記憶に響く愛の音

宵澤ひいな

ぼくの記憶の消去

 ぼくと天使人形レヴィのプロトコルは、ただひとつの記憶である。


 プロトコル。ネットワーク上で、パソコン同士が通信する時に必要な規約だ。

 人形師のぼくにとってのプロトコル。それは、人形とぼくが通信する時に必要な記憶だ。


 ぼくの職業は人形作家で、手掛けるのは、ベルメールに影響を受けて作り始めた球体関節人形。

 ぼくの作るビスクドールは、息子として、娘として、あるいは恋人として、求められる人にもらわれていった。


 いろんな種類の人形を手掛けた。

 オーダーメイド制作にも、積極的に取り組んだ。


 たとえば

黄金色ブロンドの長い髪の、黄石トパーズ双眸ひとみの、薔薇色の花唇くちびるの、美しいアンドロギュヌス』

 あるいは

『死病に侵された、末期まつごの瞳の、色褪せた唇の、余命半年のセルフポートレート』

 または

榛色はしばみいろきらめく短髪の、希望に輝く眼の、珊瑚色さんごいろの唇の、若かりし日の姿』


 オーダーメイドのビスクドールは、現実世界に存在しない、または生きることのできない生命を永遠に結実させると、その筋の季刊誌に紹介された。人形師として、順風満帆な人生だ。


 魂を宿して立つ人形が、求める人の手にわたる瞬間、自分の一部が削られたようだった。だけど、人形を生み出すことは、ぼくの生き甲斐だった。


 人形を創造して、販売して暮らす日々を、おじいさんになるまで続けるのだと信じていたし、人形作家こそ天職と信じて疑わなかった。


 信念を打ち砕いた病。ぼくは若くして記憶が消えていくコルサコフ症候群に陥った。原因は不慮の事故で負った頭部の外傷。


 不可抗力の自然災害だった。

 とある画廊で展覧会を開いていたとき、マグニチュード6.0の直下型地震に襲われた。ぼくは、咄嗟とっさに我が子を抱いた。我が子。自分で言うのも変だけれど、ぼくの傑作、レヴィと名付けた天使人形を。


 愛するレヴィは無傷だった。ぼくは降りそそいだ材木と硝子の欠片から身を守る術を持たず、救急搬送された。さいわい命に別状はなく、じきに退院して仕事を再開したのだが、自分では気付かない変化に、弟子のミカエラが気付いた。


 大天使ミカエラ。本名ではない。ドールネームだ。作家のペンネームのようなもの。ぼくにもドールネームは勿論もちろんあるけれど、気恥ずかしいので伏せておこう。


「先生、この子の瞳なんですが、サイズ違いで象嵌されていますよ。

 あと、作業の手順、変えられたんですね。

 それから、最新の季刊誌が届いているのに、

 同じ本の同じ頁ばかり、熱心に追われています。

 よほど、気に入っておられるのでしょうね。

 先生の脳内、わたしには、よく分かりません」


 ミカエラは、ぼくを先生と呼ぶ。人形作家を志し、ぼくに師事する弟子。たったひとりの愛弟子だ。全幅の信頼を置く関係の、ぼくらは真顔で向き合った。ミカエラの言葉が、認められない。


 瞳の象嵌は魂の注入。間違えるなど、ありえない。

 しかし、サイズ違いで象嵌していた。

 いつもどおりの作業手順、変えた憶えはないし、変えようと思ったこともない。

 最新号だと思って読んでいた季刊誌は、発行が一年前の日付だった。


 何かが、おかしい。

 ぼくは、ミカエラに内緒で総合病院に赴き、精密検査を受けた。そして判明する。頭部強打に端を成すコルサコフ症候群。この後遺症が治る可能性は低く、進行する先には記憶の消失が待っている。


 既に記憶の消去が始まっている。混乱と言うべきか。

 ミカエラと会話が、噛み合わなくなる。同じことを何度も言うと、指摘される。いい加減に作り話は、よしてくださいとたしなめられる。


 深夜、ミカエラが眠ってしまってから、工房に赴いた。

 ぼくがぼくでいられるあいだに、ぼくのすべてを結集して生み出そう。ぼくの『記憶』を移植した人形を。


 移植先の人形は、体長50㎝ほどの天使人形にした。名前はレヴィ。白いビスクのボディに白い羽衣をまとい、銀色の髪に淡水色みずいろの瞳を持つ。


 この子は、事故に遭う直前に、ぼくが、

 ぼくのために完成させた人形だったんだ。


『記憶』を移植した直後、レヴィは、ぼくの目の前から姿を消した。

 ぼくの記憶も、たちまち消えた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「先生、ずいぶん肌寒くなりました。冬支度、お持ちしましたよ」


 弟子の言葉に青年が反応することはない。記憶は枯葉のように踏みしだかれる。自分が、かつて人形作家であったことも、急速に忘れてしまった。


「先生」

 唇を噛んだ弟子が、哀しくも人形のようになってしまった人形師の世話をする。

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