理系分野では有名なあの大学にいた頃、
印象に残ったことはいくつかあるけれど、
「天才、という言葉をずいぶん慎重に使うんだな」
というのがそのひとつだった。
文字通り百戦錬磨の数学者たちは、
才能の深淵を知っているのだ。
どれだけ優れてもさらなる至高があるのだと
何度も体験し、思い知ったことがあるのだ。
さて、本作「zakuro」である。
私はこれを「近代詩」として読んだ。
詩がニアリーイコール「現代詩」とされて
日本では久しいが
歌にそもそもの起源がある詩というものは
あらゆる音から逃れることができないし
その意味で「近代詩」は詩として
より本質的なものだと思っている。
「zakuro」はリズムがよい。
舌に出してその甘みを(あるいはひりつくような辛みを)
転がして愉しみながら読むのがよい。
音とともに詩として印象に残ったのが意味だ。
この詩には意味がある。
ふつう抽象を描くとき、作家は意味を失わせようと
努力し、苦心するように思う。
しかし本来、意味がないことにもまた
意味がなくてはならないのかもしれないと
本作を読んで感じた。
この作品は、意味のない意味にあふれている。
それは句読点や、存在しない接続詞にすら
幽霊のように現れる。
だからだろう。
この作品は、常に新しい。
新しい、とされる作品は少なくない。
最初はその新しさに感動もする。
そしてその多くは、やがて新しいということに慣れ、
疲れてしまう。
その新しさはもう見たよ、と。
しかしこの作品は更新される。
読むたびに常に新しい姿を現して引き付ける。
ブラックホールのように、
その小さい体におそろしい質量を蓄えている。
この作品を「天才」と評するつもりはない。
その言葉はやはり、慎重さと緊張とおそれを、
口にするときに呼び起こす。
ただしもし、この作品を「天才」足らしめる何かが
あるとしたら、それは
予備動作のなさ、ではないか。
抽象を描くとき、ふつうはそのために
何らかの予備動作を必要とする。
それは考えるであり、感じるであり、経験なのかもしれない。
しかしこの作品はおそらく、書かれるときに
何の予備動作も必要としていない。
いきなり無邪気に放たれた言葉が
しかし飛び切り重い。
近代詩耕介は推理しない。
しかしその一族のように、辞書を作るかもしれない。
この作品は、辞書だ。
おそろしい重みをわずかな無意味のなかに蓄えた
まだ知らない新しさへの重い扉だ。