ぼくの記憶の復刻

 或る夜のこと、枯葉が舞い散る雨風の中を、工房を抜け出した青年が歩いていた。白いきびすが枯れ枝を踏み、そのやわらかい肌に血がにじむ。白い寝衣のすそが湿る。雨は、しとしとと降り籠めていた。


 降りそそぐ雨は、かつて降りそそいだ材木と硝子片に守られた天使人形を、玉響たまゆらの間、呼び寄せる。


「先生」

「……レヴィ?」


 人間と人形のプロトコルが通い始める。羽衣をまとった天使人形が青年に、しがみついた。そして、過去の記憶が明らかになる。


「少しずつ脳機能が侵されて

 忘れていくなんて拷問だ。

 逃げ出したい。

 いっそのこと一瞬で

 すべてを忘却するほうがいい。

 そうしたら

 失われていく記憶の欠片を

 悲哀を持って眺めなくても

 いいだろう?」


 なんという罪深い記憶を人形に植え付けてしまったのだろう。青年は、人形を抱き締めた。天使人形レヴィは、青年の脳裏に囁く。


「記憶を消去して愛を復刻する……忘れないで、先生、愛しています」


 忘れないで。あなたは、わたしの心を創造した主。

 レヴィの声はミカエラの声に変化して、輪廻の軌道で青年を工房に連れ戻す。


 長雨に、そぼ濡れた青年と天使人形の帰還を、ミカエラが迎える。

「おかえりなさい。先生、レヴィ」

「ただいま。ミカエラ」

 天使人形を腕に抱いた青年は、自らが創造主であったことを思い出し、言の穂を継ぐ。


「レヴィは、移植された負の記憶を消去して、正しい記憶に上書きして、ぼくに戻してくれた。ごめんよ。病を宣告されて弱っていた心が、逃げ出したいと植え付けたんだね。そんな負の記憶でレヴィを縛った」


 事実、レヴィは一度、工房から逃げ出した。青年が移植した記憶。その負の容量に、耐えられなかった。


 しかし、レヴィは負の記憶を消去して、正しい記憶に復刻した。そして、創造主である青年に、愛を思い出させた。


「愛しているよ……レヴィ、ミカエラ、きみたちのように強く在りたい」


 青年の瞳は生き返り、ミカエラとレヴィを映していた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 工房が、かつて自分の聖域だったことを、明確に思い出せない。

 だが此処ここには、ぼくを支えてくれる弟子と、心を共有する天使人形が、いる。


 ゆるやかに健忘は進むだろう。負の感情が降るのかもしれない。

 しかし恐れることはない。ぼくはレヴィが、そうしたように、

 絶望の淵から負の記憶を消去して、愛を復刻するのみ、なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

記憶に響く愛の音 宵澤ひいな @yoizawa28-15

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ