記憶を踏みつけて愛に近づく

侘助ヒマリ

溶け去る女の記憶。踏みしめられる男の記憶。


 人売りから女を買ったのは、美しいから、ただそれだけの理由ではなかった。



「この女の脳ミソはどうかしちまってるんすよ。朝になると、前の日のことはまるっきり記憶からなくなっちまう。旦那がどんな酷い仕打ちをしても、次の日にはころっと忘れちまうっていう、使い勝手のいい女です」



 どう使うかを決めて買ったわけではない。


 ただ、美しかったから、買ってすぐに女を抱いた。


 暴れて抵抗しようとしたので、女の左腕に焼きつけられた烙印を見せ、「お前は私に買われたのだ」と告げた。

 記憶がなくても、奴隷の烙印はわかるらしい。

 青ざめた女の体から、ぐったりと力が抜けた。

 久しぶりの若い女を貪るように抱いた。



 *



 人売りの男の話は本当だった。



 翌朝。

 女にあてがった小部屋を覗くと、布団をきちんと畳んだ女が床に座っていた。


「あの……ここはどこでしょうか?」

「私の屋敷だ」

「あなたは……? 私の夫?」

「違う。お前の主人だ。お前は私に買われた奴隷なのだ」

「奴隷────」

「疑うならば、左腕の烙印を見てみなさい」

「………………」


 そんなやり取りをして、女の一日が始まった。



 長年使っていた奴隷を解放したばかりで家事の手がなかったから、女が働き者であるのは助かった。

 奴隷に支払う僅かな給金を受け取ったことも忘れるので、金を貯めて解放されたいなどと思うこともないようだった。


 ただ、毎晩のように抵抗されるのは面倒だったが、翌朝になれば犯されたことも忘れてしまう。

 都合が良いことに、私たちの関係が悪化することはなかった。



 女の名前は、その日の気分で呼んでいた。

 ハナと呼ぶ日もあれば、ルイと呼ぶ日もある。

 面倒な日は「おい」と声をかけるだけ。

 どんな呼び方をしても、女は「はい」と応えた。



 前の持ち主につけられた鞭や殴打の跡が、女の体からすっかり消えた頃。

 女を抱きながら、ふと名前を呼んでみたくなった。



 *



「あの……ここはどこでしょうか?」

「私の屋敷だ」

「あなたは……? 私の夫?」

「違う。お前の主人だ。お前は私に買われた奴隷なのだ」

「奴隷────」

「疑うならば、左腕の烙印を見てみなさい」

「………………」

「お前の名前は、ユキという」

「ユキ……」



 翌朝から、日課に名前を告げるやり取りが加わった。



「ユキ」と呼べば、「はい」と応える。


 それはまるで、私がつけた自分の名だけは毎日忘れずにいるかのようだった。



 いわれのない苛立ちをぶつけても、

 酔いに任せて乱暴に抱いても、

 次の朝にはユキはすべてを許してくれた。


 どんな一日を過ごしても、ユキと迎える朝はいつも同じ穏やかさで訪れる。


 憂鬱な気分で目覚める朝は、私の前から徐々に姿を消していった。



 *



「あの……ここはどこでしょうか?」

「私たちの家だ」

「あなたは……? 私の夫?」

「そうだよ、ユキ。私たちは夫婦なんだ」

「私の名前は、ユキ。あなたは、私の夫……」



 毎朝のやり取りがこのように変わったのはいつからだろう。



 手のひらに舞い降りた淡雪が溶けてなくなるように、ユキの記憶は私の腕の中で毎夜溶けては消えていく。


 溶け去る淡雪をこの手に閉じ込められたらと、何度思ったことだろう。

 私の心には、ユキと過ごした穏やかな時間が積もり続けているというのに。




 それでも。




 降り積もる記憶を踏みつけて、今朝も私はユキに微笑みかける。





「ユキ、おはよう」

「……あなたは誰?」

「君の夫だよ。昨日も今日も、そして明日も君のことを愛している」





 ── 終 ──



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記憶を踏みつけて愛に近づく 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari

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