シリアル〈serial/cereal〉②


                  *


 双方、野暮用を思い出して別行動の運びとなった。外出するならそのまま帰ればいいという言葉が喉元までせり上がったが、夕方には戻ると先に言われてグッと呑み込み、合鍵を渡してしまった。

 本物件にエレベーターはない。階段を下りる途中、一人の女性が荷物を提げて上ってきたので、擦れ違いざま互いに会釈した。彼女の背中が見えなくなると、

「1.5人前。コンビニの他に弁当屋の袋も持ってた」

「昼メシ買ってきたんだろ」

「一人前だってとこが問題。小さい容器はオムライスかな。ワタシゃ鼻が利きますのでね」

 だからどうしたと思いながら外に出た。二手に分かれるとき、ふと思い出して冗談を放ってやった。

に捕まるなよ」

 ヤツは横断歩道の向こうでもわかるチェシャ猫のような笑いを浮かべて片手を振った。


                  *


 やつがれは新しいアルバイトの相談に赴く予定だったが、空振りに終わった。口利きをしてくれる人物から急用ができたとキャンセルの連絡が入ったのだ。

「チェッ」

 うかうかしていたら干上がってしまう。そもそも事故物件で割安な家賃とはいえ、独り身の分際で1LDKなんて分不相応な部屋を借りたのが間違いだった。いや、元をただせば二人で暮らすはずで、そのために探し当てた場所だったのだが……。

 しかし、焦ったってどうにもなるまい。長い休みの間にどこかへ潜り込めるよう、祈るばかりだ。とはいえ、口座の残額を気にしながら、あれこれ買い物しまくる自分が少し嫌になる。食卓を共にする相手がいると思うと、つい張り切ってしまう悪い癖。かわいいお嬢さんを接待するわけでもないのに、なんという甲斐甲斐しさ。努力の無駄遣い。

 ヤツのアバラが瞼に浮かんだため、今夜はラムチョップに決定。料理用の安いワインが冷蔵庫にあるだけなので、気の利いた銘柄を一本と言いたいところだが、残念ながら手が回らない。羊にペパーミントをあしらうついでにジュレップでも作って暑気払いと行くか。そうそう、バーボンの代わりにラムを使って、ラムチョップのお供にラム・ジュレップという趣向は如何いかん

 帰ったら、ヤツが一旦戻ってまた出ていったのがわかった。キッチンの作業台兼ライティングデスクのようなカウンターテーブルに、赤ワインのボトル。こういうちょっとした先回りがモテる秘訣か。見習うべきなのか。否、違う……と思いたい。いや、それ以前に、やはり変な勘のよさが無気味だ。

 こちらの懊悩を知ってか知らずか、居候氏は調理が完了する間際、絶妙なタイミングでご帰宅。だが、鍵を返して寄越す顔が曇っている。暑さや疲労のせいか。問題でも起きたのか。

「出たり入ったり、忙しいな」

「うん」

 続けてワインの礼を言ったが、再び生返事。と、思いきや、

「先に一回シャワー浴びていい?」

「ああ」

 その間に居間のローテーブルを、ハーブをふんだんに鏤めたラムチョップを中心に華やかに埋めておいた。汗を流してサッパリしたのか、ヤツは平生の、他人を惹きつけもし、同時にある種の人間を遠ざける煙幕のような薄笑いを浮かべて着席した。一応、飲むかと訊いてみたが、記念日にでも取っておいてくれと言うのでワインは引っ込め、外出中に考えたとおり、ラム・ジュレップを供した。

「さすが、洒落が利いてる」

「まあね」

 体調は万全らしく、相変わらず食欲旺盛で小気味いい健啖ぶりだが、ふと手を止めたかと思うと、マドラーでカクテルを軽く掻き混ぜ、

「奇声のぬしでも謎のペットの亡霊でもないのを確かめるべく、少々駆けずり回った」

「何の話だ?」

 ヤツはグラスに口をつけず、ナイフとフォークを握って子羊の肉を骨から切り離した。ほんのり赤い断面。

「この列の最上階、すなわち上の上の部屋に、幼稚園児が監禁されている」

「はぁ?」

 天井に目を向けて思い出した。真上の住人は三日前、出張だと言ってキャリーケースを引いて駅へ向かっていった。つまり、不在。朝、自分で言ったとおり、声や物音が垂直に響くとは限らないけれども、今回の怪現象の発生源はもう一つ上、五階と考えるのが自然と言えば言える。詳しくは知らないが、居住者は独身OLだった気がする。そう、昼間、階段で挨拶した、あの女性だ。ヤツの呟きが蘇る。彼女が買ってきた昼食は1.5人前、大人一人分プラスお子様サイズの器……。

ツテを頼って通報した。近い範囲で子供の捜索願が出ていたら、行き先は当マンション501号室の可能性あり——って」

「夏休みだし、親戚の子供を預かり中」

「勤め人が平日に?」

「前から休みを取ってたところへ、頼み込まれて断れず……」

「お人好しにも程がある」

「う……」

「子供好きには違いなかろうが、悪意芬々ふんぷんだ」

「でも、声は楽しそうな感じだったじゃないか」

 頭の上で犯罪が起きていると想像するのが恐ろしくて逆らいつつ、我ながら愚かだと思っていた。が、ヤツは真顔で、

「そこが問題。悲鳴や泣き声だったら、とっくに警察呼んでたけどな。ともかく、明日、朝イチで『お話を伺ってよろしいですか、こちらのお子さんですが、ご存じありませんか』と、写真を見せながら切り込んでみるって」

 急に食欲が失せた。を掴んでカクテルをグビグビ喉に流し込み、

「もどかしいな。本当なら、すぐにでも助けてやりたいけど……」

「回覧板みたいに手頃な口実があれば乗り込めるが、無理だろ。果報は寝て待て、さ」

 確かに。だが、引っ掛かるのは昼間ヤツが言ったとおり、人質もどことなく楽しげなことだった。もっとも、今はひっそりして、異常な事態を窺わせる気配はないが……。


                  *


 喉が渇く。動くのが面倒だと思いながら時計に目をやった。午前四時前。浅い眠りの中で嫌な夢を見ていた気がする。五階の件だ。はしゃぎ回ってはいけない決まりのゲーム。それでも子供は時折短い叫びを上げていた、しかし、まったく声が漏れてこなくなったのは何故か。

 ガバッと跳ね起きた。がわかった。非常時につき安眠妨害もやむなしとばかり、ヤツの寝床へ駆け寄ろうとして足を止めた。彼はフロアスタンドのスイッチを入れ、足を投げ出して座っていた。心ここにあらずといった、虚ろな表情だった。

「眠れないのか?」

「居心地よくて快眠が続いてたんだけど……こんな成り行きじゃあ、ね」

 やつがれは冷蔵庫を開けた。クーラーポットに黄金桂ファンチングイが残っていた。グラスに注いで手渡した。

「夢の中で殺人鬼に追い回されるんだ。子供の頃から、ずっと」

「えっ……?」

「十年前、姉が自宅で殺されてね。犯人は逃げて、まだ捕まっていない。そいつの顔も、姉の最期の姿も、よく覚えている」

「おまえの家って……」

 遂に錠前にピッタリな鍵が見つかったらしい。

「言ってなかったっけ。まあ、滅多に話さないし……っていうか、自分から触れ回る必要もないからな」

 曰く、「預かられた」とは、非情な事件の後、母が体調を崩し、両親の仲も険悪になったため、親戚の家に身を寄せたよし

「伯母——母親の姉さん。だから、兄って呼んでるのは元々は従兄」

「苗字がどうとか、前に誰かが言ってたけど……」

「最初は居候だった。でも、母も亡くなり、父とは音信不通になったんで、18のとき、めでたく正式に養子として次男と呼ばれるに至り、からに昇格した次第」

 酔った勢いでふざけ半分に聞き出そうとしなくてよかったと、つくづく思った。そんな深刻な話はきっと、戯れに触れあっては離れる女の子たちにも一切、語っていないのだろう。柔和に微笑んで他人を惹きつけながら、硬い仮面を被って胸の内を覗かせない、彼の姿勢の成り立ちを、ようやく理解した。が、

「あれ、じゃあ、親父さんは……」

「養父。伯母の夫だから、血は繋がってない」

「似てると思ったけどなぁ。雰囲気っていうか、風貌が」

「似せてやってるんだよ、知らない人が違和感を覚えないように」

 つい、口走ったのを後悔した。わざわざ説明させてしまったこと、無理にマスクを毟って素顔を垣間見させたことを。だが、謝るのも不自然な気がして、沈黙を守っていた。手の中のグラスが汗を掻いて不快だった。

 ヤツはこちらの内心を見透かしたように小さく笑って、

「新しい苗字にも慣れたし、大分馴染んだとはいえ、やっぱり自分の棲み処とは思えない。あの家に限った話じゃなくて。常に微妙にしっくり来ない、地に足が着いていない感じ。でも、だからこそ、逆に、どこにでも流れて行って腰を据えられる気がする。一時的にではあっても。どんな屋根の下でも眠れる。きっと。はずっと追いかけてくるだろうけど」

 グラスを握る指の絆創膏に血が滲んで見えるのは、こちらの目の錯覚、気のせいか。ただ、これで疑問が氷解した。その位置、もしくはテーピング自体に意味があるのだ。それは殺人犯の記憶と強く結びついていて、相手の面貌や所作を脳裏にまざまざと思い浮かべるよすがになっているのだろう。

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