夏草は君の名前

 この先行き止まり。


 看板には、そう書いてあった。私は立ち止まり、むっとした。何を根拠に行き止まりという言葉があるのか。看板の遥か向こうに目を凝らせばはあんなにも遠く地平線が溶けるように広がっているというのに、行き止まり、とはなんとも馬鹿にした話ではないか。


 私は看板を数十秒ねめつけたあと、勢いをつけて蹴飛ばした。ブリキの看板にはへこみが出来て、木製の支え棒から落ちて転がった。痛かっただろうか──でも足だって結構痛かった。そのこと知らないでしょ、と私は思った。華奢な白い革のバレエシューズは、私の足を保護するには薄かったから、ブリキの看板がへこむほどの蹴りを放った私だって、同じくらい痛かった。痛かったんだよ。


 邪魔な看板は転がったので、私はその向こうへ一直線に駆け出した。自由だ。ぎりぎりと太陽が灼く真昼の世界へ私は駆けてゆく。頷く太陽、よろめくシータ、つまづく切っ先に辿り着くは空集合。それらが構成する夏草の世界。夏草と云っても、私は夏を知らないから嘘だ。そう、何を云っても嘘になるウソツキムスメ。彼岸花の乱れ咲きのような気もするし、夕暮れのれんげ畑のような気もするけれどでも、あのこくこくぎんぎんしゅうしゅうちりちりと燃える太陽に灼かれるのはやっぱり夏草としか云えないのだ。いつの季節にもそう呼んでしまう。そう、まるで君の名前みたいに。


 私の背丈よりも高く夏草は生い繁っていて、私の肌の露出している部分をチクチクと刺した。ストッキングもレースの手袋もを超えて私の手足は夏草の引っ掻き刺した疵だらけになって痛んだ。何かに嗤われている気がする。看板の云うことをきいておとなしくしていたら、こんなふうに疵だらけになんてならなかったんだよ。おとなしくお帰りなさい、ウソツキムスメ、だなんて云われたって、もうそんなひといないんだもの。


 やがて陽が暮れていった。夏の日暮れはこんなにも鮮やかな夕映えから青い影をヴェイルのようにまとって永く永く延びる。西の空にて焦がれる三日月へと連なる恋文、心のなかでは高鳴る真実、それを精一杯物語るふりをするけれど宵の明星は知らんふりをする。だからついつい、異なる未来に与える果実、見つける血清を注入する片手で、そうやって、黄昏れてゆく、今日も。


 私はとぼとぼと歩いていた。やっぱり、夜なんだな、と思った。夏草の白昼夢はもう終わりだ。


 重い足取りで歩いていったらその先に、ずっと前に蹴飛ばした筈の看板があって、やっぱり蹴飛ばしたあの通りにへこんでいた。直してやりたいな、って思ったけれど、直らないよ、へこんだ疵は。直らないものなんだ。そういう取り返しの付かないことってある。けっこうよくある。倒れた看板はまあまあ合格点をやってもいい長方形に見えたので、私はその上に横たわった。川が優しく私をのせた看板だったものを流し始めた。夜の果てで私は何事か呟きながら、ああ、いつか見たあの絵、あの絵のオフィーリアに今の私は似ている、と思った。それくらいに川は緑の草たちと花びらに彩られていた。ねえ、私を流れにのせて運んでいって。私の柩になって下さい。柩には相応しいから、へこみも私の長いスカートが隠すから、蹴っ飛ばしたことをどうか許して。お願い、どうかお願い。目を瞑るから……。


 向日葵の花弁がひらひらと舞い落ちてきて、流れゆく柩に、まったく、とんだオフィーリアだよ、と文句をつけているのが霧笛のように遠く延びながら、私の耳に届いた。私は目を瞑る。夜がきた。


       

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zakuro, その断片 泉由良 @yuraly

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