零.「廻」

 俺は車を運転しながら、大きく深呼吸すると、大丈夫と自分に言い聞かせた。これを繰り返すのはもう何度目になるだろう。俺はハンドルを持つ手を強めた。

 フロントガラス越しに外を眺めた。今は森の中の細い道を通っている。まだ昼間なのに、ライトをつけなければならないほど、この森は暗かった。俺は探るように辺りを見回した。もちろん人影などなかった。それでも、何かがいるような気配が漂い、背筋が寒くなった。    

 大丈夫。俺はもう一度自分に言い聞かせた。それでも、心臓の鼓動は速くなるばかりだった。

 俺はオーディオパネルに映ったデジタル時計を見た。時刻はもうすぐ四時になるところだった。俺は、もう一度深く息をついた。


 あの電話を受けたのは、今から六時間ほど前のことだった。夏休みだが、特別講義があったので、俺は平常通り学校に行った。しかし、そこで一緒に講義をとっているはずの友人の姿が見当たらなかった。いつもは俺よりも早く来ているのに……。珍しいと思いつつも少し心配になったので、電話してみようと携帯を取り出すと、ちょうどその友人から電話がかかってきた。まだ来ていないことをからかってやろうと軽い口調で電話に出ると、友人は俺の調子に合わせるどころか、妙に落ち着いた声で謝罪してきた。こいつはいつも落ち着いているが、今日は特にそうだった。まるで、この後起こる全てを知り尽くし、それを快く受け入れているような雰囲気だった。俺はそのいつもと違う違和感が気になって尋ねてみた。

「どうかしたのか? お前が授業に遅れるなんて。今どこだ? もうすぐ教授来ちまうぞ」

「ああ、悪い。今日は授業に行けそうにない。……いや、たぶんしばらくは」

「は? 何言ってんだ。この授業、出席重視してる柿本のだぞ。それに、しばらくってどういう意味だよ? 何かあったのか? もしかして、単位が足りてるお前を無理矢理この講義に誘ったこと、怒ってんのか? まさか、もう止めたとか?」

 しかし、そいつはすぐには答えなかった。やっぱり、怒っているのだろうか。せっかくの最後の夏休みを潰したことを……。受話器の側にいるのか不安になるくらい沈黙に耐え切れず、声をかけようとしたとき、ようやくそいつは口を開いた。

「いや、そうじゃないんだ……すぐに分かるかもしれないけど、その前に、お前にだけは言っておこうと思って、池谷」

 急に改まったことを言い出され、俺は無意識に姿勢を正していた。

「なんだよ、急に」

「池谷、平石のこと、覚えてるか?」

「あ、ああ、覚えてるけど……」

 それはよく覚えていた。教室の窓ガラスが外れて、転落したらしい。その日は、俺は学校には行っていなかったので、後から誰かに聞いてそのことを知ったのだ。だが、驚きはしたが、それだけだった。前から気に入らないと感じていたので、特に悲しいとは思わなかった。ただ、新聞に載るくらい大きな事柄だったので覚えていた。だが、どうして、今そんな奴のことを持ち出してきたのだろう? 俺は続きを待った。

「あれ、表向きには事故ってことになってるけど、本当は、俺が、平石を殺したんだ」

 突然の告白に言葉も出なかった。正直、嘘だとしか思えなかった。しかし、その口調は明らかに嘘ではなかった。俺の沈黙をどう取ったのか、そいつは話を続けた。

「これから警察に行こうと思ってる。行って、全部話そうと思う。だから、学校には行けない。ごめんな」

「ち、ちょっと待てよ! 意味分かんねえよ! なんで、お前が、その……そんなこと……信じられねえよ」

 俺は廊下で電話をしていたが、人に聞かれないとも限らないので、とっさに言葉を濁した。

「ああ、できれば俺も信じたくなかった。でも、もう決めたんだ、俺は、罪を償うよ」

 そう言う声にはなぜか清々しさすら感じられた。俺は、身体の一部を失ってしまったような感覚に陥った。それと同時に、死んだ平石に、生前ずっと感じていた嫌悪や怒りが再びこみ上げてきた。どうして、こいつが、あんな奴のために……

 俺は痛みを堪えるように拳を握り締めた。平石がいたらきっと殴っていたに違いない。

「どうして……んなことしたんだよ……」

 こいつがそんなことをしたのには何か理由があるはずだ。何の理由もなしに人を殺したりするような奴じゃないということはよく知っている。だからこそ、その理由が何なのか知りたかった。すると、そいつは場に似合わない、ゆったりとした口調で言った。

「お前には言ってなかったけど、俺、平石の論文、盗作したんだよ」

 こいつが、盗作? 俺は目を見張った。

 確かに、論文のテーマすら決まってなかった奴が、あんなに早く論文を提出したのは不思議に思っていたが、こいつの学力から考えれば有り得ないことではないと思っていた。

 そいつはその後、平石に呼び出されたこと、教授に話すと脅され、口論になったことなどを話してくれた(その頃にはもう授業は始まっており、教室や廊下は静かだったので、受話器から聞こえる声周りに響かないか心配になるくらいがはっきりと聞こえた)。

 話を聞いているうちに、俺の脳裏にある懸念が浮かんだ。

 盗作したのは、平石のもの。それをこいつに教えたのは、俺……。

 俺は、こいつに平石の論文のことを教えたときのことを思い出した。

 俺はあの時、なんて言った?

  ――盗っちまえば?

 まさか、俺のせい……?

 俺は男恐る恐る尋ねてみた。

「その、論文を盗作したのって、俺のせいか? 俺がお前に論文のこと教えて、それに……盗れ、とか言ったからか?」

「いいや、確かに、論文のことはお前から教えてもらったけど、実際に盗ったのは俺だから。お前のせいなんかじゃあないよ。心配させたんなら悪かった。池谷って確かこの間内定決まったんだよな。今はちょっとのことでも心配だろうからな。変なことで内定が取り消しになるのも嫌だろうし。でも、このことは俺個人の問題だから。お前に迷惑かけるつもりはないよ」

「あ、いや……そんなつもりじゃ……」

 おもわず言葉を濁したが、そいつの言う通りだった。俺はさんざん苦労して、やっと最近、前々から希望していたところから内定をもらえた。だから、今だけは、どうしても問題を起こしたくはなかった。例え、どんな小さなことでも……。

 そんな俺の心情を知ってか知らずか、そいつは俺に言った。

「そんなに心配しなくても大丈夫だって。池谷は今回のことには全く関係ないだろう。まあ、罪人の知り合いってことで、何か言われるかもしれないけど、その時は他人のふりでもしてくれて構わない」

「何言ってんだ、馬鹿。そんなコソコソと隠蔽工作みたいなことするかよ」

 俺は、さも呆れたように言ったものの、脳裏には別のことが渦巻いていた。

 こいつは、俺に迷惑はかけないと言ったが、かといって、俺のことを話さないとは限らない。それに、いくらこいつが、俺は事件に関係ないと主張したとしても、向こうがどう解釈するかも分からない。犯罪教唆というのも聞いたことがある。しかし、俺はからかって言ってみただけで、本当に盗ってしまうなんて少しも……けど、俺が言ったことに変わりは、ない。

 俺がコソコソするのは確かに似合わないとか、難しい言葉よく知ってるなとか、いつもと変わらない調子で人をからかってくるこいつに、内心で少し腹を立てながら尋ねた。

「なあ、本当に行くのか? 向こうはもう事故ってことで処理してるんだぞ。今更わざわざ行かなくても……」

「いや、俺がそうしないと気が済まないんだよ」

 そいつは急に真面目腐って、きっぱりとそう言った。こいつが一度決めたことは絶対にやり通す性格なのはよく知っていたし、止めても無駄だということもよく分かっていた。しかし、それでも俺の中の不安と焦りは増すばかりだった。

「でも、言ったとしても、向こうがそれを信用してくれるかなんて分からないだろう。証拠なんてないんだろ? だったら、言っても無駄じゃないのか?」

「ああ、警察が俺の言うことを信じてくれるかは分からない。ただのイタズラと思われるかもしれない。でも、言うだけでもいいんだ。俺はもう、許したし、許してもらったから……あとはお詫びするだけなんだ」

 後半あたりは何のことを言ってるのかさっぱり分からなかったが、こいつが、どうあっても警察に行こうとしていることだけは分かった。これ以上電話で押し問答を繰り返していても埒が明かない。こうなったら、直接会って説得するしか……。

「分かったよ。けど、行く前に俺もお前に話したいことがあるんだ。できれば直接会って。今家にいるのか? じゃあ、お前んちの近くにある公園で待っててくれ。あそこ、あんまり人が来ないって言ってただろう。話すにはちょうどいい。授業はサボるから。じゃあ、後でな」

 俺が授業をサボるのをあいつが非難する前に、俺は電話を切った。

 とにかく、今だけは止めないと……。

 俺は急いで学校を出た。


 俺は、そこで、本当にあいつを説得するだけのつもりだった。しかし、俺はあいつの頑固さを甘く見ていた。あいつは俺が何を言っても、大丈夫だ、と軽く言うだけで、頑としてときかなかった。

 何が大丈夫なものか……。

 俺は、不意に自分の意識がおぼろげになるのを感じ、気がついたときには――


 ミラー越しに後ろの座席を覗いた。そこには常に後ろのトランクに入れてあるはずの毛布が座席いっぱいに広げて置かれていた。ハンドルを握る手が震えた。しかし、すぐに頭を振って、もう一度、大丈夫、と自分に言い聞かせた。

 なぜこんなことになったのだろうか……。俺は、今までのことを頭の中で巻き戻していった。最終的に、あの憎らしい男の顔が浮かんだ。

 俺は歯を食いしばった。全部、あいつのせいだ。あんな奴のせいで……。俺も、あいつも……。

 その時、一本道の奥に建物のような影が見えた。

「こんなところに建物? 別荘か何かか?」

 ここが他人の敷地だったらまずいことになるが、他に進む道もないので、とりあえず向かってみることにした。

 近づくに連れて、だんだん建物がその姿を現してきた。目の前まで来たとき、それが結構な大きさのものであることが分かった。それに、ずいぶん古そうだった。明かりも見えないし、今は誰も住んでいないのかもしれない。

 このあたりにしようか……。

 例え引き返すにしても、一度Uターンしなければいけないので、どの道屋敷の前で一度車を止めなければいけない。俺は、車を門の脇に駐車した。

 その時、後ろから何かが動く音がした。

 俺はぎくりとして、とっさに後ろを振り向いた。しかし、毛布は先程と寸分違わずその場に敷かれていた。早くなった鼓動を抑えながら、しばらくそちらを窺ってみたが、やはり動く気配はなかった。

 俺はもう一度デジタル時計に目をやった。四時九分。少し急ぐか。いくらまだ残暑が続いているとはいえ、暗くなれば空気も冷えるし、作業が行いにくくなる。

 俺は車を降りて、あたりを見渡した。屋敷の周りは森に囲まれていて、さらに前方には石で造られた塀と鉄の門がどっしりとかまえている。

 俺は門の側により、中を覗いてみた。

「うわ……」

 思わず声を上げてしまった。門から入ってすぐに、庭一面に時計草が生い茂っていた。ただでさえ、時計草を直接見るのは初めてだと言うのに、この量はすごかった。

 気づくと、俺は門に手をかけていた。力を入れて押してみると、割とあっさり開いた。後ろを振り返ってみたが、車は特に変った様子もなくその場に鎮座していた。

 ちょっと、覗いてみるか。

 俺は吸い込まれるように、門の中に足を踏み入れた――。






  了

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時計草 朝日奈 @asahina86

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