エピローグ「肺炎交渉」



「いやー、流石に死んだと思ったわ。」

布団を首まですっぽり被り、頭に氷嚢を乗せるというコテコテのスタイルで、俺は天井に向かって呟く。

俺と目線を合わせるために、桃子が枕元に腰掛けた。

「実際一歩間違ったら死んでたでしょう。何考えてるのよ、全く。」

口を尖らせながら、桃子が俺の頬を撫でる。ひんやりと心地良い。

「すまん、心配かけたな。」

俺の頬に置かれた手を握りながら、心底謝る。

あの時、すんでのところでハンドルを切り返した俺は、何とか店舗まで帰ったものの、そこで力尽きて、車で気を失っていたらしい。

実際、クラクションから先の記憶はない。

雨の中、車からなかなか降りてこない俺をたまたま見つけた中岡が、救急車を呼んでくれて、気が付いたら病院のベッドの上だった。

「けどまぁ、意外と入院1泊で済んだから、金掛かんなくて助かったわ。」

診断は肺炎。

タバコも吸わず、何の既往症も無い20代の健康な成人男性の左肺に影があるのを見つけた検査技師さんが、「何でこんなことに」と苦笑いだった。

余程の不摂生か、過度のストレスか、それとも、やはり日頃の行いが悪いのか。


若いから回復も早いだろうと、このまま入院するか、外来で1週間、抗生物質の点滴を受けに通うか好きな方を選ばせてくれたので、俺は通院を選択した。

午前中に通院を済ませてしまえば、あとは自宅でダラダラ寝るだけの毎日だが、最終日の今日は桃子が見舞いに来てくれたのだ。

「そういう事じゃないでしょうに。まぁでも、思ったより元気そうで良かったわ。」

「いやいや、しんどい、しんどいよー。優しく看病しておくれよー、げふんげふん。」

「感染リスクが上がるから駄目。」

残念だ、本当に。

「そういえば、誰かお見舞いに来た?」

「丹下さんが来たよ。地獄だった。」

実は松木が毎晩見舞いに来ていて、危うく丹下統括と鉢合わせしかけて肝を冷やした。

今日は来ないように言ってあるが、多分来るだろうから、桃子に居てもらえるのは夜までだ。

「丹下さん何て?」

「辞めないでくれって。」

丹下は、入院した俺に朝一番で会いに来たらしいが、俺が昼過ぎ迄眠っていたので、会わずに帰ったらしい。

スマホの着信履歴が大変なことになっていたので、とりあえず店舗に連絡を入れて、たまたま電話に出た福島さんに、最低でも一週間は仕事に出られないし、そのまま退職する可能性がある旨の連絡を入れたら、翌日丹下が菓子折を持ってやって来た。

謝罪の言葉を口にした後の丹下の用件は以下の通り。

板倉の判断は明らかに間違いだったが、板倉もまだ5年目で成長過程だから、彼の未来のキャリアのためにも問題を大きくしないでやってくれ、それを約束してくれたら、好きな店舗で管理薬剤師になれるように取り計らう、だそうだ。


板倉は謝罪しなかった。


病気は自己責任、自分の判断で運転し、結果状態が悪化してその後のシフトに穴を開けたのも、俺の責任だと言って譲らず、謝罪への同行を拒否したそうだ。


結果的にたいした被害は無いように見えるが、一歩間違えば、事故か肺炎で俺は死んでいた。

出るところに出れば、板倉と犬塚は明らかに何かしらの罪に問われる案件だろう。

そして、この件にこのレベルの認識しかできないような人間を管理者に据えた丹下も、監督責任は免れない。


実際この件で犬塚は、早々に出向取り止めになったそうだ。俺に顔を見せる事もなく、今日で本社に戻ったらしい。流石に大きな企業は対応が早い。


こうなっては丹下の統括昇進もどうなることか。取り消されれば、後任人事がどうなるのか見物だ。


一方で、薬剤師を重宝するあまり人事評価を適正化できず、板倉を処分しなかったのは、「弊社」にとって致命的な失敗だと思う。

板倉がせめて速やかに己のしでかしたことの重大さを理解し、自主的に処分を求める程度の責任感を持ち合わせていれば、いや、「責任とは如何なるものか」を理解していれば、俺も矛を納めたかもしれない。


或いは彼が成長し、社会人としての経験を積めば、己の失態に気が付き、自責の念を覚えるのかもしれない。


しかし、後からそれに気が付いたとしても、今この瞬間の俺にとっては何の価値も無いのだ、彼の気付きを待つ理由は、俺には無い。


俺は丹下に「今は何も考えていないのでご心配なく」とだけ返事をして有無を言わさず帰ってもらった。

「まぁ、普通に訴えるかもだけどね。」

元気になったら労働基準監督署に駆け込もうか、それとも丹下の提案に乗って、調剤室を一つ自由にさせてもらおうか、悩ましいところである。

「マジで?」

「うん、多分勝てるし、慰謝料出たら二人で温泉でも行こうぜ、湯治に付き合ってくれよ。」

「えー、流石にその勇気はないなぁ。」

そう言いながら、満更でもなさそうなのが、俺には分かる。

二人でラブホテル以外の場所での外泊なんて初めてだし、きっと興味があるだろう。

「それに、辞めちゃうのは寂しいなぁ〜。」

桃子が汗拭き用のタオルを持って俺のパジャマシャツのボタンを外す。

「管理薬剤師になったら、本命から俺に乗り換えてくれる?」

「それはどうでしょう。」

マジで辞めてやろうかなぁ。

「まぁ、丹下さんには借りもあるし、結局辞められないんだろうなぁ。」

「蓮くんらしいわね。」

されるがまま体を拭かれるのは、羞恥心をくすぐられるが、俺の趣味ではないらしい。

桃子を見つめて、手を握り、拭くのをとめてもらう。

見つめ合うことしばし。


「唐柴先生、大丈夫ですか~、今夜は来ないでって言われたから、休憩中に抜けて来ちゃいました。」

松木の声がした。

二人してハッと寝室の扉の方に顔を向ける。

鍵は掛けていなかったが、何故チャイムも無しに入ってくるのか。

玄関には当然、桃子の靴がある。

ガタンと一度音がして、驚いた桃子がビクッと俺の手をほどく。


すぐに静かになった。


その静寂に、想像を遥かに上回る嫌な予感が過ぎる。


修羅場が迫っている。


過去に同様の経験が無いと言えば嘘になるが、それにしてもここまでの緊張感はかつて無い。


俺は一体何に怯えているのか。


得体の知れない恐怖に混乱する俺に、修羅場の予感は一つの結論を連れてきた。


消えた元カレ、松木の時期外れの引っ越し、そのままにされた元の部屋。


胃酸の分泌に痛みと吐き気が伴い、動悸がして、明らかに血圧が上昇し、自分の耳の中から、ゴゥっと血液が逆流するかのような音が聞こえる。


怪文書事件、松木は何故、福島さんを今の住居ではなく、彼氏の「いた」部屋に誘ったのか。


肺炎とは無関係に、咳をする余裕も無く呼吸が止まって、すべてがスローモーションのように感じられる。


使用感のある男性下着や、過度に漂白されたタオルは、なぜ松木の部屋にあったのか。


永遠かと思えるほどゆっくり、寝室の扉が開いていき、玄関に置きっぱなしにしてあった、雪掻き用のスコップの先が覗く。


桃子が口許を押さえて表情を冷たく強ばらせる。

彼女と同じく俺も声が出せない。

松木の行動力は、俺もよく知っている。

本能ではなく、経験則で理解する。

あ、俺、やっぱり死んだ。

                       


薬屋稼業  完

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薬屋稼業(改訂版) succeed1224 @succeed1224

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