シリアル
深川夏眠
シリアル〈serial/cereal〉①
夏休みが始まってじきに居候が転げ込んだ。日がな一日ゴロ寝しては鳩時計さながら決まった時刻に腹が減ったと訴える。朝食を作る間もブツブツうるさいので、
「ガキの頃はコロッとした健康優良児だったけど」
昔話の糸口を掴める気がした。コイツは謎の多い男で、酒の力を借りて
「いつから細くなった?」
「預かられっ子になった後、かな」
錠前を針金で開けようと試行錯誤して、先端がカリカリッと引っ掛かった感じだ。僅かに捻じ曲げ方を変えてアプローチを続行したいところだが、デリケートな問題に触れそうなので少し怯んでしまった。ヤツには苗字が二つある……云々、そんな噂を聞いていた。親が離婚したのだろうか。しかし、父君は知る人ぞ知る学者のはず。話が噛み合わない。
「現・母のメシが不味いってんじゃないよ。むしろ逆。偶然そういう変化のタイミングだったんだろうと」
スプーンを置くと、その場に寝そべって持参した本を広げた。図書館で借りたという、年季の入った黴臭そうな一冊は当人曰くハズレ、しかし、苦行だと思って最後まで読むと宣言していたが、あくび混じりに、
「つまんない女と接してる気分だなぁ」
「だったらやめろよ」
「途中で投げ出すなんて仁義に
問題はそこだ。来る者は拒まずの精神で近づいてきた女を満遍なく接遇するコイツは、遊び感覚の恋愛を好む女子のウケが猛烈にいいのだけれども、快く思わず険しい目で睨んでいる男が一定数存在するのも確かで、いつかどこかで刺されるぞと冗談交じりに警告する仲間もいるほどだった。
「慈善事業よ。心の隙間を
フザケたヤツだが憎めない。傍にいると、不思議と世話を焼きたくなる。根拠はないが、何となく、コイツは他人から盛大に好かれるか嫌われるかのどちらかという気がする。
「ゴハンまだぁ?」
いつの間にか本を閉じて起き上がり、スプーンでシリアルボウルの縁を叩いている。
「できた」
サラダと、昨夜仕込んでおいたヴィシソワーズ、そして、
「クロックムッシュ?」
「卵を載せたらクロックマダム」
彼は微かに震える半熟卵をフォークの先でつつき、じんわり滲み出した黄身を見て、
「なるほど、ご婦人ね。これはエロい」
咳払い一つ分の間を空け、
「確認するけど、おまえさんはどうして拙宅で寝起きしてるんだ?」
「知ってる範囲で一番きれいだったから。実際すこぶる快適」
「そういう意味じゃなくて」
「カタいこと言わずに少しだけ避難させてくださいよ、ダンナ。この数日がヤマなんだから。あ、牛乳ある?」
ブラックは苦手なのか、アイスコーヒーにグラスの縁いっぱいまでミルクを足してストローで慎重に掻き混ぜている。その左手の中指に絆創膏。ほとんどトレードマークと化したそれについて、どうした傷かと訊ねても、本人はニヤニヤ笑ってはぐらかすばかりだったが、先日返ってきたのは目印、
「何の峠だよ」
「見合いみたいなもの」
さる娘さんがヤツを見初め、知人を介して結婚を前提とした交際を申し込んできたという時代がかった話だった。大方、親父さんたちのお供で整った格好をして、無精髭もきれいに処理した折に違いない。
「年貢を納めたくなくて逃げ回ってるのか」
真面目な付き合いを望む相手を受け入れてやった方がコイツのためになりそうだ……と思ったが、
「どうせ『あの
そこが気に食わないと言うなら共感も納得もしよう。本人と連絡がつかなくて向こうが諦め、一件が立ち消えになるまで、匿ってやってもいい。
「苦しゅうない」
「かたじけない」
食器を片づけだしたら、ヤツは勝手知ったるものと掃除機をかけ始めた……のはいいが、
「変な格好で出るな」
「前は全部隠れてるから問題ない」
ヤツはフェンスから身を乗り出し、仰のいたり俯いたりして、
「妙な声が聞こえたんだけど」
「そりゃ、するさ。集合住宅なんだから」
五階建て、縦の列ごとに間取りの異なるマンションで、狭い部屋——といっても学生には贅沢過ぎる余裕の空間——に独り者、少し広いところには二、三人の家族が住んでいて、生活時間帯もまちまちだから、一日中、様々な雑音が飛び交うのは致し方ない。とはいえ、著しく常識外れな住人は、まだ認知していない。至って平和だ。
ヤツはしばらく壁や床に耳をつけては離すことを繰り返したが、諦めたのか掃除を終わらせて、お茶を淹れた。いつもの安い茶葉なのに、数段上等に感じられるのが不思議だった。つい、気をよくして、
「昼メシの希望は?」
「
「ピ×チュウみたいに言うな」
茶器を洗い、冷蔵庫の中をチェックして振り返ると、ヤツはエプロンを外し、左を上にして脛を交差させ、見事に
「ふむ」
なにがしか納得がいったか、諦めたのか、脚をほどいて伸びをし、立ち上がって、
「ここには何ぞ問題があるな」
「やっと気づいたか。教えてやる」
こちらが話題を提供しないうちに勘づかれたのは薄気味悪かったが、開き直って大股で歩き、一隅を示した。ミニサイズの
「誰か死んだ?」
「ご期待に添えなくて申し訳ないが、人じゃない」
実は一種の事故物件で、破格の家賃で借りられると聞いて契約した。さすがに自殺や殺人の現場だったら尻込みするところだが、不動産屋曰く、前の住人が禁止されたペットを飼育していて死なせてしまったそうな。
「まあ可哀想。犬、猫?」
「いや……訊いてない。わからない」
今更だが、うっかりしていた。迂闊だった。
「じゃあ、モフモフした可愛らしいケモノとは限らんな。そこら中を巨大な爬虫類が這い回っていたかもしれんし、ひょっとして高い可塑性を持った粘液状の……」
「想像しちゃうじゃないかよ」
鳥肌を堪えて眉を
「テケリ・リ、テケリ・リ!」
「やめろって」
「先住者に敬意を払いたまえ。そいつはおまえさんがやって来る前から寝起きしてたんだから」
コイツに言われると、本当に何かがそこらに潜んで様子を窺っている気がしてくる……と思ったら、もちろん不定形の生物などではないが、一瞬、意味のない甲高い声が耳を掠めた。
「それよ、それ」
束の間、近くで誰かが、か細い叫びを上げた。しかし、集合住宅において意想外の音の跳ね返りは日常茶飯事だ。現に先日、トイレに入っていたら天井からコンコンと重めのタップ音が響いたけれども、実はメンテナンス業者が外壁のコンクリートを検査していた——という一件もあった。
「騒々しいと思っても、原因が隣室や真上とは限らないってか」
「そう」
納得したのかどうか、ヤツはトランクス一丁のまま風呂掃除を始めたが、途中、度々手を止め、小首を傾げていた。
*
深夜にヤツの指図で仕込んだ冷茶が、いい塩梅に仕上がったらしい。「らしい」というのは、ヤツが味見してOKを出したからだ。外泊にお茶の葉とミネラルウォーターを持参するとは面妖な。疎いので最初はピンと来なかったが、福建省産の半発酵茶という。俗に烏龍茶と総称されがちだが、烏龍とは読んで字のごとく黒いドラゴン
「どう?」
「美味い。こっちも褒めろ」
「うむ。見事な錦糸卵である」
ヤツは是が非でも
音楽を聴いていたら、曲の途中に不明瞭な呟きが織り込まれていた——という例のアレではない。我々は箸を持つ手を止めて顔を見合わせたが、
「実は初日から察していた。段々頻度が上がるんで気になり始めた」
ヤツの推測では、頓狂な声の主は恐らく四歳から六歳程度の男児で、時折愉快になってプワァッと噴き出す、しかし、一緒にいる人間が窘めるなり口を塞ぐなりして笑いを静める、だから尻切れトンボになる、その繰り返しではないかという。
「やかましいってほどの声量じゃないけどな。夜中でもなし、思い切り笑っちゃいけないって何なんだ」
「そういうルールのゲームなんだろ」
ヤツは箸の先に辛子を付けて麺を啜った。もう大体の見当はついたとでも言いたげな面持ちだった。
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