第三部「鬣犬咬傷その5」

流石に、何かがおかしい。まず、抗生物質が効いていないらしく、実質3週間、解熱剤無しでは殆ど熱が下がらず、咳も止まらない。咳は極力我慢しているのと、解熱剤の抗炎症作用で喉はそれほど辛くないし、関節痛等も無いが、とにかく体力の消耗が激しい。


余暇は全て食事と最低限の家事以外ベッドにいるような生活を続けて、何とか仕事に出ているが、このままではジリ貧だ。


そんな状態でも、患者はやって来る。


55才女性

軽めの血糖降下剤と、降圧薬。定期処方。

「血圧の薬とか血糖の薬って、一生飲まないといけないんでしょう?おたくら儲かるわね。」

最近よく聞く文言だが、誰か流行らせたのか?

言い草は嫌味たっぷりだが、事実を曲げる理由にはならない。

「先天的なものと医師に診断された方は除きますが、食事や運動等の生活週間の改善で、徐々に減らしていけば、薬はどちらも最終的になくせるケースもあります。ようは血圧や血糖値のコントロールのために、運動するか薬を飲むか、好きな方を選んでくださいという話です。」

こう言えば大概の患者は閉口する。本来血圧や血糖コントロールにおける服薬による治療は、生活週間の改善で効果の無い患者に取られる手段であり、あくまでもそれらと「並行して」内服をしているのである。

医師に強制されて服用していると思い込みたい患者も多かろうが。

「じゃあ私は飲まなきゃ。」

こうやって開き直る患者もたまにいる、必要性を解っていただけて何より。

「でも、薬飲んでる人って、薬の臭いがするでしょ?私それが嫌で。」

なかなか無いタイプのご意見である。

病人への差別はこういう人が生むということなのか、それとも内服したくないが為の言い訳として、突拍子も無い難癖を思い付いたのか。

「いや、この仕事をしていて、医薬品の内服が原因で体臭が変わった方に出会ったことはありません。勿論病気自体に特有の臭気を伴うものはありますが、医薬品が原因ではありません。」

「そうなんですか?」

「僕はこの3週間、解熱剤と抗生物質を毎日服用していますが、何か臭いしますか?」

ときいてやろうかと思ったが、揉めそうなのでやめて、「そうなんです。」とだけ返答してお帰りいただいた。


以前どこかで語ったように、薬物治療は魔術ではない。

作用機序不明の経験則で使われる薬を除けば、全ての作用や副作用には化学的な根拠がある。

そして日本に魔法魔術学校は無いが、医学を学ぶ大学は無数に存在する。

なので、何故この薬を飲むのか、どうしてそれが必要かを、真に突き詰めて理解し、納得して服用したければ、大学を受験し、6年間必死に勉強して国家試験を受け、自分が医師になるしかない。

それが出来ないのであれば、医師の言うことに従うしかないのだ。

これを高いハードルとし、結局魔術を学ぶのと同じくらい、医学を学ぶ事が現実感の無いものだと捉えるのならば、両者を見分けるのは無意味に感じられるのかもしれない。

ただし、医師は魔法使いではないし、ましてや神様ではない。患者が主張しない症状についてはわからないし、忙しければ、しょうもない問い合わせに「善きに計らえ」と答えることもある。


だから、「善きに計らう」俺達がいるのだ。

医師が診断を誤らない限り、薬剤師にはその薬の必要性、妥当性、使用方法と、リスクが理解できる。

その俺達を医者の子分や、薬を売り渡すだけの存在と揶揄して、話を聞かずに軽んじていると、いつか痛い目を見るだろう。


59才女性

入眠剤と精神安定剤の定期処方。精神安定剤は頓服不穏時のみ。

「先生はこの薬で様子見てって言うけど、いつも途中で起きちゃうの。けど、あんまり強い薬は怖くて。」

入眠剤の依存性は、効果時間にある程度相関があるとされているし、将来的な認知機能の低下に言及する論文もあるが、その将来を見据えた処方を、恐らく医師は行わない。

現在の状態を改善する事に注力するのが西洋医学だからだ。

なので中途覚醒が主訴えであれば、必然、作用時間が長いものにシフトされる。

「そもそも、何時に寝ておられるんですか?」

この間の人みたいな泌尿器の問題は、この患者にはなかった。

「11時に就寝するんですが、3時頃には起きてしまいます。」

「そうですか、つまり薬は4時間位は効いてるってことですよね、お薬は入眠の直前に飲まれてますか?」

「いいえ、9時頃飲んでます。効くまでに時間がかかると思って。」

薬袋に眠前と書いてあるんですけどね。

「いや、入眠剤は基本的に、入眠の直前に使用するもです。9時に飲んだら朝3時までですでに6時間も経ってます、この薬の効果時間がそれぐらいなので、飲む時間を変えてください。」

「そうなの?」

「しかも、入眠剤で折角眠気が来ても、テレビを見たりスマホを弄っていて、その眠気を逃したら意味がありません。入眠剤を服用したら、眠気をきちんと捕まえるようにして下さい。入眠剤は勝手に意識をシャットダウンするものではありません。」

「へぇ~、私間違ってたのねぇ。」

「どんな薬の用法にもきちんと意味があります。是非守るようにしてください。」

こういう事例は実は少なくないのかもしれない。

芸能人が同じような理由で入眠剤を服用してから運転して、運転中に朦朧状態となり、道路交通法違反で書類送検された事もある。

起こった事は覆らないが、用法にもきちんと意味があり、無視すると痛い目をみる事が、せめて啓蒙されるべきだろう。



結局今日、2週目の薬を使いきっても、熱は下がらなかった。


薬が切れて朦朧とする頭で、なんとか1日の業務を終える。

熱が上がってきた、流石にそろそろ弱音を吐かせて貰おう。

咳は我慢すれば止まるが、熱はどうしようもない、熱が下がるまでは、休みが欲しい。

「ねぇ、ちょっといい?」

板倉になんと伝えれば良いか考えていると、犬塚が声を掛けてきた。

最近気がついたが、犬塚は見下した相手と単独で話す時、敬語を使わない。

先日の研修で俺が大声を出して軽く恥をかいたことが、エリアマネージャーの間でちょっと噂になっているらしい。

自分一人では薬局の開局すら出来ないクセに、薬剤師をナメてかかるとは、どういう神経だ。

「なんですか?」

「何で昨日と今日でこんなに売り上げ違うの?今日暇だったの?」

誰かに教わったのか、売り上げの見方は理解したらしいが、処方せん枚数や単価については理解していないのだろう。

「患者の数は昨日と変わりませんし、そうは見えないかもしれませんが、うちは基本忙しいです。昨日の売り上げが大きいのは、多分抗がん剤が動いたからです。」

「へー、ありがたいね。」

悪びれずに言う。

熱がある俺には、ギリギリ理性が足りなかった。

「お前それ、自分が何言ってるか分かってんのか?」

「は?」

犬塚も喧嘩腰だ。プライドが傷ついたヤンキーよろしく俺を睨む。

「それな、癌の患者に向かって、癌でいてくれてありがとうって言ってんのと同じ事だぞ?お前、癌患者がどんな気持ちで薬受け取ってるか考えたことあんのか?俺達がどんな気持ちで薬渡してるか、考えたことあんのかよ?」

病人に対して薬屋が「毎度あり」と言うことがどれだけ質の悪いことか、今更確認するまでもないが、この男にその常識はないらしい。

「ははは。」

正論を言われて「黙る」の次に多いリアクションは「苦笑い」だ。何を笑っていやがる。


確かに俺だって金に興味がないとは言わない、給料が高くて嬉しいのは当たり前だし、営利があってこその企業だ。

だが、全ての従事者が、罰則がないからと、倫理やルールを無視して営利を優先したら、医療制度は成立しない。

そんなことも分からず、何の資格も持ってないやつが、薬を飲む患者とそれを助ける為の医療制度に群がっていやがる。

こいつら、まるで死肉に群がるハイエナじゃないか。

こんなやつらに荷担して、俺達の何が医療従事者だ。こんなことが、こんなやつらの存在が、なぜ許されるのか。


「唐柴先生、そろそろ施設の配達お願いしてもいいですか?」

板倉が割って入る。

「いや、松木がさっき気を使って、車の鍵取りに行ってくれましたよ。」

体調不良のアピール、まだ足りないのか?俺はこのまま、病休の相談すらしたいと思っているのに。

「いや、困ります、最近松木さんの残業時間が酷い。」

犬塚がニタリと笑って言う。意趣返しのつもりか?

「は?」

「薬剤師さんってあんまりそういうの気にしてくれないんで困るんですけど、サブロク協定って言うのがありましてね。」

知ってるわ!と叫ぼうかと思ったが、ひどい耳鳴りに息を呑んで、声が出なかった。

労働基準法第36条、通称サブロク協定。

詳細は割愛するが、これに曰く、年時変形労働制で雇用契約を結ばれている労働者の残業時間の上限は毎月45時間と定められている。

「今月このペースで働かれると、それに引っ掛からないの、唐柴君だけです。」

ここ半月、残務処理を無視して定時帰宅していた事がアダになった。

体調不良の俺しか働けないとは、なんとも皮肉な話だが、そんなことを言っている場合じゃないと思っているのは、どうやら俺だけらしい。

「俺正直今、かなりしんどいですけど、この状況で俺に行かせますか?」

寄せては返す波のように、のぼせるような感覚と悪寒が行ったり来たりする。

のぼせては頭がボケて、悪寒が苦しみと共に理性を取り戻させる。

「ただの風邪でしょ?大げさに言わないで下さい。」

暗に「自己管理が足りないからだ」と言わんばかりの犬塚を無視して、俺は板倉に懇願の目を向ける。

ほんの一瞬でも、板倉が俺を庇う事に賭けた自分は、どうやら理性的ではなかったらしい。

「熱は何度なんですか?」

犬塚の手前引き下がれないのか、板倉が言ってくる。

朝から、どころかここ数日ずっと体調不良を訴えているのに、それ関係あるか?

小学生の頃、仮病ではなく本当にしんどくて休みたかった時、母親に「お熱が38度あったら休みにしましょうね。」と諭された時の、なんとも言えない不条理を感じた。

この状況は、熱が何度だったら休めるとかの話なのか?

お前本当に医療従事者かよ。

「たくさん金もらってるんだから、これくらい協力しろよ。」

隣で犬塚がグルルとうなる。

薬局の運営に関わっているが、医療従事者でない犬塚は、更に容赦がない。

薬剤師免許を高く売り付けられて、仕方なく俺を高給で雇っているに過ぎず、金の掛かる人足一人としか見ていないのだ。

なのでドラッグストアの他のスタッフと同じく、使い潰すことに何の抵抗も感じていない。


こんな奴に、保険調剤が、それに従事する薬剤師が、金儲けの道具にされている。

医療に従事する責任だけを押し付け、上前を跳ねていく。

なんだこいつらは。


怒り、悲しみ、落胆、憎悪を悪魔の比率で混合したような、名状しがたいネガティブな感情に意識を絡め取られ、視界が霞む。

目の端に、松木の姿が見えた。俺が犬塚と板倉の間に挟まれているのを見てキョトンとしている。

犬塚が松木に、帰るように命じたようだが、たいした距離じゃないのによく聞こえない。

犬塚が松木からやや強引に車の鍵を引ったくって、相変わらずニヤついたかおで俺に差し出してくる。俺が苦しんでいるのを、半ば楽しんでいるようだ。


なあ、だれか、俺の味方をしてくれよ。俺の話を、聞いてくれ。


単に「体調不良の人間を働かせるブラック企業」への憤りとは違う怒りが湧く。


もちろん個人としても辛く苦しいが、何よりこの場が備える「薬剤師が詰めるこの場所が、医療の現場ではない」という現実に怒りを覚える。


今俺は、医療を利用して肥える商人に、生物としてと同時に、医療従事者としても殺されようとしているのだ。


「もういいです、行ってきます。」

負けまいとする心だけで、意識を呼び戻す。怒りでもいい、支離滅裂でもいい、思考を止めてはいけない。そうでなければ意識をはっきり保つのも難しい。

今回ばかりは逃げるのが正解だろう。泣きわめいて、勘弁して下さいと頭を下げるべきなのだ。

だが、それはできない。こんなことに屈服してたまるか、こんなやつらに、頭を下げてやるものか。

「唐柴先生!私が行きます!」

松木が泣きそうになって言う。しかしこの泣き顔を愛でて、慰めてやる余裕すら、今の俺には無い。

「聞いてただろ?松木よ。俺の体調より、お前の超過勤務を解消する方が重要だと、板倉が判断したんだ。俺が行く、大丈夫だから、先に帰れ。」

精一杯の皮肉と笑顔を見せたが、すぐに咳に掻き消される。

10人分の薬の入ったコンテナを抱えて、配達用の車に乗る。

運転時間も短いし、施設では介護士に患者の様子を聞いて、内容に変更点があるか確認、内服の不便がないことを確認して帰るだけだ。

大丈夫だ、問題ない。


運転を始めた直後、雨が降り始めた。

俺は心底、日頃の行いが悪いらしい。


俺は、何か悪いことをしたのか?熱に浮かされ、自問する。


欲しがるだけ薬がもらえるからと、好き勝手に所望する患者も、ニーズがあるからと薬をばらまく医療機関も、医療制度を食い物にしていて、その最前線では、何の資格も持たない者が「商売」として利益を得ている。


ソレに加担した罰だとでも言うのか?


医師も、患者も、薬剤師も、そのどれでもない人達も、この制度を享受し、面倒だから、厄介な話題だから、実害がないからと、皆が見て見ぬふりをしている。


この状況に屈して、安く買い叩かれていることにも気付かず、小銭を受けとる薬剤師の罪が、最も重いということか?


だとすれば、だ。


もしも許されるなら、この苦しみから開放されるなら、俺はその小銭を喜んで捨てる。


みんな、薬剤師が何のためにいるのか、よく知らないかもしれない。

薬剤師だって、それを見失っているかもしれない。


でも、俺は思い知った。このままでは「薬剤師」という仕事に、未来はない。


だから、やり直させて欲しい。


不要と決めつけないで、不遜と眉をひそめないで、ほんの少しで良いから、俺達に正義を期待して欲しい。


頼むから俺に、健全な医療を提供させてくれ。


ガタガタと震える手でハンドルを握る。視界が悪いのは、おそらく雨のせいだけではない。


生きて帰れるかなぁ。


自分の心の声に、笑ってしまう。


どうにか介護施設まではたどり着いた。車から薬を降ろすときに少し濡れたが気にしない。

いつも通りなら、余程のことがない限り、今日の薬がある人に相違がないかと、変更点などの確認だけして、雑談などもせずそそくさと終える。

しかし、今日の俺は明らかに顔色が悪いのだろう、普段なら何も言わない介護士が「大丈夫ですか?」と訊いてくる。

「すいません。」

「大丈夫です」とは言いたくなかった。大丈夫ではないからだ。


薬を渡して空になった箱をまとめ、ふらふらと車に乗り込み帰路に着く。

熱が上がってきたのを感じる、ひどく寒いが、頭だけ妙に熱くて痛い。おまけにひどく息苦しいが、店舗まではあと少しだ。


そんな時、髪の先に付いた雨垂れが、空調に煽られて目に入った。

閉じたのは片目だったが、その瞬間、対向の大型トラックがハイビームと雨粒の乱反射で俺の眼を焼く。

ほんの一瞬意識が飛んで、体が傾く。右はまずいと理解していたが、なにもすることが出来なかった。


次の瞬間、大きなクラクションが鳴ったはずだが、俺にはひどく遠くに聞こえた。


                          鬣犬咬傷  了


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