シリアル〈serial/cereal〉③
カーテンの向こうが仄白くなってきた。ヤツは照明のスイッチを切り、立ち上がった。
「朝飯にはちょっと早いかな」
「出されりゃ食べるけど、先に一仕事済ませた方がいいんじゃないか。ほら、ご到着」
マンションの脇に車が停まったのを、ベランダで目視。捜査員のお出ましだ。我々は素早く顔を洗って着替え、彼らを迎えた。管理会社の担当者も一緒だった。大儀である。既に説明されたはずだが、まだ腑に落ちない様子のおじさんに向かって、僭越ながら
「上から断続的に、住んでいないはずの子供の声がしていたんですが、パッタリ聞こえなくなって。最初は丁重に扱っていた誘拐犯が黙らせた……縛って猿轡でも噛ませたのでは、と」
ヤツはまるで指導教官であるかのように「よく言えました」とばかり、目顔で頷いた。管理人は驚きの叫びを必死に抑え、一同を見回してオロオロしている。刑事の一人が割って入って、
「男児の捜索願あり。その父親と交際している女性が501号室の住人です」
管理人は意想外の嫌な話に、盛大に顔を
「でも、ドアガードが掛かっていたら、どうします?」
管理人の問いに、刑事は渋面のまま自信たっぷりに「開けます」と答えた。手段はあるらしい。すると、
「おい、様子がおかしい」
振り返るとヤツは鼻をクンクン動かし、きな臭いと呟いた。刑事たちは管理人を突きのけんばかりにして階段を駆け上がった。
501号室は施錠されていなかった。重いドアは我々を小馬鹿にしたようにアッサリ開いたが、部屋の奥から流れてきた煙に、たじろがずにいられなかった。
*
掻い摘んで説明すると、男児は手足を括られ、口にタオルを噛まされて浴室に押し込められていた。住人の女と付き合っている男の子供だった。捜査員が時間をかけて根気よく訊き出したところによれば、男児は仕事が忙しい両親に構ってもらえず、寂しさを募らせていたので、チャイルドシッターの女性に
裏づけを取ったら、女が男の元・部下で、秘密の交際だったはずが職場にバレ、居づらくなって退職したため、男が自分の子供の世話係として雇ったものの、二人が不適切な関係にあると悟った妻によって
「小僧は軽い脱水症状だけで済んだし、自殺を図った誘拐犯も未遂に終わって大事に至らなかったってんだから、一件落着で、よかったんじゃないの」
「だけど、嫌な話だよな。あんなチビ
我々は警察で聴取を受けた帰りに空腹を埋めたが、食い足りず、あれこれ買い込んで部屋に戻った。代金はすべてヤツが払ってくれた。昨日のワインと合わせて寄宿料のつもりだと言うから、些か早い晩餐が済んだら帰るのだろう。
ヤツはペペロンチーノを巻いたフォークを口に入れたかと思うと、真っ赤なブラッドオレンジジュースに喉を鳴らして、
「何が悲しいって、小僧がさ、助けに来た親切なおじさんとおにいさんたちじゃなく、自分を拉致した張本人に泣いて取り縋ろうとしたことだ」
「ああ、ちょっとショックだった。
元々予定していたか、不意に衝動に駆られたのか、彼女は丁重に扱っていたはずの人質を拘束して自殺を図ったが、ドアをロックせず、子供を縛ったといっても少し暴れれば解ける程度のやり方で、いつでも逃げていい、あるいは可及的速やかに第三者が介入してくれれば……と思っていたかのようだった。ちなみに、不審な煙はアロマキャンドルが偶発的に倒れて発生したものだったとか。
「だとしたら、そもそも悪いのは誰だって話になるわな」
「うん。捜索願を出したときも、心当たりについて語らなかったそうだからな、父親は。保身しか考えてないのかよ」
「だろうね。犯人女史もサッサと見切りをつけて立ち直るべし。かわいい小僧と遊ぶのは、もう無理だろうけど」
眠気と食欲がバッティングしたら前者が勝つのが普通だけれども、我々は雑感を述べながら無闇に食べ続けた。おやすみ、あるいはサヨナラを言うタイミングを先送りしたかったのかもしれない、少なくとも
ヤツはタコとジャガイモのサルサ・ヴェルデをつつきながら、
「美味いよね、料理のセンスは相当なもんじゃないの。店、開くかい。そしたら給仕でもするから雇ってくれ」
「また適当な……」
「冗談抜きで。もっとも、十年後くらいに覚えていたらの話だけど」
褒められれば悪い気はしない。そのときは無精髭なんか生やしているんじゃないぞと、こちらも軽口を叩いておいた。
「いいよ、ホント。こうやって好きなもん鱈腹食ってると、生きてる実感が湧いてくる。現実の側に足を踏まえてるって再認できるし」
ここが悪夢の渦中でないこと、ごく当たり前の、ささやかな幸福を享受していることに安堵するのだと、ヤツは言った。
「殺人鬼は血の匂いだけでお腹いっぱいだろうから、さ」
「人殺しが少食だってデータでもあるのか?」
「いや、私見……っていうか、イメージの問題。ドラキュラ伯爵だってメシ食わないんだぜ」
深刻そうな気振りもなく、のほほんとしているので切り込んでみた。
「逃げた犯人ってのは……吸血鬼なのか、まさか」
ヤツは頬杖を突いて上目遣いに
「子供だった自分には、そう思えた。以来、そいつの顔を忘れまいと頭の中でイメージを反芻してるんだけど……だんだん……」
アルコールを口にしていないのに、ヤツはまるでほどよく酔った風に、うっとりした様子で瞼を閉じた。呑み込まれた言葉は、きっと、憎むべき殺人犯はいつの間にか美化されて印画紙に焼きつけられてしまった……とでもいったところか。
我々の夢想を破ったのは、頭上の生活音だった。出張から帰ったのだろう、住人は換気のために窓を開けたり閉めたり、キッチンで水を流したりして、室内を行き来している。ヤツも天井をチラと見上げたので、
「例えば……チビ助の声にならない叫び、みたいなものが聞こえた……のか?」
楽しく遊んでもらっていた間も、深夜に目を覚まして両親から離れた場所にいると思い出したら、寂しくて涙の一つも零したかもしれない。
「ある意味同類だから第六感で察知した……なんて、そんなワケあるか」
ヤツは牛肉のトマト煮込みを頬張りながら、鼻で笑った。
「意外にロマンがないんだな」
「非科学的なことは信じない」
「オカルト
「こういう考え方はどうかな。もし、幽霊が本当に存在するならば、死んだ姉ちゃんがとっくに出現しているはずだろう……って。殺されたときの姿のまま、髪の毛なんか迸った自分の血が飛び散ってあちこち固まった状態で」
「……」
飲み乾したブラック・ローズが苦い。今度の件で、いろいろわかってしまった、その重さや痛みが、喉に沁みた。
「満腹じゃ、もう食えん。ごちそうさん」
ヤツはフォークを置いて伸びをしたと見るや、すぐ横になって例の退屈な本を広げた……が、じきにそれを枕にして瞼を閉じてしまった。
「帰るんじゃなかったのかよ」
狸寝入りか、うっすら笑ったように見えたが、返事はなかった。
「シリアルだったら明日の分ぐらいまだあるから、いいけどさ。牛乳もな」
金策の目途が立ったら、手頃な部屋に引っ越そう。そのときは、今、野生の本能を忘れて油断し切った猫同様に仰向けで寝ているコイツに絶対、手伝わす。そして、段ボール箱を積み上げた狭い空間で、大切に取っておいたワインの封を切って乾杯しよう。酔い潰れて朝まで床で眠るもよし。夢の中で殺人鬼に追われて
serial/cereal * END
〔BGM〕Bad Lieutenant "Summer Days"
◆ 『サンギーヌ』前日譚
https://booklog.jp/users/fukagawanatsumi/archives/1/B0BK9X1CL8
◆ 旧タイトル「連泊 -serial stay-」
◆ 初出:パブー(2016年4月)退会済
◆ 縦書きバージョンはRomancer『一服千考』【無料版】でお読みいただけます。
https://romancer.voyager.co.jp/?p=115782&post_type=rmcposts
◆ 雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/Q1HmIC62
シリアル 深川夏眠 @fukagawanatsumi
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