第35話 超限帰納法 証明
二人は浴槽に浸かりながら話す。
「付き合って3年になるよね」
湾は壁を見ながら話しかける。
「そうだね」
「最近特に仲良くなれたような気がする」
「そうかな」
「うん。数学の話してるときの藍の顔はいつも輝いてるよ。なんで3年間全く数学の話しなかったんだろう?」
「全く…ではないと思うけど、記憶に残るようなことではなかったんだね」
「そうか。あんまり興味なかったのかな」
「湾が?そんなことはない。多分、私の方が数学について喋り続けるのが少し怖かったんだと思う」
「そうなの?」
「数学で盛り上がるのは、あまりマジョリティではない気がしてた」
「なんでうちら二人の間にマジョリティを持ち出すの?二人は二人、世界のどの二人とも違う二人でしょ。人間も、環境も、性格も。何から何まで。だったら、怖がらずに話しても良かったのに」
「別に怖がってたわけじゃないけど」
「そうかな」
「例えば、"超限帰納法"という言葉を出したら、何も知らない人なら"なんだ難しそうな専門用語だな"って思うに決まってるし、それで数学の話に蓋をされたらこまっちゃうからな」
「ε-N論法だってはじめは何のこと?って思ったけど、楽しく最後までできたよ」
「つまりまだ私は湾の魅力を全部はわかってなかったってことだ」
「惚れなおした?」
「月並みに言えば、そうかな」
ふたりは身体を流しながら話を続ける。
「超限帰納法を証明と言ったけど、超限帰納法は公理ではないの?」
「公理ではない。証明できる」
「数学的帰納法は証明はできないわけか」
「ペアノの公理ではそうだね。いまは実はペアノの公理を使っているのではなくZFCという公理を使っている。でもZFCはまだやっていないから、あまり深く突っ込むことはできない。そのうち、しっかりZFCをやろう」
「わかった」
風呂から上がると、さっそく藍はノートに超限帰納法を確認する。
(A,≺)を整列集合とする。P(x)を任意のAの要素xで定義された述語とする。
このとき、次が成り立つ。
∀x,y∈A((y≺x→P(y))→P(x))→∀z∈A(P(z))
「やっぱり読みにくいから具体例がほしい」
「具体例を作るのは難しいから、先に主張とその証明を理解してしまおう。大丈夫、あとでいくらでも超限帰納法を使う場面は出てくる」
藍は一息おいて続ける。
「数学的帰納法では、自然数全体の命題を証明するために、2つのステップ
・0において成り立つこと
・kで成り立つならk+1でも成り立つこと
を証明すればよかった。
これに対して、超限帰納法では、整列集合における命題を証明するために、
・x未満において成り立つなら、xにおいても成り立つ
を証明すればよい」
「0というか、整列集合の最小の要素について言及する必要はないの?」
「言及する必要はない…というか、この一つの条件に内包されている。論理式を見ればわかる」
藍はノートに目を向け、式の一部を指さす。
(y≺x→P(y))→P(x)
「この部分が、"x未満において成り立つならxも成り立つ"を表している部分だけども、xが最小の要素なら、y≺xを満たすyは存在しない。
y≺x→P(y)
のy≺xが常に成り立たないので、この式全体は常に成り立つ。つまり、
(y≺x→P(y))→P(x)
この式においては、y≺x→P(y)が常に成り立つから、P(x)が成り立たなければ式全体は成り立たない。だから、xが最小の要素であれば、P(x)が成り立つことは条件になっている」
「そもそもx未満の要素はないから、xは成り立たないといけないってことだね」
「そして、超限帰納法全体の式の意味はこうだ」
∀x,y∈A
xとyはAの要素とする。
((y≺x→P(y))→P(x))
どんなxに対しても、x未満の要素yに対してPが成り立つなら、xに対してもPが成り立つ
→
という条件が成り立つならば
∀z∈A(P(z))
Aの全ての要素についてPは成り立つ
「なるほど。順序数は整列集合で、順序数の要素はものすごくたくさんあるのに、簡単な条件だけで全て成り立つことが証明できるのはすごいね」
「そう。そして、超限帰納法の証明はそこまで難しくない。背理法をつかう」
「背理法?」
「命題φを証明するために、¬φを仮定して、何らかの命題Qと¬Qを証明できたらφが証明できたことになる、という論法。簡単にいうと、その命題が成り立たないとすると矛盾するなら、成り立つということだ」
「ああ、高校生のときにやったかな」
「では、超限帰納法の否定を仮定しよう。形式的にはこうだ」
¬(∀x,y∈A((y≺x→P(y))→P(x))→∀z∈A(P(z)))
↔
∀x,y∈A((y≺x→P(y))→P(x))∧¬(∀z∈A(P(z)))
↔
∀x,y∈A((y≺x→P(y))→P(x))∧∃z∈A(¬P(z))
「つまり、超限帰納法の条件が成り立つにもかかわらず、Pが成り立たないAの要素が存在する、ってことだね」
「そう。そして、具体的に矛盾を作ろう。
まず、整列集合Aに対して、Pが成り立たない、つまり¬P(x)を満たすx全体の集合をBとしよう。超限帰納法の否定が仮定されているので、Bは空集合ではない。Aは整列集合なので、空集合ではない部分集合は必ず最小元を持つので、それをbとしよう」
「整列集合の定義だね」
「そう。そして、P(b)は成り立つ?成り立たない?」
「bはPが成り立たない集合の要素だから、当然成り立たないよ」
「よし。では、これを書いておこう」
藍はノートに書く。
¬P(b)
「ではその次に、b未満の要素についてPが成り立つかどうか確認しよう」
「bはPが成り立たない集合の最小元だから、これより小さい要素はPが成り立つね」
「その通り。しかし、超限帰納法、つまりPの条件はこうだった」
藍はノートを見返す。
∀x,y∈A(
(y≺x→P(y))→P(x)
x未満の要素yに対してPが成り立つなら、xに対してもPが成り立つ
「そして、b未満のAのどんな要素に対してもPが成り立つのだから、P(b)が成り立たなければならない」
「つまりこういうことだね」
次は、湾がノートに書く。
P(b)
「これで、背理法が成立したね」
湾は少し嬉しそうに言う。そして、二つの式を並べる。
¬P(b)
P(b)
「その通り」
「あれ?でもちょっとまって」
「どうかした?」
「これ、bがAの最小元でも大丈夫?」
「大丈夫。なぜならb未満の要素に対してPが成り立つというのは真なので、同じくP(b)が成り立つ」
「あ、さっきやったやつだね」
「そういうこと」
「なんか証明は簡単といえばたしかに簡単な気がする…これをどうやって使っていくの?」
「よし、例えば順序数の和の結合法則を証明しよう。湾はできるかな?」
問題 α,β,γを順序数とする。次の式をγに対する超限帰納法で証明せよ
α+(β+γ)=(α+β)+γ
どうせなら厳密なほうがいい えのき @enoki_fugue
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