第三部「鬣犬咬傷その4」
「げっほげっほ。」
小児喘息を経験している俺には、咳の音である程度、重症度がわかるという特技がある。
自己診断では、今日の俺の咳はかなりヤバい。
深く肺の手前の方から振動を感じる咳に、吸気時に痰の絡む音が混じる、喉の痛みや異物感も、大きく広い。
おまけに、実は朝から熱もある。
明らかに何かの感染症だ。
「昨日からそんな感じですけど、大丈夫ですか?だからちゃんとベッドに行きましょうって言ったのに。」
松木が心配してくれている。先日風呂場で長くイチャついて逆上せ、そのままソファでイチャイチャと介抱してもらったのが災いした。完全に自業自得である。
しかし、このご時世でも敢えて言わせて貰おう。
「人に移すリスクを抱えていようが、風邪を引いたくらいで仕事が穏便に休める医療従事者などいない!」
医師だろうが看護師だろうが、そして薬剤師だろうが、体調不良を薬で誤魔化して働くのが現代の日本の臨床医療である。
そういう意味では、末端における日本の医療制度は、既に崩壊している。
「まぁ、服薬指導はなるべく私が行きますから、仕事振ってください。」
「頼もしいな。」
「治ったらお返ししてくださいね。」
「了解。」
これが失策だった。
症状のあるうちは出来るだけ患者に接する仕事を避けるようにしていたが、1週間経っても熱は下がらず、咳も止まらなかった。
たまらず休憩時間に目の前の加賀見医院を受診。
普通の風邪処方が出たので、もちろん自分のいる薬局で処理してもらう。
自分で言うのもなんだが、薬剤師なのでアドヒアランスは完璧だ。
「松木まで倒れたら終わりだから、絶対見舞いには来るな。」
と言い含めたが、辛さに勝てず週末に助けを請うた。
会う予定だった桃子は速攻で予定をキャンセルし「治ったら教えて」だった。
こういうときの桃子はシビアだ。感染リスクを考えれば当然だが。
「唐柴先生のためなら何でもしますけど、浮気したら殺します。」
熱で寒気を覚えたのか、気持ちの悪い汗を含んだ下着を洗濯機にブチ込みながらそう宣う松木に背筋が凍ったのか。
抗生物質に解熱剤、鎮咳薬を決まった時間に内服しながら働いたが、一向に症状が治まらない。
「喉の腫れが悪化してるね。抗生物質変えてみようか。」
再受診時に、加賀見先生にそう言われた。最初から抗生物質の種類に注文を付ければ良かったと、酷く後悔した。
この時点から板倉に、体調不良でまともに業務がこなせない旨を進言した。
「そうですか。休むなら早めに言ってくださいね。」
いや、あなた俺が2週間連続で受診してるの知ってるよね。
既に明日から休みたいんだが、それを言ったら難癖を付けられる。
というか、ここは普通「明日は休んでください」だろう。ダメですかそうですか。
問題は他にもある。俺の機能不全が原因で、松木の業務負担が増え、薬歴消化や残務処理が松木に回り、定時で帰り続ける俺と相反するように残業時間が増えていた。
松木の疲弊が心配だったが、手を打つ余裕はない、それほど俺の症状も深刻だった。
幸い来週の月曜日はハッピーマンデー。ゆっくり休もう。
「唐柴先生、日曜日の社内研修参加されますか?」
板倉はアホだと、この時本気で思った。
「欠席で返事しますよ。体調があんまり良くないので。」
「週末ですし、その頃には良くなってるんじゃないですか?」
「いや、だとしても大事を取ろうと思うんですけど。」
自己管理のための進言だったが、板倉は不服そうな顔をする。
「最近、唐柴先生仕事のモチベーション下がってませんか?」
暗に最近の凡ミス増加を指摘したいのだろうが、体調不良で集中力を欠いているのは確かだ。
だが、板倉にとってそれは、ただの言い訳に過ぎない。
「そういうときは、サボらずちゃんと研修とか出た方が良いんですよ。モチベーションアップの秘訣です。辞めていく人って、研修とかに出られなくて腐っていく人も多いんですよ。」
2週間連続で受診するレベルの体調不良をサボる言い訳と断じる医療従事者がこの世にいるとは。
諦めて溜め息を吐く。タフな週末になりそうだ。
案の定、週末になっても熱は下がらなかった。
弊社調剤部門の社員が一同に集う社内研修は、ハッピーマンデー前の日曜など、2連休の初日に行われる事が定例になっている。勤労感謝の日に勤労というのはなかなかハイセンスな皮肉だ。
子会社化後初めての研修とあって、比較的出席率は高い。
当然桃子も来ている。
「唐柴先生はどれが好みですか?」
管理栄養士に薬剤師、ビューティー担当など、女性がちらほら出席しているのを見て、松木が訊いてくる。
「どれって、言い方よ。」
解熱剤で比較的体は楽だが、こういうフェイントには弱い。反射的に桃子の席を見たが、外しているのか、そこにはいなかった。
「今誰探しました?」
「いや別に。」
アドリブも効かない、今日はボロが出るかもしれない。
致命傷を負う前に、定刻が来たことに感謝した。
研修は丹下統括補佐の挨拶から始まった。
「恥ずかしながら、現場を離れ、不詳にも調剤部門統括の大役を仰せつかりました。丹下です、皆様どうぞお力をお貸しください。」
言われなくても皆協力的だろう、この人事に苦虫を噛む人間はいない。
年功序列にすると対抗馬はいるが、人望は互角でも、実績も野心も丹下が上だ。
落ち着いた雰囲気で、会議が始まる。
主題は今年度診療報酬改定の影響と、他の大手チェーンに違わず「かかりつけ薬剤師」の推奨に力を入れる旨だ。
順当で、退屈な進行、俺今日来る意味あったか?
「最後に、系列全社統一で、薬剤師の呼称を一律にすることになりました。これからは名前の後ろに「君」または「さん」を付けることで統一します「先生」は使いません。」
「はぁ!?」
つい大きな声が出た。
皆が驚き、注目が集まる。うう、体調不良時にこのプレッシャーはきつい。
松木が心配そうにこちらを見て、桃子だけが声を殺して笑っているのが救いだ。
俺の声を皮切りに、少し会場がざわつき始めた。
「不満の声が上がるのはごもっともですが、お客様より、「薬剤師が先生と呼ばれていることに違和感がある」とのお叱りを頂き、協議の結果、この方針となりました、最初は不便かと思いますが、ご協力ください。」
丹下がいなすと、ほどなく静かになる。俺の怒りは治まらないが。
その協議に、現場で働く薬剤師の声はどれだけ届いたのか。
呼称にこだわるつもりはないが、薬剤師は「師」の字を以て薬事衛生を司る職業である。
それで偉ぶる薬剤師がいれば、そいつの頭がおかしいとは思うので、呼びたくなければ呼ばなくて良いと思うが、単純に薬の質問に答える職業の人間を「先生」と呼ぶことは何もおかしくないはずだ。
自分が薬剤師にものを訪ねないからといって、違和感を覚える方がおかしい。
そんな不心得者は放っておくとして、問題は呼称そのものではなく、この会社が「薬剤師」という職業に敬意を払わない決定を下したことにある。
ドラッグストアが薬剤師を軽んじることに何かメリットがあるのだろうか。
自分達を蔑ろにすると感じられれば、ただでさえ高い薬剤師の離職率は更に伸びるだろうし、噂になれば新たに働くものも減るだろう。
しかも真面目に働く優秀な奴から辞めていく事になると思う。
この客のクレームに対応することは、それ以上に重要だったのだろうか。
実際、俺ほどでなくても、苦笑いを浮かべている者もいる。弊社の未来は暗いかもしれない。
心身ともに絶望的な状態の中、薬剤師研修という体裁ゆえ、講師を呼んでの臨床薬学的なトピックスをまとめた講義があり、その後は講義を受けてのグループワークだった。
恐ろしいことに、グループワークのテーマは10年後の自分というキャリアデザインがテーマのものだ。
10年後の自分の目標と、その過程として踏むステップ、仮定される達成状況と、次に生まれる課題を1年後、3年後、5年後、10年後の4分割で列挙して発表し、長期計画立案を意識啓発するというものだった。
薬剤師の扱いがアレで、人事評価が不明瞭では、弊社に勤め続けても、出世にビジョンが持ちにくい。
この研修は、どんな皮肉だ?俺たちを追い出したいのか?
5人中3人はどこかの段階で離職し、10年後には弊社に勤めていないと書くだろう。まず俺がそう書く。
実際俺のテーブルに、次期エリアマネージャーや調剤部門統括と書く者はいなかった。
丹下が40になったばかりだぞ、10年後にその椅子、空いてないだろ。
隣のテーブルでは板倉が堂々と「丹下を追い落とす」と発表して笑いを生んでいた。
狙い通りウケたことと、「笑われるような大きな目標の為に頑張る自分」をモチベーションにするそのポジティブさだけは、尊敬に値すると思った。
解熱剤が切れてきたらしい。
松木や桃子のような、若い女性のは何と書いたのだろうか、二人ともテーブルが遠くてわからない。
若年者のキャリアデザインは「ワンランク上の出世」、つまり弊社で言えば管理薬剤師を目刺し、経験を積んでから次を模索するという規定路線を取りがちだが、早ければ3年でなれてしまう弊社においては、10年後となると流石に分岐が見られるだろう。
薬剤師のキャリアに絡んでは先日MDI創刊100回記念号の特集記事で「薬剤師という職能の未来は明るいか」というアンケートがあった。
20代の薬剤師の68%、30~40代代の58%が「暗い」と答える一方、50代~60代の薬剤師でようやく半数が「明るい」と答えている。
キャリア的に10年後に働いているかどうか怪しい年齢の人間ですら半数しか「明るい」と答えず、これから何十年と働く人間の多くが「暗い」と答えるこの業界が、果たして健全といえるのか。
いまだに「薬剤師にでもなれば安泰」なんて感覚の親や、その言葉を真に受けた学生なんかの話が耳に入るが、この結果を見ても子供を薬剤師にしたいとか、薬剤師になりたいと思うのだろうか。
確かに過去10年、薬剤師は就職に対してかなりの買い手市場だ。
資格があれば高給で雇ってもらえたし、生涯研鑽という言葉を鼻で笑うクズみたいな薬剤師でも、転職の度に「経験値」という箔が付いて給料が増えた。
ただ、この稚拙なキャリアデザインには、そろそろ限界が来ている。薬剤師の人数が30万人にまで増えたことで、薬剤師バブルも後数年で崩壊だといわれている。
同じアンケートで、薬剤師全体の約6割が給与は今より下がると答えた。
当たり前だろう、今までが貰いすぎだ。
だが、現代日本で既得の給与を下げるのは難しい。割りを食うのが新たに雇用される若年層なのは目に見えている。
そんな中で、体感では既に知識の有無だけでなく、資格にかまけて対人能力を培わなかったものや、IoT化に適応できない人材の淘汰が始まっている。
そういった観点から、キャリアに迷う30代~50代の薬剤師は多かろう。
管理職の争奪戦に破れ、タブレット端末どころかパソコンすらロクに触れない50代など、目も当てられない。
その点で丹下は理想の姿だが、彼と同じ席はあまりに狭き門の先にある。現実になると本気で思ってそこを目指せるのは、楽観主義者か馬鹿だけだ。
「丹下統括の後を継ぐ」と書かなかった現在30代の彼らが、仕事に関する10年後の目標設定を具体的に書かず、子供の進学とローン返済の話に終始したことからも、心中をお察しする。
ちなみに20代後半の俺は、管理薬剤師以上の出世を諦めて家庭を取るというありもしない想定のもと「昇給の割合などを考慮すると30代後半で2児の父親になるには、奥さんにパートをやってもらうしかなくて少し肩身が狭い」と夢の無い目標設定を書いた。
これを聞いた現在の30代後半の薬剤師は「まさに今の俺のことだ」と言う顔で苦笑いしていた、我ながら非道な発表をしたと思う。
体調が悪いから、人心に配慮する余裕がないのも、仕方がないね。
そんな最悪の研修の帰り道、熱に浮かされてボーッとしながら、松木に「結婚して、パートの薬剤師をしながら2児の母になる」という、女性薬剤師としてはポピュラーなキャリアデザインを見せられ、「前の彼氏は浮気した上に、お金を持って突然私の前から姿を消しました。」という話を聞かされた。
「次はこうならないように頑張ります。」
ここで上手く慰めることができてこそ、男の価値があるというものだが、今の俺には気の効いた台詞を返す気力がなかった。
「まぁ、そんな奴、死んだと思えばいいよ。」
「本当にそう思います。」
申し訳ない気持ちがあったが、体力も食欲もなかったので、どこかしょんぼりした顔の松木を夕飯に誘わずに帰って、適当にカロリーを接種して寝た。
翌朝も熱は下がらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます