空白の記憶
ミカエラは、青年の持ち物の中から、真新しい診察券を見付ける。
総合病院の脳神経外科。アクセスを試みて、病名を知った。
コルサコフ症候群。
出張先で事故に遭った青年が、災害の規模の割に軽傷で済んだことを喜んでいた。いまになって、突きつけられる。重症だと。
聖域。そう称していた工房に、彼は枕と食糧を持ち込み、眠ったり、食事を摂ったり、象嵌前の瞳を薬と間違えて飲もうとする。危なっかしくて見ていられない。
ミカエラは工房の鍵を閉めた。寝台の上で、同じ本を繰り返し読んでは眠る青年。彼は、ミカエラの偉大な師匠であることをやめてしまった。
彼が日課の午睡をしている時間、端末を手にしたミカエラは、担当医に電話を掛けた。総合病院の遅い昼食の時間に縮こまりながらも、
何度も読んだ本を、今、初めて読む本のように熱心に追うこと。ほとんど話さなくなってしまったこと。その瞳がミカエラを見ていないこと。象嵌された人形のような瞳。何を思考しているのか分からない。
「急速に進行するものでは、ないのですが」
「現に急速に進行して、わたしの知らない先生に、なってしまったのです。人形のようです」
「どちらにしても、お世話が大変でしょう。入院なさいますか」
天涯孤独な青年だった。看病する者は、弟子のミカエラしか、いない。互いの境遇を考えて、ミカエラは数秒前に口走ったセンテンスを上書きする。
「それが、日常生活では、わたしの知っている先生で、別段、支障は無いのです。先生は、自分で自分のことが、できるのですから……もう少し、見守っていたいと思います」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
一年が経過した。ふたりの生活は、やすらかだった。
朝、ミカエラがブラシを手に取って、青年の髪を
すると、彼の手が遮る。
「御自分で、なさるのですか。そうですよね。先生、しっかりしておられますもの……それぐらいで、いいですよ。さらさらに、なりました」
昼、ミカエラの作ったブランチを食べる。
ビタミンBたっぷりの大豆のサラダを欠かさない。
「先生、スプーンの扱い方は、以前と同じなんですね。お上手ですよ。わたし、先生が治ってくれる日を信じています。だから、チアミンたっぷりの料理です。御存知ですか? 先生の、脳の栄養素ですよ」
夜、一方通行の会話に終止符が打たれる。青年は、一日を通して飽きずに読み続けた季刊誌を、
「御存知ですか? 先生が
ミカエラが、生活の不安を口にすることはない。
葛藤を閉じ込めて、献身的に尽くした。
いつまで続く
はたして、これで、いいのかしら。いいのよ。
私には先生と人形しか、いないんだもの。
孤独な乙女の
ミカエラは、彼が眠りに就いている夜明け、生産された人形たちのメンテナンスを欠かさなかった。仕事に正確なはずのミカエラが、ひとつ腑に落ちないことがある。レヴィの所在だ。
体長50㎝のビスクドール。
展覧会から無傷で戻ってきたのは確かなのに、
青年が退院した日も確かに居たのに、
いつのまにか、行方を
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