後ろに居る

真花

後ろに居る

 後ろ。

 後ろに居る。

 振り返ってはいけない。

 その実体を見たら、死ぬ。

 でも、居ないことを確認するために振り向かないといけない。

 でも出来ない。

 脈拍が上りゆく。脂汗が滲む。

 部屋で独り。机についている、目の前には小五の漢字ドリル。

 家は十分に広い。お母さん達が居る場所まで悲鳴は届かない。

 それ以前に声が出せない。

 時計がチクタクと進む。この部屋で動いているのは時計だけだ。

 後ろに居る。

 何もしない、何も言わない。だけど居る。

 きっと人間ではない。人間ならもっと暖かい筈だ。気配はどこまでも冷たい。

 振り向いて、何も居ないことを確認しないと。

 でも、もし居たら。

 心臓がドキドキする。息が苦しい。

 きっと大丈夫だ、今までも結局何も居なかったじゃないか。

 後ろを向こうとする筋力とそれを制する筋力の拮抗なのか、それとも単に強張っているだけなのか、首が硬い感じがする。

 間違いなく居る。それは分かる。

 きっと居ない。それも分かる。

 体が拒否して、頭が振り向けと言っている。

 何れにせよ確認しなければこのまま動かないまま、いつまで。

 覚悟を決めよう。もし居たら叫んで走って逃げよう。

 本能が嫌がるのをねじ伏せて、健太は振り向く。

「……」

 何も居ない。

 びっしょりの汗、うるさい鼓動。

 かと言って再び机の方向に直るのは出来ない。

 居間に小走りで向かう。


 恐ろしく田舎の村に父の都合で越してきた。ここはだだっ広くて、家も一軒一軒やたらにでかい。四人家族なのに部屋が十三もあり、弟は両親の部屋の隣に陣取ったがそろそろ秘密で色々したい僕は端っこの部屋に住むことにした。住み始めて直ぐに、机に付いていると後ろに気配がするようになった。気のせいでは済まない濃厚なものだ。僕は何とか毎回振り向いて何も居ないことを確かめているが、その頻度が徐々に増して来ている。

 秋口に移住して、最初の冬に入ろうと言う頃から夜にも異変が起きるようになった。

 布団で目を瞑っていると、音がする。

 ガタ、ガタ。

 きっと風だろう。

 たったったった。

 ネズミだろう。

 バン!

 風で何かが飛んだのだ。

 ギュッギュッ……

 何? 

 何か湿度のあるものを詰め込むような音。今ここでその音が鳴る理由が説明出来ない。

 ギュッギュッ。

 バタン。

 パキッ。

 たったった。

 さっきまで説明可能だった音達が別の、不明な意味を持ち始める。

 音が遠くから少しずつ近づいて来る。まるでこの場所を浸食しようとしているかのように。

 僕は布団の端を体の下に入れる。まるでミイラのようになる。少しだけ守られたような気がする。

 顔も布団の中へ。

 次第に暑い。

 でもこの形なら音は聞こえない。

 そうやって震えている内に、眠りに落ちているようで、気が付いたら朝が来る。


 誰にも言えない。言ってはいけないことのような気がする。

 昼間は普通だし、僕は笑っていたし、勉強も問題なかった。

 でも、夕方に部屋では後ろに何かが立ち、夜には音がする。

 毎日ではないけれども、段々増えて来ている。

 今日は、気配が、とても強かった。今日こそは後ろに居ると思ったけど、根性の方が勝って、居ないことを確かめた。

 夜が来る。

 布団に入るのが恐ろしい手順のように思える。

 でも寝なくてはならない。

 仕方がないから、布団に入る。

 電気を付けたままにしようかと思ったこともあったけど、それでは寝れなかったから、今日も電気を消す。

 部屋は窓が一つある。

 中庭に向いた窓だ。

 月明かりがうっすら見えるくらいの厚さのカーテンなので、電気を消しても少しだけ明るい。

 音が鳴り始めるより早く、僕は自分をミイラにする。万全の状態で夜中を迎えなくてはならない。

 音がいつもするものだから、自然と耳を澄ますようになった。聴きたくもないのに。

 パキッ。

 始まった。

 たったったった。

 やっぱりネズミじゃないのかな。

 ギュッギュッ。

 この音。これが自然ではあり得ない音。全ての音の意味を上書きする音。

 ギュッギュッ。

 バタン。

 パキッ。

 いくら聞いても慣れない。どうあったって侵害して来る音だ。

 ギュッギュッ。

 続く、ずっと続く。気を失うまで続く。

 僕はうんざりしながら震えていた。

 ギュッギュッ、ギュッギュッ、ギュッ。

 なのに、その音を最後に止まった。

 大丈夫かな、と、僕は目をうっすら開けた。

 そうしたら、窓の外に光がある。

 ただの光じゃない。いつも、後ろに居る気配が強くつよくその中からする。

 どうしよう。

 思った途端に体が動かなくなる。

 目が、強制的に開けられる。

 何かに捻られたように首が窓の方を向く。

 見たくない、見たくない。

 そこには光が間違いなくある。気配が濃厚にある。

 嫌だ。

 でも体は一切動かない。

 そのまま光を見させられる。

 嫌だ。やめて。

 言葉は出ない。

 いずれ光が弱まって来た。

 ああ、これで終わりか、思った途端に、体が何かに引き寄せられるように布団から這い出る。自分では一切そのような動きはしていない。むしろ抵抗しようとしている。

 なのに、体が、畳の上を滑ってゆく。

 入り口の襖が音もなく開く。

 そのまま、廊下を、進んでゆく。

 顔は下を向いた状態のままだから、廊下が板であることしか見えない。

 ゆっくり、ゆっくり進む。

 嫌だ。

 嫌だ。

 気配がする。

 前に、立っている。

 居る。

 間違いなく。

 そこで顔が上を向かされる。

 居た。

 終わった。

 人間ではないけど、人間のような形。頭と眼が大きく、金色に、窓の外の光と同じ色で、輝いている。裸なのか、そういう服なのか、全身が同じ色だ。

 大きな手が僕の顔に向かって来る。指は五本。


 次に気が付いたら、僕は布団の上に居た。まだ夜のようだ。

「夢?」

 僕の布団は、ベッドメイクをしたかのように整っていた。



(了)

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