ中を覗いてみると、右手の奥がぼんやりと灰色に光っているのが見えた。よく見ると、その光っているところに男の人が立っているのが分かった。というより、その人自身が光っているようだった。
その人は物憂げに笑みを浮かべると、東子の目を見つめて言った。
「急ぐのはかまわないが、その前に少し、私とお話してはくれないかな、お嬢さん」
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