第三の天にて
十森克彦
第1話
長い長い時の彼方のことでございます。私どもに命が与えられ、目を開きましたその頃は、あの御方と私どもだけでございましたので、それはそれは、満たされたものでございました。
時、と申しましたけれども、私どもが目覚めた頃にすでに時が動いておりましたのか、それとも私どもの誕生の後に、あの御方が時を巡らせ始めなさったのか、そこは定かではございません。いえ、忘れてしまったということではございません。時の巡らないところではそもそも記憶、というものが残りませんので。ただ、時を動かし始めなさった場面を見た記憶がございませんので、定かではない、としか申し上げられないのです。
ある時のことでございます。あの御方が、仰せになられました。
「光よ、あれ」
と。今にして思えば、あの時からすべてが始まったわけでございます。私どもの仲間の中には、光ができたので闇もまたできたのだという者もおりまして、さらには、それ以前の状態の方が良かった、とまでいう者もおります。しかし、七つの色の光が順に現れ、やがてまばゆいひとつの光となったあの光景の美しさといったら、今でもはっきりと思い起こすことができます。ああ、七色、という色そのものが、後に分かったことでありますけれども。
私どもも光に照らされることによって、我が姿というものをはじめて自覚したものでございます。あなた方が母の胎内で安らかに育まれ、時が満ちてそこから光溢れる世界に突然出てこられる、ちょうどそのように、私どもも光が造られたあの時に、世界というものを知ったのでございます。ですから、やはり光が造られたということは素晴らしいことだと思っております。
あの御方は、それに続いて大空をお造りになり、地と海と植物、それにあらゆる生物をお造りになりました。
最後に人間をお造りになられたときには、あの御方はたいそう高揚しておられました。ご自身に似せて、ご自身の形に造ろうと仰せになり、祝福をお与えになったのを見て、私どもにも大いなる衝撃が走りました。私どもも含めて、あの御方がお造りになったすべてのもののうち、そこまでの思いを込められた存在は人間だけでございましたので。
中には妬みにとらわれてしまう者も、一部ではありますが、おりました。彼らはそれよりも以前、我こそが輝き、と思い違いをした結果、きつく戒められた者たちでして、今に至るまで私どもの間でも頭を痛めているのでございます。
しかしながら他の全ての者は、あの御方が喜びとともに祝福をお与えになった人間という存在に大いに関心を持ち、その誕生を喜びました。なにせ、あの御方が喜んでおられたのですから、それは私どもにとっても喜ばしいことでございます。
「ここは一体、どこだ」
パウロは、自分を包んでいた真白な雲を抜けて、どこまでも青く光る空が広がっている風景を見た。
ルステラの町でのことだった。歩けなかった男を立ち上がらせる奇跡を行うと、神殿の祭司たちが自分のことをゼウスと呼び、いけにえをささげようとした。大慌てでこれを止めると、今度はアンテオケから追いかけてきた反対者たちが、群衆を扇動して、石を投げつけてきた。
忙しいことだ。苦笑いをしながら、自分に殺到してくる石を他人事のように見ていた。かつて自分も同じようにして、一人の男を殺させた。今度は、自分の番だ。大きなものは拳ほどもある石が、不思議にゆっくりと、近づいてくる。待った。鋭い痛みが、こめかみにはしり、視界が真っ白になった。そして気が付くと、ここに立っていた。
「そうか、死んだか」
不思議に何の感傷も湧き上がっては来ず、ただ冷淡に、自分の命が終わったのだと思った。ただ、同行していたバルナバや、他の弟子たちはどうなったのだろうか、と心配したが、ここにいないところを見ると、石打ちに遭ったのは自分だけだったようだ。
しばらくの間、パウロは雲の上に立ち、さえぎるもののない空を呆然と見ていた。そうしていると唐突に、巨大な人影が、目の前に音もなく降り立った。足下まで垂れている真白な衣をまとったそれは、エルサレムにあった神殿ほどの大きさだったが、ゆっくりと腰をかがめ、座り込んだ。
その巨大な白い人影は、さらにパウロの方に向かって顔を近づけるようにして上体を傾け、語り始めた。世界の創造された時の物語だった。幼いころから暗唱してきた、モーセの律法の書に書かれている通りの内容だが、いささか異なるのは、聞き伝えとしてではなく、どうやらそれらを目撃してきたのであろう者の、証言であるということだった。
よく育ったいちじくの木ほどの高さにあるその顔を見上げながら、パウロは聴いた。その言語は、これまで聞いたこともないものだったが、何故だかその意味は理解できた。パウロは、自分がこの話を聴くためにここに呼ばれたのだろうということを、同時に理解した。
あの御方は園をお造りになり、そこに初めの人間、アダムを住まわせられました。お造りになった生き物たちに名を付けさせ、園を耕させ、それはそれは安らかで、ほほえましい日々が続いていたものでございます。
あの御方も、アダムの考えること、その発する言葉の一つ一つを慈しみ、喜んでおられました。あの御方ご自身も、三つにして一つにいます御方であられて、完全な交わりを保っておられます故に、アダムについてもそのように交わりを求めておいでだったようでございます。
ほどなくして、あの御方はアダムに深い眠りをお与えになられました。ご自身に似せた者として、交わりを求めるようにお造りになられたようでございます。ですから眠っているアダムの脇腹からもう一人の人間をお造りになり、アダムが自らと等しく交わりを持つべき相手としてお与えになりました。その時のアダムの喜びようと言ったら。
このもう一人の人間をエバと名付け、いつも、何をするにも行動を共にしていました。二人は同じ人間として造られましたが、興味深いことに、二人はその姿も心の在り様も、それぞれに随分異なっておりました。後に造られ、エバと名付けられた方の人間は、先の人間、アダムと比べて柔らかそうな体を持っており、好奇心は旺盛なようでした。話す言葉もエバの方が多いようでございました。
アダムの方はエバのことをそれはそれは大切にし、エバの言葉を嬉しそうに聞いていることが多かったようでございます。ちょうどあの御方が、アダムの言葉に喜んで耳を傾けておられたように。
あの御方は、彼らに園をお任せになりました。そして、園のどの木からも自由にとって食べてよいが、たったひとつ、中央にある善悪の知識の木のみはとって食べてはいけない、必ず死を招くから、という約束をお与えになりました。園全体は豊かに潤っておりましたので、それはそれはたくさんの木の実があり、彼らはいつも、それらを食べては十分に満足をしていたと思います。あの御方もそれらすべてを見て、たいそう満足なさったご様子でした。
どこをとっても完全で、美しく輝くようでありました。そう、あの時までは。あなた方もよくご存知の、禁断の木の実の一件でございます。
あの御方はじっと見ておいでになりました。蛇が、七色に輝くその美しい肢体をくねらせながら人間に近づき、話しかけるさまを。アダムとエバが、かの者とのやりとりの中で徐々に心を動かされ、魅入られてゆくさまを。私どもは何とか警告を発したかったのですけれども、あの御方はそれをとどめられました。
やがて、彼らがその実を手に取り、ついにそれを口にしてしまった時、あの御方は悲し気にため息をつかれました。
夕暮れが園を赤く染める頃、あの御方は園に出て行かれました。もちろん、いちじくの葉を綴り合せて恥部を隠したアダムとエバが、それでも自らの恥を隠し切れず、そのいちじくの木からすら数歩も離れられずに木陰に逃れるところもよく見えておりました。ですからあの御方にとって人間を探し出すなどはなにほどのこともなかったのでしょうけれども、あえて園を歩き回られる足音をお聞かせになり、彼らが自ら悔いて御前に出ることを望んでおられたのでございます。
しかし、彼らは自らを恥じて、どうしても出ることはできなかったようでございます。彼らが口にすることを禁じられていたのは、善悪の知識の木の実でございました。物事の是非を、創造主であるあの御方の仰せにお委ねしておれば、完全な世界をお造りになられたあの御方とともに、完全な日々を安らかに送ることができたのでしょう。けれども、アダムとエバは自らで裁くことを選んだのです。同時にそれは、食べてはならないとお命じになっておられたあの御方との完全な関係を断ってしまう選択でもありました。彼らはそのことを知った時に、その責任の重みを追いきれなくなり、隠れる他なかったのでございましょう。名乗り出ることができずに隠れている様子をご覧になったあの御方は、しかし包むような御声で
「お前はどこにいるのか」
と語りかけられました。それはそののちの彼らの子孫たちに対しても、いつも投げかけられ続けることとなった問いでございました。自らの来し方、おるべきところについて思いを馳せ、戻ってくるようにとのあの御方の深い願いのこもった、問いかけでございます。
アダムがいちじくの木陰から、消え入りそうな震える声で答えたのを、わたくしどもも聞いておりましたが、それまでの信頼と安らかさに満ちたあの御方とのやりとりとは全く様子が違っておりまして、私どももいささか哀れを誘われたのを覚えております。
「あなたの歩かれる音を聞き、裸でしたので、隠れました」
彼らは初めから裸でございました。完全な調和の中で、なんの違和感も疑いもなくそれまで過ごしてきたはずなのに、恥じて、隠れてしまったというのです。それは単に着衣がないという状態のことではなく、あの御方との信頼の関係が損なわれてしまったことに対する喪失感であり不安感であったのですけれども、そこまでは分からなかったのでしょう。当然、葉を綴り合せただけで安心感が得られるようなものではございませんでした。
ちなみに私どもが身につけておりますこの白い衣に見えますものは、あの御方の前で純白であるという私どもの在り様を象徴しているものでございまして、外から羽織ったものではなく、私どもの内面が形となったものに過ぎません。
あの御方は、アダムとエバの裸を覆うために、動物を一頭、屠りなさいました。彼らの心には、彼ら自身のために命が失われていく様子が刻まれたことでございましょう。それは、完全であった世界に、初めて死が入った瞬間でもございました。その骸から皮が採られ、彼らの裸を覆う衣が作られました。自分たちの裸が覆われるために、命が失われなければならないのだということを、彼らはそれで知ったはずでございます。それは私どもに対してもお示しになった、あの御方の決意でもあったのでございましょう。
子を産み、命をつないでいくという営みは、私どもにとって驚くべきものでした。園から追われたところで彼らが産んだ子らは、彼らとあらゆる意味で同じ形をしておりました。増え広がり、傍若無人にふるまうようになった人間をあの御方は一度洪水にて滅ぼそうとなされましたが、残った者たちをご覧になって、地の続く限りその営みがやむことはない、と仰せになりました。
人間の中には善と悪が確かにございます。たとえば子をいつくしむ彼らのまなざしは、あの御方が彼らをご覧になるそれに相通じるものがあるだろうと思います。たとえば食べる物を奪い合って争う時のそのさもしい様子は、彼らを誘惑し、陥れた蛇の眼と同じいやしさを宿しております。そして、人間を誘惑したその者達の一族は、地を行き巡っては彼らのいやしい側の行いを、あの御方の前で訴え続けてまいりました。
あの御方は悪がまさり、彼らが自ら滅びに向かおうとするのを何度も止めようとなさいました。ご自身のことばを受けて伝えることができる者たちを選び出し、遣わしなさって警鐘を鳴らしておいでになられたのです。けれども彼らは多くの場合、その声に従おうとはしませんでした。むしろ益々、駆り立てられるように悪の道に突き進んでいくように、私どもには見えたものでございます。
あの御方には、そうした人間達の反応も当然分かっておいでだったのでしょう。そうして、はじめの人アダムとエバをお造りになってから何千年かが経ち、あの御方は自らがお造りになった世界に、飛びこまれました。
あなた方人間は、他の動物に比べて、相当に弱い形で生まれるようになっております。たとえば驢馬は、生まれて数時間で早くも自身の足で歩き始めるものでございますが、人間ときたら実に一年以上もの間、自分で歩くことすらできないという状態が続くのです。一人では生きることがかなわないので、その命を全く親なり周りの大人たちなりに委ねる他はございません。もちろん、それには意味があって、そうして世話を受けることを通して、他者との交わりの土台が据えられていくようでございます。
しかしいずれにせよ、星を巡らせ日を昇らせ、雨を降らせて天地を動かし、生きとし生けるもののすべての命を支配しておいでのあの御方が、そうした無力な一人の人間の赤子に身をやつしなさるというご計画には、私ども一同も言葉を失ったものでございました。おおよそ、光をお造りになって以来のあらゆる奇跡の中でも、最も驚くべき出来事には違いありません。
何千年にもわたって様々な者たちをお送りになり、彼らを通してあの御方はご自身のことばを人間に伝えてこられましたが、その中にも、ご自身が来られるのだというご意志を潜ませておられたのです。三つにして一つであられる方が、分かたれて人間の世界に住まいを設けられるなど、考え得ることではございませんでした。
実はそれまでにも、あの御方は、幾度か地上に降り立たれたことはございます。けれども、そうした折にはほんの一時だけ、仮の御姿として人間のような形を作ってみられただけで、たとえば影絵のように、その依代を通してお語りになったり、人間と触れあってみたりなさっただけで、本質は微塵も変わってはおられませんでした。
ある時、私どもの仲間二名を伴って、降りて行かれたことがございました。悪があまりに支配的になり、訴える者たちの声が大きくなってそれ以上放置できない町、ソドムとゴモラをお止めになるために出向かれたのでございますが、私どもを派遣なさればそれで十分に事足りるはずでありました。このとき、あの御方がわざわざご自身で降られたのは、アブラハムという男と語り合うためでございました。
「もしかの町に、五十人の正しい者がいたとして、その者たちも共に滅ぼしてしまわれますか」
アブラハムが申しあげたその言葉をあの御方はお聞きになり、
「滅ぼすまい、五十人を見つけたならば」
とお答えになりました。アブラハムはさらに申し募り、
「もし、五十人に五人足りないやもしれません。その五人のために、滅ぼしてしまわれますか」
「滅ぼすまい、四十五人を見つけたならば」
あの御方は必死に詰め寄るアブラハムを、じっと見ておられました。四十人、三十人、二十人、そして、十人の正しい者がいたならば。最終的にはそこまで申し上げたアブラハムに、
「滅ぼすまい、その十人のために」
とお答えになったあの御方ははっきりと喜んでいらっしゃいました。最終的にはその十名すら見つけることができず、私どもの仲間がかの町を火で焼き払うことになったのでございますけれども、そのときに、あの御方は、人間のそうした罪を赦したいと願っていらっしゃるのだということが、私どもにもはっきりと分かりました。
エバの子孫である一人の女の胎に宿られた時、あの御方は他の人間と全く同じように、自ら呼吸も飲み食いもできず、命の維持は全て母に依存しなければならない胎児となられました。私どもも含め、およそこの世界に存在するあらゆるものは、あの御方によって造られ、保たれております。その、他ならぬ命の源であられるあの御方が、でございます。ご自身で設計をなさったその母胎の仕組みをまさか、ご自身でお用いになるとは。もちろん、現に宿っておられるその女に命をお与えになり、体をお与えになられたのもあの御方であることは言うまでもありません。その胎内で小さな小さな命としてお宿りになったあの御方の姿のあまりの弱弱しいお姿に、私どもはかえって、あの御方のこの事業に関する激しいまでの情熱を感じたのでございます。その深いところは推し量る由もございませんが、それほどまでに願っておられたご計画が実行に移されるということは、喜ばしいことに違いありません。
あの御方をその胎内に宿したエバの子孫は、私どもの仲間がそのことを告げた時に、
「これから後どの時代の人々も、私をしあわせと呼ぶでしょう」
と言っておりました。あの御方のご計画の全てを理解したというわけではないでしょうけれども、それにしても、母として立ち向かわなければならない困難や苦悩の一部は想像できたことでしょう。それでも、そのように賛歌をささげることができたのは、やはりあの御方が胎内の命として来られるというその偉大さを感じ取ったのではござりますまいか。私どももその賛歌を感動をもって聞きながら、心から賛同していたものでございます。
月が満ち、赤子としてお生まれになったあの御方のことを、私どもは幾人かで共に、夜番をしている羊飼いたちに告げに参りましたが、その言葉が思わず歌となってしまうほどに心が躍っていたのをよく覚えております。
「グロリア、インエクセルシス・デオ」
当時の人間の言葉でもって表しましたが、後々までもその言葉が語り継がれているところを見ますと、私どもの思いと人間の思いとが一致していた、稀な例と言ってもよろしいようでございます。
あの御方は、決して焦らずに、他のすべての人間と同じように、少しずつ少しずつ、成長をなさいました。ひもじければ泣き、乳を与えられれば笑い、排せつをすれば泣き、父母があやせば笑い、眠くなれば泣き。寝返りを覚え、這うことを覚え、立ち上がることを覚え、やがて歩むことを覚え。あの御方が設計された通りに、一つ、一つ。まるでその過程をお心に刻みつけるように、大切に大切に過ごしておられました。私どもと一緒にこちらからその様子をご覧になられていた、父なる御方も、何一つ見落とすまいと慈しむ目を離しなさいませんでした。もちろん、あの御方に、見落とす、などということはあり得ないのでございますけれども。
あの御方が赤ん坊となられて初めて、ことばを発せられた時のことは忘れられません。
「アッバ」
たったひとことでございましたが、ようやく使い方を覚えつつあったその声と舌を用いて、はっきりと口になさいました。あの御方が人となられた土地の、幼子が父を呼ぶことばでしたが、人としての父、ヨセフという男に向かって発せられながら、こちらにおられる父なる御方への呼びかけでもあったのでしょう。なにせ、私どもが存在するよりも以前からずっと、深く途切れることのない交わりを持っておられたのが、母の胎に宿られてからというもの、呼びかけることすら、できずに来られたのですから。
感銘を受けたのは、ようやくことばを発せられたあの御方ご自身の喜びもさることながら、その幾倍も大きく喜んだのは、その両親である、二人であったということでした。父のヨセフなどは、うっすら涙すら浮かべていたようでございます。人間の営みの中でも、子を育み、慈しむというのは、最も深い部分のことなのでございましょう。やはり彼らのうちに、あの御方の慈しみの形を、一部ですけれども見ることができるのでございます。
父なる御方も私どもも、そうしたあの御方が人間として踏んでいかれる成長の過程の一つ一つに、いちいち大喜びをしていたものでございます。
人間の時間にして、三十年が経った頃、立派な成人となられたあの御方は、それよりも少し前より「悔い改め」を解いてバプテスマを授けていたヨセフという男の下に行かれました。ヨハネはその姿を一目見て、それが長く待ち望まれてきたあの御方であるということが分かったようでございました。もちろん、それをお示しになられたのも、あの御方のもうひとつのお姿、霊なる御方ご自身であられたのですけれども。
彼はあの御方を見て、ひれ伏そうといたしました。それはそうでございましょう。創造主なる方が目の前に来られているのですから。
「わたくしこそ、あなたから洗礼を受けるべき者です」
それは正しく真実なことばでございましたけれども、あの御方はお答えになられました。
「今は、そうさせてもらいたい。すべて正しいことはわたしたちにふさわしいのだから」
悔い改める必要など、ない方でございます。けれども、三十年間の、人としての暮らしに区切りをつけられ、いよいよ用意しておいでになったご計画を実行に移されるにあたって、方向を転換するという意味では、その決意を表明するにふさわしい幕開けだったのでございましょう。
それは、たいそう神聖な場面でございました。ヨルダンという川は決して大きなものではありません。細々と雑草の生えている程度の荒涼とした地に、数多くの人間が集まり、その様子を見ておりました。彼らもまた、ヨハネから洗礼を受けるために待っていたのでございますから、それなりに思いを持った者たちの集まっているところでございましょう。あの御方はその中で川の中央までしずしずと進まれ、水に沈まれなさいました。ちょうどその三十年前に私どもが共におりましたところから、人間の世界、エバの子孫の胎内に飛び込まれたように、ヨルダン川の流れに沈み、そこから再び顔を出された時には、私ども一同も思わず感嘆の声を上げざるを得なかったものでございます。そしてそれ以上に、父なる御方と霊なる御方も高揚なさっておられました。父なる御方は、
「これはわが愛する子。わたしはこれを喜ぶ」
と宣言されました。そこにいた一同に向かってのみならず、私どもを含め、様子を見守っていたあらゆる存在に向かってなのでございましょう。そのお声は、心なしか、誇らしげであられたように思います。霊なる御方は水から上がられたあの御方の上に舞い降りなさいました。この時を境に、後に公生涯と言われる時期に入られるのでございます。あらかじめ定めておられたことなのでしょうけれども、はずむように降りていかれるその様は、あたかも白い鳩の空を舞う姿に見えたものでございます。
霊なる御方はあの御方を町には戻されず、そのまま荒野へと導かれました。父なる御方も私どもがお仕えすることをお許しにならず、湧く泉とてない、乾いた風の吹くばかりの地をひたすら歩ませなさいました。
かつて人間を誘惑し、今に至るまで彼らのことを訴え続けている蛇の末の一族が、今度は女の子孫としてお生まれになったあの御方を堕とそうと手を尽くしました。照り付ける日を遮るわずかな灌木を枯らし、夜には獣の彷徨を聞かせ、絶え間なく体力を奪う過酷な環境を用いて、あの御方の持たれた心身を責めさいなみました。
そうまでして救済の計画を実行せねばならぬ価値など、人間にあるのか。そんなに荒野で意地を張らずに、父なる御方のもとに戻りたくはないのか。望むならば、すぐにでもそれは実現するだろうし、仮にそうしたとしても、何人たりともそれを咎めることはないのだ、等々。
そうして、過酷な環境の中を耐え抜いて、もはや生命の維持すらおぼつかないという段階に至って、朦朧としておいでのあの御方に向かって、かの者は告げました。
「あなたが神の子なら、この石をパンに変えればよい」
他の人間にとっては荒唐無稽に過ぎないこの申し出は、しかしそれを確かになすことがお出来になる、創造の主なる方にとっては誘惑となりました。力を持つ者にとって、その力を意のままにふるうてみよ、ということは抗いがたい誘惑となります。事実、かの者はその後もあの御方の生涯にわたって、この問いかけを続けました。後に十字架の上で、
「お前がキリストなら、自分と私たちを救え」
とののしった強盗に言わせた言葉などは、その典型でございましょう。それにしても、何十日もの間食を断って、朦朧としている状態の人間に投げかけるものとしては、なんと残酷なことばでございましょうか。私どもは情け容赦のないその言い様に色めき立ったのでございますが、あの御方は見事にこれを一蹴なさいました。
「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出ることばによる」
あの御方は、父なる御方のことばそのものであられた方でございます。さかのぼること千五百年あまりの以前に、モーセにお伝えになったことばを用いてお答えになられたのでございます。私どもはこれを聞いて、あの折に、モーセにお告げになりながら、このように返すことをも用意なさっておられたのかと強い感銘を受けたものでございます。
次いでかの者は、あの御方の体を断崖絶壁の上に運び、
「ここから飛び降りてみよ。御使いたちに命じて、その足が石に当たることのないようにされる、と書いてある」
と言いました。あの御方が「神のことばによって生きる」と返されたものですから、これはもう、挑発でございます。そんなに言うならば、その証拠を示してみよ、というわけでございます。正直なところを申しますと、飛んで行ってあの御方の肉体を守ろうとしたのは私どもだけではございません。しかしあの御方は
「神である主を試みてはならない」
とお答えになりました。人間の世界には赤面、という表現がございますけれども、あのお答えを聞いた時の私どもはまさに、顔から火の出るような思いをしたものでございます。
かの者は懲りずに、あの御方に人間の世界の栄華をすべて見せ、
「わたしを拝むなら、これらすべてをあなたに差し上げよう」
と申しました。アダムたちの失敗以後、人間の社会はかの者の牛耳るものとなっておりました。ですから、一連の誘惑の中でもこれは実質のある取引という側面があるでしょう。もとより人間をかの者たちから取り戻すということがご計画の目的であったわけですから、それですべてを解決することができるかもしれぬ、という思いは私どもにもよぎりました。しかしあの御方は毅然とした態度でそれを断ち切られました。
「主にだけ仕えよと書いてある」
そうでございます。三位一体と言われる完全な一致の中にこそ、まことの目的があるのでございます。形ばかり取り戻したとて意味はない。あの御方は全くぶれることなく、かの者は退散したのでございます。それを合図として、私どももあの御方のもとに駆け付けることを許されましたので、大急ぎで馳せ参じたものでございました。
ああ。あの御方のそれからの三年余りの歩みについては、あえて触れますまい。とりわけ、その締めくくりにあの御方が人間の手に捕らえられ、鞭打たれた時のご様子など、今こうして思い出しかけるだけでも、どうにかなってしまいそうでございます。
あの御方は実に忍耐強くその辱めを受けとめられ、あまつさえ両の手を釘で刺し貫かれた時には、
「父よ彼らを赦したまえ、彼らは何をしているのか分からずにいるのです」
と祈っておられました。なんと気高い祈りでございましょうか。
そうして、私ども一同が息を呑んで様子を見守る中、父なる御方は厚い雲を送って太陽の光をさえぎり、全地を真っ暗になさいました。私どもにも全く見えなかったのでございますから、単に夜の景色となったという訳ではござりますまい。他の何者にも、その様子を見せまいとなさったのでしょうか。その霊的な暗闇の中に、あの御方の声が響きました。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」
それは千五百年ほどさかのぼった時代の、あの御方の血脈に通じる一人の王の苦しみの叫びでありました。裏切られ、追い詰められた中で呻くように書かれたその詩を、あの御方は口になさいました。それは余の者には決して体験することも、想像することもできない苦しみであり、悲しみであったことでしょう。
そうして、さらに数刻の後、
「わが霊を御手にゆだねます」
との御ことばと共に、あの御方は骸となられました。命を創造なさった御方が、でございます。無論、骸となったのはその肉体のみでございましたけれども、私どもと共に様子をうかがっておりました誰もが、声も出せませんでした。
ただ、あの御方は息を引き取られる直前に、
「完了した」
とも宣言されました。かつて園で人間が蛇の誘惑に負け、禁断の木の実を口にしてしまった、あの時から、もしかすると人をお造りになったその時から、いや、光よあれ、と仰せになったその時から、あの御方が心に秘めてこられた救済のみわざに関するご計画が、まさに完了したのがその時だったのでございます。
それは喜びと呼ぶにはあまりにも厳かな瞬間でございました。しかし確かに地は揺れ動き、黄泉の門すら開きました。あの御方は、ご自身と人間とを隔ててしまっている、罪というものの象徴として作らせなさった神殿の聖所と至聖所を区切る幕を、上から下まで真っ二つに割いておしまいになりました。閉ざされた空間の中でのことでしたので、人間の中には目撃した者も多くはなく、大きな話題にはなりませんでしたが、私どもには大変象徴的な出来事でございました。年に一度、大祭司のみが入ることをゆるされた至聖所の側から、日頃礼拝がささげられている聖所の側に、光があふれていくように見えたのは私どもだけではござりますまい。
あの御方は、骸となった肉体を布でまかれて、穴の中に横たわっていらっしゃいましたけれども、三日の後、私どもと同じ体に変えられて、よみがえりなさいました。私どもは、穴の入り口をふさいでいた岩を転がし、人間が中の様子をのぞき込むことができるようにいたしました。
そのお姿は、あの御方が人間となられる以前と寸分変わらぬ光を放っておいででしたけれど、その手には釘の傷跡が残っておりました。実際の傷である以上に、父なる御方との関係の断絶によって受けられた霊の傷とでも申しましょうか、そんなことが大きく影響しているのではないかと思われました。
ただ、今に至るまでもあの御方は、ご自分の手に残るその傷跡を見て、満足気にうなづいておられます。あの御方にとっては、それはご自分の手に刻まれた、人間の命そのものを表す銘なのでございましょう。
創造主のことばそのものとして人間の世界に降りられ、彼らのための贖罪のみわざを終えられたあの御方は、ご自分のことばをそばにいた人間たちにお委ねになって、私どものおりますところに戻っておいでになりました。
それからというもの、あの御方は以前にもまして、人間の世界のことをじっと注視なさるようになられました。とりわけ、そのことばをお委ねになった、人間の間でキリスト者と呼ばれる者たちの歩みについては、それこそ食い入るように見つめておられました。
あの御方が地上におられたときには、愚かで弱くて、自分の欲にとらわれてばかりいた彼らでございましたが、あの御方がこちらに戻っておいでになり、入れ替わりに霊なる御方がその内に入られてからというもの、目を見張るような変わり様で活躍をし始めました。ある者はあの御方がなさったように多くの人間の病をいやし、ある者はまるであの御方が語られるように、力強く、大胆にあの御方のことを物語りました。またある者はことばを携えて世界中を飛び回り、あの御方のことを知らせて歩きました。まるで、地上にあの御方の分身が増え広がっていくように、私どもの目には見えたのでございます。
蛇の末の一族は、それはそれは怒り、怯えておりました。それはそうでございましょう。あの御方のご計画を無にせんと様々に尽くした手のことごとくが破れ、目の前にあの御方の勝利のお姿が顕現されつつあるのでございます。すなわちそれは、頭を踏み砕くと宣言されたかの者どもの、滅びの始まりでもあるわけでございますから。
かの者どもは、彼らをなりふり構わずに、迫害し始めました。時の権力者をはじめ、かの者どもの手にある人間を用いたその迫害のあり様は、それまでの人間の社会にあったあらゆる非道な姿を越えて残忍なものでございました。ある者は獣に喰われ、ある者は生きながらにして焼かれ、しかもその様を、他の人間たちは興を求めて喜んで見物をしていたのでございます。それが恐らく、私どもの中でも最も美しく、気高い姿を持っていたはずのかの者の、本性があらわになったものだったのでございましょう。
そうした迫害の中で、はじめに命を落としたのが、ステパノという人間でした。そうそう、あなたご自身も、あの場に立ち会っておられたのでございましたね、パウロ殿。
彼はあの御方が直接任じた十二名の指導者たちを、補佐するために選ばれた一人でございました。元はやはり名もなく弱く、貧しき民の一人に過ぎませんでしたが、霊なる御方の力を受けて知恵にあふれてあの御方のことを物語っておりました。反対する人間たちが、蛇の末なるかの者どもにあおられ、どんどんと昂っていく中、少しも引かず怯えることもなく、堂々と語る彼の姿を、私どもも感心して見ていたのでございます。
やがて彼らのうちの一人が取り上げ、投げつけた石は、ステパノの体を襲い、破けた皮膚からは、血が流れ出ました。すると、周りを取り囲んでい叫んでいた人間たちが堰を切ったように我も我もと石を取り上げ、投げつけ始めたのです。
私どもは最初の者が石をつかんだ時に声を上げかけたのでございますけれども、ただならぬ気配に振り返りますと、あの御方が思わずその御座から立ち上がっておいでになったのを見ました。まるでご自身が責められているかのように、拳を握りしめ、周りにいて石を投げる者達を焼き尽くさんとするばかりの熱いまなざしで、その様子をじっと見守っておいでになりました。はらはらと動揺しながら見ていた私どもは、あの御方が誰よりも心を痛めておられるのだということに気付き、気を静めたのでございます。
次々と石が投げつけられ、全身が傷だらけになりながら、ステパノは怯んではおりませんでした。見上げたものでございます、彼は息を引き取る際、自らの血に沈んでいきながら、あの御方がそうされたと同じ様に、
「父よこの罪を彼らに負わせないでください」
と祈りました。霊なる御方の導きの中で、あの御方と彼の間には、深い同調があったのでございましょう。そうして地上での命を終え、私どものいるところに戻って来たステパノを、あの御方はひしと抱きしめてお迎えになりました。私どもも、深い感動を持って、彼を迎えたものでございます。
この話を聴くことはあなたにとっては少々つらいことではありましたでしょう。ただ、あなたが見ておられたその風景の、私どもからはどのように見えていたのかということをお伝えしておくようにと、あの御方から仰せつかったわけでございます。
同じ様に石打たれたのでございますが、あなたにはまだお役目があるとのことですので、今しばらく、旅の続きをなさいませ。
さあ、お伝えすべきことは話し終わりました。それではそろそろ、お戻りください。お仲間の方々も、心配して待っておいでです。いずれ、また。
再び自らを包んだ白い雲が晴れ、パウロが目を開けると、自分を取り囲んで心配そうに見下ろしている仲間たちの顔があった。中には早くも涙を流している者もいる。
「目を開けたぞ、パウロ。大丈夫か」
バルナバの手が頭を支え、起き上がらせてくれた。動き出そうとして初めて、パウロは自分が怪我を負っていることに気が付いた。しかしどうやら、さほどの重傷でもなさそうである。死に至らしめるために石を投げられたにしては、考えられない奇跡である。
今しばらく、旅の続きを、か。パウロは立ち上がり、何事もなかったかのようにして、その町を出て行った。
パウロ殿、お目覚めになりましたか。お久しぶりでございます。ご自身で他の方々に書き送られた通り、あなたが走るべき行程を走り終えて眠りにつかれてから、人間の時間にして二千年、というところでしょうか。
多くの血が流れる中で、けれどもそれ以上に多くの回心の涙が流されました。あなた方が命を賭して広めた救済の教えは、今やこの地の表の、あらゆるところに広がりました。
そろそろ時が来たようでございます。私どもはこれより、あの御方と共に再びあなた方人間の地に向かいます。そうして、眠りについている者も含めてすべての、あの御方の民を呼び集めて参ります。それが、用意されてきた「恵みの時、救いの日」の終焉でもございます。
さあ、私どもの頭が、号令をかける用意を始めました。その号令と共に吹き鳴らすことになっておりますラッパを、用意しなければなりません。私どもも長い間、この時を待っておりました。ほどなく、あなたの仲間の方々も残らず、ここにお連れします。いましばらく、お待ちください。
それではここいらで失礼させいただき、行かせていただくといたしましょう。
ごめんくださいませ。
第三の天にて 十森克彦 @o-kirom
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