八.「想」
「ごめんなさい」
不意に東子が呟いた。それは蚊の鳴くような声だったので、清志朗にも東子がなんと言ったのかよく分からなかった。
「ごめんなさい」
東子はもう一度、独り言のように言った。今度は清志朗にもはっきりと聞こえた。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃない」
おそらく東子は自身のせいで清志朗が嫌なことを思い出してしまったことを謝罪しているのだろう。清志朗はなんとか自分の感情を抑え、慰めた。しかし、それでも東子は止めなかった。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「……ごめんなさい」
「謝るなと言ってるだろう!」
清志朗の言葉などまるで聞こえないかのように謝罪を繰り返す東子に業を煮やし、清志朗はとうとう怒鳴りつけた。ここに来てから、もう何度東子に怒鳴っただろう。
東子はまたビクリとすると、小刻みに震えだした。
「だって……私のせいで……」
東子は俯いて、これ以上清志朗に面倒をかけないように涙が出てくるのを隠したが、話している声から、東子が泣いていることはバレバレだった。
「東子ちゃんは悪くない。俺がわざと突き落としたんじゃないって、証明しようとしたんだろう」
清志朗は何とか東子を宥めようと試みたが、東子は何も答えず、俯いたまま嗚咽を堪えるばかりだった。清志朗もすっかり疲れてしまい、次第に何も言わなくなった。
「やっぱりやだ」
おもむろに東子呟いた。しかし、清志朗にはその意味が分からなかった。清志朗が何のことか分からずにいると、東子が涙声で続けた。
「清志朗お兄さんが罪人なんてやっぱりやだあ」
東子はついに声を上げて泣き出した。清志朗はしゃくり上げて泣いている東子を見て息を詰まらせた。
「だって、いつも、やさしくしてくれて、いろんなこと教えてくれて……ここに来てからだって、そうで……今も、慰めて……清志朗お兄さんは、私にとっては、全然罪人なんかじゃ……」
「それは東子ちゃんが、従妹で、年下だからだよ。本当は、俺はそんなにいい人間じゃあない」
東子は首をぶんぶん振りながら、清志朗にしがみついた。
「違う! 清志朗お兄さんは、お、お兄さ、は……」
自分で何を言っているかも分からないほど、東子は泣きじゃくった。
そんな東子を見ていると、清志朗はだんだん自分のなかにあった怒りや苦しみなんかの感情がどこかへ行ってしまうように感じられた。清志朗は自分にすがりつく東子の頭にそっと手を置いた。
「ごめんね。でも、事実は変えられないんだよ。俺は罪人なんだ」
「でも、償えば……」
東子は懇願するように清志朗を見上げた。しかし、清志朗はゆっくりと首を振った。
「俺自身が、罪人であることを許せない、許したくないんだ。こう見えても、結構プライド高いんだよ。それに、東子ちゃんの話だと、例え俺が自分を許したとしても、他人が俺を許さないといけないんだろう。その他人って平石――俺の友達のことじゃないのか? だったら、平石に許してもらうなんて無理だ。もうこの世にいないんだから」
「私が、許すよ」
「君が俺を許しても、どうにもならないよ」
「でも、誰かが許さないと、清志朗お兄さんも自分を許してあげられない、ずっと自分を責め続けるんでしょう?」
「誰かが許しても、きっと責めるだろうね」
清志朗は自嘲気味に微笑んだ。
「どうして?」
「言ったろう、プライドが高いって。ナルシストって言われるかもしれないけど、俺は自分が他よりもできた人間だと思ってる。だから、何でも完璧じゃないと気が済まないんだ。他人に、自分は出来るんだ、って思わせたいんだ。東子ちゃんだって例外じゃない。だから、ちょっとした失態を起こすだけでも、自分自身に腹を立てる。醜い奴だと罵りたくなるんだ。それなのに、人殺しなんて、罪人なんて……」
清志朗は苦虫でも噛み潰したように、表情を歪ませた。この人はきっと自分自身に嫌悪感を抱いているのだろう。しかし、東子には、とても清志朗が醜くも、嫌悪感を抱きたくなるような人間には見えなかった。むしろ……
「やっぱり、清志朗お兄さんは、すごいよ」
「え?」
清志朗には、東子の言っている意味がよく分からなかった。すごい? 一体何が? こんな自分の、一体どこが?
「俺は、何もすごくなんかないよ。打算的で、自分の評価ばかり気にしてる。醜い奴なんだ。俺なんかより、君の方が……」
「ううん、清志朗お兄さんはすごい。だって、少しも他の人のせいにしようとしないんだもの」
清志朗は一瞬ぽかんとした。話の繋がりがよく見えなかった。東子はすぐに説明した。
「だって、論文を盗ったときも、友達がそそのかしたから、って責めたりはしなかったんでしょう。それに、さっきだって、嫌なこと思い出したのに、ちっとも私のせいにしようとしなかった。私なら、きっと他人のせいにしちゃう。だって、そのほうが簡単だし、自分が苦しまなくて済むもの」
「それは、自分のしたことを認めたくないからだろう」
「うん、だから、」治まっていた涙がまた溢れてきた。清志朗の言葉がなぜだか嬉しくて、笑みも一緒にこぼれた。「清志朗お兄さんはすごい人だよ」
清志朗は東子の笑顔を見るのがつらく、逃げるように目を逸らした。すごいなどと言ってほしくなかった。清志朗は歯向かうように言った
「でも、だからといって、それが自分を許していい理由にはならないよ」
東子の笑顔がまた歪んだのが分かった。清志朗は、またこの子を傷つけた、と心の中で呟いた。しかし、東子はふるふると首を振り、清志朗の服を強くつかんだ。
「そんなこと……そんなことないよ。だって、清志朗お兄さん、すごいのに、許してあげられないなんて、ずっと責めなくちゃいけないなんて、そんなの、悲しいよ!」
それは全く理屈に合っていない、子どもじみた、しかし、どこか説得力のある言い分だった。
悲しい。自分で自分の罪を責めることが。そんなこと、今まで思ったことなどなかった。自分を責めることで、今まで自身の行為を正当化してきた。でも、それが、悲しい? では、どうすれば良いのだ? 清志朗は自分が何をすればよいのか、よく分からなくなってきた。
「俺は、どうしたらいいんだ?」
清志朗はいつの間にか、心の中で思っていたことを口にしていた。それを聞きつけた東子ははっとした。今まで、ずっと許すことを拒んでいた清志朗が、初めて疑問を浮かべた。東子は必死で縋るように言った。
「もう自分を許してあげて。清志朗お兄さん、今まで、ずっとずっと自分を責めてきたんでしょう。充分すぎるくらい。だから、もう……」
「俺が許しても、平石が、他の人たちが許さない」
「私が許すから!」
「でも、だったらもっとダメだ。俺は何度も君を傷つけた。何度も悲しませて、泣かせた」
清志朗は涙ですっかり濡れた東子の頬に手をやった。つらい顔をして自分を見つめる清志朗に、東子は小さく首を振った。
「私、そんなことちっとも気にしてなんかないよ。だって、私、清志朗……さんのこと……好きだから」
東子はようやくそれだけ言うと、また清志朗の胸に顔をうずめた。東子は初めて自分の気持ちを伝えた。
「でも、俺は罪人だよ」
「そんなこと、関係ないよ。例え罪人でも、清志朗お兄さんが優しくて、頼りになる従兄で、私の大好きな人に変わりはないから」
普段ならば、年の離れた従妹に告白されれば、清志朗でも戸惑ったりもするが、今は、東子のその純粋な気持ちがただ嬉しかった。清志朗はその小さな身体をそっと両腕で包んだ。
「俺は、許されてもいいのか?」
「……うん」
清志朗は、東子の柔らかい髪に顔をうずめて嗚咽を押し止めた。
気がつくと、懐中電灯なしでも、周りがぼんやりと見えた。
「もう、朝?」
それに気づいた清志朗が、ハウスのビニール越しに外を見ながら呟いた。
東子も顔を上げて、周りを見渡した。
「ホントだ」
二人は、もうずっと長いことこの場所にいたような気分だった。
「うちに、帰ろう?」
東子は清志朗にそう提案した。
「うん」
清志朗は穏やかに微笑みながら頷いた。東子は久しぶりに見るその笑顔に、胸が熱くなった。
玄関から外を覗くと、雨はすっかり止んでいたが、まだ薄暗かった。庭に咲く時計草のほとんどは、雨のせいでその頭を下げていた。まるで、二人が出て行くのを恭しく見送っているようだった。
門のところまでつくと、外の方で主人の帰りを待っていたかのように、車がライトを光らせていた。清志朗は、ライトをつけっぱなしにしていたことをすっかり忘れていた。
「エンジン、持つかな?」
清志朗は心配そうにそう言うと、門に手をかけた。東子は息を呑んでそれを見守った。
清志朗が力を加えると、門はゆっくりと、重たい音を立てて開いた。
「開いた!」
清志朗は東子のほうを向いて頷くと、来たときと同様、東子に先に出させた。自分も出てしまうと、鉄の門はひとりでに、またゆっくりと閉じていった。
車に乗り込み、恐る恐るメーターを確認してみたが、不思議なことに、二人がここに来たときと全く数値が変わっていなかった。
「どうかした?」
助手席でシートベルトを締めていた東子が首をかしげてメーターを眺めている清志朗に尋ねた。
「ああ、うん……いや、なんでもないよ」
清志朗は東子に笑みでそう返すと、自分もシートベルトを閉めた。その時、視界に違和感を感じた。
「そういえば、眼鏡……どこかで落としてきたんだ」
清志朗の視力は目の前のものが全く判断できないほど悪いというわけではなかったが、車を運転するのには必要だった。予備の眼鏡は持っていないし、どうしようか、と考えていると、東子がポシェットの中から何かを取り出した。
「これ、ハウスの渡り廊下のところに落ちてたよ」
東子はハンカチに包まれた眼鏡を差し出した。眼鏡は少し汚れていたが、割れてはいなかった。清志朗はありがとう、と言ってそれを受け取った。久々にかける眼鏡は、少し違和感があった。
清志朗は車を動かした。ようやく、二人は当初の目的を果たすことが出来たのだった。
「うーん、やっぱりダメかあ……」
東子は携帯電話をたたむと、ドリンクホルダーに戻した。
「携帯、電波届いてない?」
「うん。お母さん達、きっと心配してるだろうから、電話しておこうと思ったんだけど……」
清志朗はフロントガラス越しに外を見渡した。いくら日が昇ってきたとはいえ、森の中は木々が生い茂り、ライトが必要なほどだった。携帯電話の電波が届かなくても無理はない。
「東子ちゃん、ごめんね。叔父さん達には俺の方からちゃんと説明してお詫びするから」
本当にごめんね、と清志朗は何度も謝った。東子は、構わない、清志朗のせいではない、と言いたかったが、清志朗のやけに落ち着いた笑顔に、何も言うことができず、ただ頷くだけだった。
車内にはしばらく沈黙が続いていたが、清志朗がおもむろに、しかしはっきりと言った。
「家に帰ったら、警察に行って、ちゃんと話してくるよ」
その言葉に、東子は少し胸が痛んだが、了解したように小さく頷いた。
「ねえ、東子ちゃん。俺が罪人になって、刑務所に入ったりしたら、俺のこと嫌いになる?」
「え、まさか! そんなもったいないことするわけ……あ、ご、ごめんなさい……でも、例え、清志朗お兄さんがどんなに悪いことしても、私が清志朗お兄さんのことを嫌いになるなんて絶対にあり得ないよ」
東子は清志朗の唐突な質問に驚いたが、すぐに無邪気に笑って答えた。
清志朗は驚いたように目を丸くしたが、東子に答えるように微笑を浮かべた。
「……ありがとう」
そう言う清志朗の笑顔は東子が今まで見てきたどれよりも綺麗に思えた。
それを見ると、東子は急に眠気を感じた。ろくに眠っていなかったからだろう。清志朗はそれに気づくと、前を向いたまま言った。
「寝ててもいいよ。家に着いたら起こしてあげるから」
どこかで聞いた覚えのあるその言葉に、東子は素直に従うことにした。
東子は窓越しに振り返って屋敷を一目見ると、背もたれに体重を預けて、目を閉じた。遠くの方ですっかりその姿を小さくさせていた屋敷は、しかし、いつまでも東子たちを見送っていた。
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